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第94話 ルゼの敗走

「緊急です」


 ジャックが朝の報告時間より早く部屋に来た。顔色が違った。廃港経由で急便が届いたという。


 ナナが受け取って開いた。


 「ルゼが勇者の追撃を受けて北東のさらに奥へ敗走した。

 純魔族の部隊の大半が壊滅した。ルゼは生きているが——戦力が激減した。

 宗教国家の軍は追撃を続けている。セイン」


 (ルゼが敗走した。宗教国家の次の標的が変わる)


 ジャックが出ていった後、ナナは文書を持ったまま立っていた。


 「壊滅」という言葉を目で追った。半壊ではない。壊滅だ。以前セインが「精鋭部隊が半壊した」と報告してきた時点では、まだルゼに戦力が残っていた。それが今度は「大半が壊滅」に変わった。北東の奥深くへ逃げた先で、もう一度打ち負かされたということだ。


 (ルゼは生きている。ただし動けない。宗教国家がルゼを追う理由がほぼなくなった)


 宗教国家にとって、ルゼはもう脅威ではない。追撃を続けているとあるが、それは止めを刺しに行くかどうかの話だ。止めを刺さなくても、宗教国家の目的は達成に近づいた。


 向きが変わる。



 フェンリルを呼んだ。


 「グラ=ベイルにルゼの敗走を伝えてください。今朝のセインの文書の内容を」とナナが言うと、フェンリルは頷いてすぐに南へ向かった。返事が来るまで半日かからないはずだった。


 その間にオズと話した。ヴォルクに難民の動向を確認させた。レンを呼んで北東の方角の斥候を依頼した。


 レンが出ていく前に少し足を止めた。


「ルゼが終わったなら——難民の流れが変わるか?」


「変わります。ルゼに追われていた者は来なくなります。代わりに別の者が来ます」


「どこから?」


「宗教国家の進路から外れた者たちです。あの国の軍が近づけば、逃げる者が出ます」


 レンが頷いた。何も言わずに出ていった。



 午後、フェンリルが戻ってきた。


 グラ=ベイルの言葉を口頭で伝えた。


「グラ様がおっしゃっている。『ルゼは終わっていない。ただし当分は動けない。我は南の守りを固める。お前はどうする』と」


「東に備えます」


 フェンリルが頷いた。「そのまま伝える」と言って、また南へ向かった。


 (グラ=ベイルは南を守る。こちらは東を見る。変わらない分担だ)


 ただし状況が変わった。ルゼが動けなくなったということは、宗教国家が北東に力を使う必要がなくなったということだ。向きを変える余裕ができた。その分だけ、こちらへ向く速度が上がる。


 グリムに知らせた。ドーガに知らせた。エリスに知らせた。それぞれが頷いて、それぞれの場所に戻った。



 翌朝から、難民の顔が変わり始めた。


 ヴォルクが昼の報告でそう言った。「昨日まではルゼの勢力圏から来ていた方が多かったです。今朝来た者たちは、旗印がある軍に追われた、と言っています。光の紋章の旗だと」


「何人ですか?」


「今日だけで9人。うち6人が人族です」


 人族。宗教国家から逃げてきた人族が来ている。宗教国家は人族の国だ。その国の軍に追われて逃げた人族が、魔王の街に来た。


「武器は?」


「持っていません。疲弊しています。子供が2人います」


「食堂に案内してください」


「はい」とヴォルクが言って出ていった。


 ナナは少し考えた。宗教国家から逃げてきた人族が、ルゼから逃げてきた魔族と同じ食堂で食べる。同じ場所に来て、同じものを食べる。それが今のイグレアだった。



 (ルゼから逃げてきた者と、宗教国家から逃げてきた者が同じ場所に来ている。クレモア領から弾かれた者も、まだ来ている)


 夕方にもまた数人来た。翌日にも来た。ルゼ方面からの流入は確かに減っていた。ただしゼロにはならなかった。逃げ場のない者は方角に関係なく、人の集まるところへ向かう。ここが人の集まる場所だと、どこかから聞いたのだろう。


 オズが来月の試算を出し直した。人数の増加ペースは変わっていないが、出身の内訳が変わっていた。廃港の物資は安定していた。ターニの農地の拡張が先週から始まっていた。数字は動いているが、破綻はしていない。



 3日が経った夜、ナナは食堂に寄った。


 夕食の時間を少し過ぎていた。それでも席はほぼ埋まっていた。


 入り口から中を見た。


 奥の席に魔族の男が2人、椀を持って黙って食べていた。ルゼの方角から来た者たちだ、とナナは思った。その隣のテーブルに人族の家族が座っていた。子供が1人、親の膝に半分乗るようにして座っていた。宗教国家の軍に追われて来た者たちかもしれなかった。分からなかった。


 別のテーブルに、クレモア領の出身と聞いていた獣人の若者が座っていた。隣には知らない顔があった。種族が分からなかった。それでも並んで座って、同じものを食べていた。


 どちらも黙って食べていた。


 ナナはそれを見た。何も言わなかった。


 それで良かった。


 言葉が要らない場所がある。説明が要らない場所がある。ただ同じ椀を持って、同じ席に座っている。それだけで成立している何かがあった。ナナが作ろうとしたわけではなかった。来た人を受け入れていたら、こうなっていた。


 灯りが揺れた。誰かが入り口を開けたのか、夜風が入ってきた。


 ナナは入り口から離れた。廊下を歩いて、部屋に戻った。



 机に向かって、セインへの返信を書いた。「ルゼ敗走を確認しました。宗教国家の次の動きを引き続きお願いします。軍が向きを変えた場合、最初の動作を優先して知らせてほしい」。


 書いて、封をした。


 それからエルドランへの確認文書も書いた。「ルゼが敗走しました。宗教国家の軍がルゼを追う必要が薄れました。大森林への圧力が増す可能性があります。監視を続けてください」。


 2通を並べた。


 窓の外は暗かった。居住区の灯りがまだ出ていた。天幕の中にも明かりがあった。それぞれが眠れずにいるのか、あるいは話しているのか、ナナには分からなかった。


 (東に備える。それが今できることだ)


 ナナは2通を重ねて机の端に置き、灯りを落とした。

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