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第95話 備える

 朝、セインからの急便が届いた。


 いつもより短かった。


 「宗教国家がルゼへの追撃を止めた。軍が西を向いた。イグレアの方角だ。セイン」


 ナナは文書を折りたたんで、立ち上がった。



 グリム、ドーガ、エリス、リーゼ、オズ、リシュア、リーファ——呼べる者を全員呼んだ。


 中庭に集まった。難民の者たちが少し離れた場所で見ていた。ナナはそちらを確認してから、全員の顔を見た。


「宗教国家が来ます。時間はあまりありません」


 誰も声を上げなかった。グリムが腕を組んだ。ドーガが静かに前を向いた。エリスが頷いた。リシュアが壁に背を預けたまま動かなかった。


「今から話すことは、全員に関係します。それぞれの場所でやってほしいことを伝えます」


 ナナは順番に話した。グリムには機動戦の訓練をさらに絞り込むよう頼んだ。少人数で動き、速さで相手の判断を狂わせる形をもっと練ってほしいと。ドーガには集団戦術の密度を上げるよう頼んだ。先の戦いの経験者が今も訓練に加わっているはずで、その経験を組み込む形で。エリスには魔法隊の連携を強化するよう頼んだ。クルト、セルマ、ロスとの属性の組み合わせを実戦に近い形で試してほしいと。


 それぞれが頷いて、散っていった。


 リシュアだけが残っていた。



「今回は私が前に出る」


「前に?」


「暗殺者として使うなら、前に出た方が効く場合がある」


 ナナはリシュアを見た。リシュアも真っすぐナナを見ていた。


「具体的には?」


「勇者を使っているなら、勇者の動きを止める方が軍全体が止まる。前線の指揮官を狙う場合も同じだ。後ろに控えていては間に合わない」


「危険です」


「分かっている」


 ナナが少し間を置いた。「リシュアが判断したなら、私は止めません。ただ連絡なしに動かないでください。どこにいるか、常に分かるようにしてください」


「わかった」とリシュアが言った。短く頷いて、廊下の方へ向かった。歩き方がいつもと変わらなかった。ただ背中の空気が少し違った。


 (リシュアが前に出る。あの人が自分からそう言った)



 昼前、訓練場を横切った。


 グリムが20名ほどを2つの組に分けて動かしていた。一方が追い、一方が散って逃げる形だった。逃げる側の動きが速かった。ドーガが反対側の端で別の組に声をかけていた。盾を使う構えの練習で、人と人の隙間を塞ぐ動きを繰り返させていた。


 訓練場の隅に、レンとリアがいた。


 並んで立って、的に向かって弓を引いていた。レンが先に撃った。リアが続いた。2本の矢が的に刺さった。リアの方が少し外れたが、的の中に入っていた。


 レンが隣を見た。何も言わなかった。もう一度的の方を向いた。


 リアが弦を引き直した。形が先月と違う。肘の角度が安定していた。


 ナナは立ち止まらなかった。通り過ぎながら、横目で見た。



 午後、ミュリエが中庭に出ていた。


 何もない空中に手をかざしていた。指の先から薄い光のようなものが滲んで、城壁の輪郭に重なった。城壁がそこにないように見えた、一瞬だけ。


「ミュリエさん」


 ミュリエが振り返った。「見てたの?」


「少し。どのくらい続けられますか?」


「集中していれば半日は持つ。地形に合わせて固定しておければ、もっと長い。敵が大勢いた方が効くわ。惑う人数が増えるから」


「訓練場の地形で試せますか?グリムと調整してもらいたいのです」


「いいわ」とミュリエが言った。それから少し考えるような顔になった。「地形を活かした幻影を作れる。敵を迷わせるわ。あなたの城壁と組み合わせれば、来た方向が分からなくなる」


「それを使いましょう」


「なら、もう少し準備が要るわ。城壁の外を歩かせてもらえる?」


「レンに案内させます」


 ミュリエが頷いた。楽しそうだった。戦争の準備をしているのに、どこかそれが美しいと思っている顔だった。



 夕方、廃港から荷が届いた。


 外海の商人が2週間ぶりに来港したという。小麦、干し肉、塩、それから工具類が数箱。オズが受け取りを確認して、倉庫に回した。先月から安定してきた流れが今月も続いていた。


 荷が届いたことをオズから聞きながら、ナナは訓練場の方角に目をやった。グリムが声を上げているのが遠くから聞こえた。日が落ちても止まらないつもりだろう。



 訓練場の端に、見慣れない顔が立っていた。


 夕暮れの光の中で、男が動く者たちを見ていた。40代ほどの、背が低くて肩の厚い男だった。手に油の染みがあった。クレモア領から来た技術者だ、とナナは思った。以前オズから名前を聞いていたが、直接話したことはなかった。


 ドーガがその男に近づいた。何か話しかけた。男が答えた。ドーガがもう一度聞いた。男がうなずいて、手を動かして何かを説明した。ドーガが頷いた。


 ナナはそれを少し離れた場所から見ていた。近づかなかった。



 夜、ドーガが部屋に来た。


「さっきの男のことを報告する」


「はい」


「蒸気兵器の弱点を教えてもらった。設計者ではないが、整備していた。内側のことは分かる、と言っている」


 ナナはドーガの顔を見た。ドーガの目が真っすぐだった。


「どんな弱点です」


「熱を制御する部分がある。そこに負荷がかかると、砲の出力が落ちる。砲撃の間隔が長くなる。以前の戦いで使われたものと同じ設計なら、同じ弱点があるはずだ、と」


 (使える。が、確認が要る)


「その男に、もう一度聞きます。できれば明日、直接話させてください」


「手配する。あいつは真面目な男だ。嘘をつくような顔じゃない」


「ドーガがそう言うなら、信じます」


 ドーガが少し動いた。「信じる根拠が俺の顔か?」


「ドーガの判断眼を信じます」


「……分かった」とドーガが言って出ていった。


 (準備をする。できる限りの準備を)


 机の上に積み上がった文書を見た。セインへの返信、エルドランへの確認、ヴェルナー公爵への一報、技術者との面談の段取り。やることは見えていた。見えているものから順番にやる。


 全部終わらないとしても、できた分だけ積み上がる。積み上がった分だけ、次に使える。



 夜更けに、城壁に上がった。


 東の空は暗かった。星がいくつか出ていた。大森林の方角は木々の輪郭が空に溶けていた。旧クレモア領の向こう、もっと遠い場所から何かが向かってきていた。


 (来る。しかし、ここはもう廃墟ではない)


 城壁の下を見た。居住区の灯りが散っていた。天幕の中にも明かりがあった。食堂の灯りがまだ消えていなかった。廃港からの荷が倉庫に積まれていた。訓練場には今日の足跡が残っていた。


 ここには人がいた。仕事がある。食べるものがある。守る理由がある者が、それぞれの場所にいた。


 ナナは城壁の縁に手を置いた。石が夜の冷気を持っていた。


 かつて廃墟だった場所が、今は人が集まり砦となっている。


 来るなら来い、とは思わない。ただ来ても、ここは壊させないと思った。思いながら、城壁の上に立ち続けた。

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