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第91話 ミュリエ来訪

 中庭に見慣れない影があった。


 午後の光の中で、その人物は城壁の一部にもたれるようにして立っていた。長い紫の髪が風に揺れていた。どこから来たのか、誰も気づいていなかった。難民の列に紛れ込んだのか、あるいはそもそも誰の目にも引っかからずに入ってきたのか。後者だろう、とナナは思った。


 ミュリエ=メシスだった。


「様子を見に来たわ。賑やかになったわね」


 ナナを見て、小さく笑った。楽しんでいる、という顔だった。


「ミュリエさん、今は……」


「分かってる。戦争中でしょ。見ればわかるわ」


 ミュリエが城壁から背を離した。中庭をゆっくり見渡した。天幕が2張り増えていた。ダリオが張ったものだ。その周囲に荷を持った人々が座っていた。魔族が数人、他種族が混ざり、人族の老人が日向に出て背を丸めていた。言葉の通じない者同士が身振りで何かをやり取りしている場面もあった。


 ミュリエがそれをひととおり眺めてから、ナナに向き直った。


「……あなたはよくこんなことができるわね」


「来た人を受け入れているだけです」


「それが難しいのよ」


 ミュリエが少し首をかしげた。難しい、と言ったのに、どこか感心したような顔だった。


 2人で中庭の端に移った。人の流れから少し外れた場所だった。ミュリエが石の縁に腰かけた。ナナは立ったままでいた。


「いつ着きたのですか?」


「少し前。誰かに声をかけられる前に、あなたを探してたの」


「どこから来たのですか?」


「東の方から」とミュリエが言った。それからさらりと続けた。「勇者を見た。宗教国家の」


 ナナの足が止まった。


「どこでですか?」


「旧クレモア領の向こう。ルゼの軍と追いかけっこをしていたから、少し見ていたの」


「どう見えましたか?」


 ミュリエが少し顔を歪めた。眉が寄って、口の端が下がった。美しいものを見た時とまったく逆の顔だった。


「……むかつく。あれは道具よ。自分では何も考えていない。ただ前に進むだけ。美しくない。存在が——美しくない」


 ナナは何も言わなかった。


 ミュリエが視線を中庭に戻した。天幕のそばで、リーファが子供たちに何か話しかけていた。子供の一人が笑った。


「私、手伝う。戦いたくはないけど——あれが大陸を歩き回るのは嫌」


「……ありがとうございます」


「礼はいらないわ。趣味の問題だから」


 ミュリエが立ち上がった。石の縁から離れて、また中庭を見た。今度は眺めるというより、何かを測るような目だった。


「幻術が使えるわ。地形に重ねれば、存在しない森も、ない崖も作れる。軍を迷わせるには十分よ」


「どのくらいの範囲ですか?」


「イグレアの周囲なら余裕ね。もっと広くても、集中すれば」


「拠点はどこにされますか?」


「ここでいいわ。居心地が悪くなったら移るけど——たぶん大丈夫」


 ナナが頷いた。「グリムとエリスに話しておきます。訓練や配置で連携したいことがあれば、直接声をかけてもらえますか?」


「あなたの部下たちって、ちゃんと話を聞くの?」


「もちろんです」


「ならいいわ」とミュリエが言って、中庭をまた見た。今度は純粋に眺めていた。「本当に、よくやってるわね。こんなにたくさんの人を」


 ナナが中庭を見た。ミュリエと並んで、同じ方向を向いた。


「みんな、それぞれ理由でここに来ています。同じ理由じゃない」


「それでいいの?」


「それで十分です」


 ミュリエが少し黙った。何かを考えているようだった。それから、ふっと軽い息をついた。


「あなたと話すのは——面白いわね。あなたの前の魔王も、こういう人だったかも」


 ナナが少し間を取った。「どんな人だったか、教えてもらえますか?」


「私が会った時には、もうほとんど終わりかけていたわ。ただ——最後まで動いていたわね。美しかったとは言わないけど、諦めていなかった。あなたに少し似てる」


「似ていますか」


「体格はまったく違うけど」とミュリエが言って、笑った。声に出さない、静かな笑い方だった。



 ミュリエに部屋を用意した。


 ダリオに頼むと、難色を示さずに動いた。「急な来客は慣れてきた」と言った。珍しいことを言う、とナナは思ったが口には出さなかった。


 夕方、グリムに報告した。


「ミュリエ=メシスが来ました。第五魔王です。手伝うと言っています」


 グリムが一瞬止まった。


「……敵か?」


「違います。今のところは」


「今のところ、か」


「幻術が使えます。地形に重ねて、軍を迷わせることができる。宗教国家との戦いで使える可能性があります」


 グリムがしばらく黙っていた。腕を組んで、何かを考えていた。


「……信用できるか?」


「あの人は、美しくないものが嫌いです。道具として扱われた勇者を見て、手伝うと決めたと言っていました。その基準は変わらないと思います」


「感情で動く、ということか」


「はい。ただし、感情の軸はぶれません」


 グリムが鼻から息を出した。「分かった。訓練の邪魔をするようなら話し合う」


「それはミュリエさんに伝えます」


 グリムが出ていった。



 夜、エリスが来た。


 ミュリエの件を話すと、エリスは「会いたい」と言った。


「明日でいいですか。今夜は旅の疲れがあると思います」


「分かった」とエリスが頷いた。それから少し声のトーンが変わった。「セルマが聞いてきたわ。勇者って魔法を使うのって?」


「レンが見た限りでは、剣・槍・弓の3名でした。魔法は確認できていません」


「そう」とエリスが言った。「私たちが魔法で何かしても、通じない可能性がある?」


「分かりません。まだ戦ってもいませんし」


 エリスが頷いた。「ロスが心配している。また怖いって言ってた」


「ロスらしいです」


「でも」とエリスが続けた。「それでも頑張る、っていつも言ってる。怖いけど頑張る、って」


 ナナは何も言わなかった。エリスも黙った。少しの間、2人とも静かにしていた。


「ミュリエさんのこと、明日教えてください」とエリスが言って出ていった。



 寝る前にセインへの文書を確認した。


 昨夜書いた「勇者はどう選ばれるか?」という問いは、まだ送っていなかった。今日のミュリエの言葉を思い返した。「道具よ。自分では何も考えていない」。


 ミュリエは勇者と実際に会っている——接近して、観察している。その言葉の重さは、セインの情報とは種類が違った。


 ナナは文書にもう一行足した。「勇者の意思について、何か情報があれば」。


 書き足して封をした。明朝、ジャックに渡す。


 灯りを落とした。外の天幕から、低い話し声が聞こえた。誰かがまだ起きていた。言葉は聞き取れなかった。ただ声があった。

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