第92話 大森林の戦い
リーファが走ってきたのは、昼の訓練が終わりかけた頃だった。
「ナナ。エルドランから、大森林の北縁に宗教国家の軍が来ている。通過させてくれと言っている」
ナナは手を止めた。
「どのくらいの規模ですか?」
「100人以上。旗を立てている。武装している」
「シィラは?」
「昨日帰ったばかり。エルドランが精霊経由で直接言ってた。急いでいる」
ナナはすでに動いていた。廊下を歩きながらエリスを呼んだ。エリスが部屋から出てきた。ナナの顔を見て、何も聞かずに魔法隊を集めに走った。
精霊を通じてエルドランと話した。
「通してくれと言っている。ルゼを追うために、と」とエルドランが言った。精霊の声は平坦だったが、その奥に緊張があった。
「通さないでください」
「根拠は?」
「大森林を通過した後、そのまま占領する可能性があります。ルゼを追うという名目で入り、出て行かないケースは歴史上繰り返されています。大森林を一度通らせれば、次は理由を作って居座る。そういう動き方です」
精霊の声が少し止まった。エルドランが考えていた。
「……分かった。断る」
「私も行きます。《戦場転移陣》で飛べます。エリスと魔法隊を連れていきます」
「早く来い」
声が途切れた。
「エリス」
「準備できてる。クルト、セルマ、ロスも来る」
「グリムに伝えてください。私たちが大森林へ飛ぶと。戻るまでイグレアを頼むと」
「もう伝えた」
ナナは目を閉じた。魔力を練った。《戦場転移陣》——自軍を瞬間移動させる空間魔法。大森林への座標は、精霊から受け取った位置情報で合わせる。
「掴まってください」
エリス、クルト、セルマ、ロスが近づいた。ナナが魔力を解放した。
光が弾けて、足の下の感触が変わった。
石畳から土へ。空気の匂いが変わった。木の香り、湿った土、精霊の気配——大森林の北縁だった。大木が頭上に広がり、葉の隙間から午後の光が斜めに落ちていた。
すぐ前にエルドランがいた。背の高い精霊族の男で、顔に険しさがあった。その後ろにシルヴァンと数名の精霊族の戦士が並んでいた。
北の木々の向こうに、旗が見えた。
光の紋章。宗教国家の旗が、風の中に立っていた。
「来た」とエルドランが言った。「交渉は終わった。断った。それでも動いている」
旗が前進していた。静かに、しかし止まらずに。
「エルドラン、結界を」
「張る。ただし人数が多い。圧力をかけてくれ」
「任せてください」とエリスが言った。クルトとロスが両脇に並んだ。セルマが後方に回った。
精霊族が大木の幹に触れた。木々の間に薄い光の膜が広がっていった。精霊の結界——見えているのか見えていないのか判断がつかない、ただし確かにそこにある壁だった。
宗教国家の前哨部隊が結界の前で止まった。
先頭の将校らしき男が声を上げた。「退け。我らはルゼを追っているだけだ。通過させれば手は出さない」
ナナが前に出た。
「通しません」
将校がナナを見た。小さな子供が前に立っているとでも思ったのか、一瞬表情が揺れた。それから銀色の髪を見て、その目を見て、顔が変わった。
「……魔王か」
「ヴァル=イグレアの団長、ナナミア=ヴァル=ミリスです。大森林の通過は認めません。お引き取りください」
「聖戦の妨害をするつもりか?」
「大森林は精霊族の領域です。ここを通るかどうかは精霊族が決めます。精霊族は断ったはずです」
将校が剣に手をかけた。後方の兵が前に詰めた。
「雷鎚陣!」
ナナが魔力を地面に流した。北縁の土の下に魔力陣が広がった。光の線が走り、雷撃が地面から跳ねた——前哨部隊の足元を囲む形で、しかし当てずに。警告だった。
兵が止まった。数人が後ろに下がった。将校だけが動かなかった。
