第93話 宗教国家の使者
大森林から戻って4日が経った。
その間も何かが動いていた。エルドランから東縁の監視報告が1日おきに届いた。セインからは大森林の件を宗教国家がどう受け取ったかという途中経過が2通来た。いずれも「上層部まで届いた」という内容で、続報を待つしかない状況だった。ヴェルナー公爵からは「情報を受け取った。注視する」という短い返事があった。
イグレアの側では、ドーガが訓練の組み方を変えた。集団で動く練習から、より少人数での素早い展開へ。グリムが機動力の訓練と組み合わせて、朝から日が落ちるまで動かしていた。
ナナは書類仕事と外への文書作成を続けた。オズが食料の再試算を出してきた。廃港からの物資がようやく安定してきて、来月分の見通しが少し改善した。
そうして4日目の昼前、城門に使者が来た。
白い外套だった。
宗教国家の紋章——光の輪——が胸元に縫い取られていた。供が2名いた。武器は帯びていたが、鞘に収めたままだった。城門のダリオから知らせが来て、ナナが中庭に出た。
使者は背が高い人族の男だった。40代前後で、顔に感情がなかった。外交の仕事をしてきた顔、とナナは思った。どんな言葉を受け取っても表情を変えない訓練をされている。
ナナが中庭の中央に立った。使者が向かい合った。
「魔王ナナミア=ヴァル=ミリスに告ぐ」
声が中庭に響いた。周囲にいた数人が足を止めた。
「聖戦への協力を求める。魔王の称号を捨て、人族として宗教国家の庇護下に入れ」
ナナは使者を見た。使者もナナを見ていた。子供が立っているとは思っていないだろう。
「断ります」
使者の表情が動かなかった。
「拒否すれば討伐対象となる」
「分かりました」
一拍の間があった。
使者が何かを言おうとした。ナナの返答が想定の範囲内だったのか、そうでなかったのか、外からは分からなかった。使者は結局何も言わなかった。一礼して、踵を返した。供の2名が続いた。城門が閉まった。
中庭が静かになった。
周囲の者たちがナナを見ていた。ナナは中庭を見回した。視線が合った者は自然に仕事に戻った。難民の者は何が起きたか分からない顔をしていた。それでいい。今説明することではなかった。
ダリオが近づいてきた。
「団長、追うか?」
「必要ありません。戻る道は分かっているはずです」
「そうか。いつ来るだろうか?」
「ルゼが片づいてからです。今日ではありません」
ダリオが頷いて、城門の方に戻った。
グリムが来たのは、そのすぐ後だった。
訓練場から来たらしく、革鎧に汗が滲んでいた。城門の方向を一度見てからナナに向き直った。
「来るか」
「来ます」
グリムが少し間を置いた。表情は変わらなかった。ただ、目のあたりが少し違った。怒りでも不安でもなく何かを確認した、という顔だった。
「……使者は」
「正式な使者でした。称号を捨てて庇護下に入れ、と。断ったら討伐対象になると言いました」
「お前の返事は?」
「断ります、と。分かりました、と」
グリムがしばらく動かなかった。城門の向こう——東の方角を見た。
「準備はできているか_」
「続けましょう。まだ時間はあります」
「時間、か」とグリムが言った。それ以上は何も言わなかった。訓練場の方向に歩き始めた。途中で一度だけ振り向いた。ナナを見た。見てから、また歩いた。
(宣戦布告に等しい。ただし今すぐではないだろう。ルゼの件が終わってからだ)
部屋に戻って、机に向かった。
使者が来るだろうとは思っていた。時期も、おおよそ予測の範囲内だった。それでも実際に「討伐対象となる」と口にされると、言葉の重さが変わった。脅しではなく、手順の話だった。宗教国家には、こういう場合の手順がある。使者を送って宣言する。断られたら次の段階に進む。今日はその手順の一つが完了した。
次が来るまでの時間に、何ができるか。
ナナは紙を出した。今日の時点でできていること、まだできていないことを書き出した。廃港の物資ルートは安定してきた。大森林の連携はエルドランと確認した。グラ=ベイルとの南側の分担はフェンリルを通じて確認済み。ストーンフォールとゴルドーで北の峠は守られている。ミュリエの幻術は準備中。魔法隊の連携訓練はエリスが進めている。
足りないものの方が多かった。
書き終えて紙を折り、引き出しにしまった。
夕方、セインから文書が届いた。
廃港経由で、急いで送ってきた様子だった。
「宗教国家内部で議論がある。
一部の将軍が、ルゼを倒す前にイグレアに目を向けるのは非効率だ、と言っている。
ただし強硬派が押している。どちらが勝つかは分からない。
今日イグレアに使者を送ったはずだ。その結果も議論に影響する。セイン」
(内部に温度差がある。ただ当てにはできない)
一部の将軍が慎重派、という情報は動かせない。慎重派が勝てば時間が延びる。強硬派が勝てば早まる。どちらになるかは外から操作できない。ただ温度差があるということは、宗教国家が一枚岩ではないということだ。その隙がいつか何かに使えるかもしれない。今ではない。
セインへの返信を書いた。「使者が来ました。断りました。内部の議論の動きを引き続きお願いします。慎重派の将軍について、もう少し詳しい情報があれば」。
書き終えて封をした。明日の朝に出す。
部屋が暗くなってきた。外からは訓練場の声がまだ聞こえていた。グリムが夜まで動かしているらしかった。
ナナは机の上の紙に今日書き出した、できていることとできていないことの一覧をもう一度開いた。
使者が来た。次は軍が来る。その前にここで何を積み上げられるか。
「今日ではありません」と言った。それは本当だった。ただし「今日ではない」と「来ない」は違う。
ナナは紙を閉じた。訓練場の声が、外でまだ続いていた。