エリスが右手を上げた。炎が指先に集まった。クルトが足元の土を固めた。結界を強化する形で、土の壁が結界の前に積み上がっていった。セルマの風が木々の間を抜けて、宗教国家の旗を押し返した。ロスがエリスの横でじっと立っていた。手が震えていたが、足は動かなかった。
将校がナナを見た。ナナも将校を見た。
しばらくの間、声がなかった。
将校が剣から手を離した。一歩下がった。
「……この件は上に報告する」
「どうぞ」とナナが答えた。「報告の際に伝えてください。大森林は第七魔王の管轄下にあります。通過には同意しません、と」
将校が何かを言いかけた。止めた。踵を返した。前哨部隊がゆっくりと北に向かって下がっていった。旗が遠ざかった。
木々の間が静かになった。
精霊の結界が少しずつ薄れた。エルドランが近づいてきた。
「助かった」
「エルドランが断ってくれなければ防げませんでした」
「あなたが来なければ、断った後がもたなかった」とエルドランが言った。「あの雷撃——加減したな」
「当てるつもりはありませんでした。止まれば十分ですから」
エルドランが頷いた。それからエリスたちを見た。「魔法使いたちも——よくやった」
ロスが少し大きな声で「ありがとうございます」と言った。まだ手が震えていた。それでも返事はした。
エリスがロスの肩を一度叩いた。何も言わなかった。
シルヴァンが北の方角を見ながら言った。「引いたが、終わりではない」
「そうです」とナナが言った。「上に報告すると言っていました。近いうちに、今度は正式な形で来ます」
エルドランが木の幹に手を当てた。結界の名残がまだ残っていた。「東縁の監視を増やす。シィラに言っておく」
「お願いします。それと、もし宗教国家から交渉の申し入れがあっても、単独で応じないでください。必ず私に知らせてください」
「分かった」
(大森林への侵入を拒否した。これでナナが「障害」として認識された)
将校の目が思い浮かんだ。「魔王か」と言った時の、あの表情の変化。敵意よりも先に、何かを確かめた目だった。報告が上がれば、宗教国家はナナの存在を正式に問題として扱い始める。
《戦場転移陣》でイグレアに戻った。
城門の前にグリムが立っていた。腕を組んで待っていた。全員の顔を確認して、頷いた。
「戻ったか。怪我は?」
「全員無事です。戦闘にはなりませんでした」
「そうか」とグリムが言った。それから少し声を落とした。「どうだった」
「引きました。上に報告すると言っていきました」
グリムが城壁の東の方角を見た。
「来るな」
「近いうちに来ます。ルゼの件が先ですが。ただし、今日のことで宗教国家はこちらを敵として見るようになります」
「今まで見ていなかったのか?」
「まだ標的ではなかったと思います。これからは違います」
グリムが頷いた。「ドーガと話す。今夜、訓練の方向を変える」
「お願いします」
グリムが城内に向かった。エリスたちも続いた。ロスが城門をくぐる時に一度後ろを振り返った。東の空を見た。それから歩き続けた。
夜、ナナは机に向かった。
エルドランへの確認文書。セインへの報告依頼——宗教国家内部に今日の件がどう伝わるか。ヴェルナー公爵への一報——大森林の件を知らせておく必要があった。
文書を3通書いた。
書き終えて、手を止めた。
今日の将校の声が残っていた。「この件は上に報告する」。静かな、しかし確信のある声だった。脅しではなかった。事実を言っていた。
(障害になった。それが今日決まった)
ナナは3通を重ねた。明日の朝に出す。
灯りを落とす前に、窓の外を一度見た。居住区の灯りが広がっていた。天幕の分も合わせると、1か月前より明らかに多かった。
来た人は受け入れる。
それがここの形だった。その形を守るために、今日は大森林へ飛んだ。次はもっと大きなものが来る。




