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第90話 勇者の旗

「旗の先頭に、人族の若者が3名いる」


 レンが帰ってきたのは昼過ぎだった。


 ナナの部屋に入るなり、地図を指さした。旧クレモア領の西縁、大森林の北端よりもさらに西、イグレアから見て東の、かなり近い位置だった。


「旧クレモア領の西縁まで来ている。宗教国家の前哨部隊だ。本隊から切り離されて動いている。それぞれ違う武器を持っていた。剣、槍、弓、3名とも別々だった」


「距離は?」


「馬で半日。近い」


 ナナは地図から目を上げた。


「顔は見えましたか?」


「見えた。若い。全員、人族だ」


 (勇者だ。複数いる。前線に出している)


 3名。それぞれ別の武器。前哨として前に出すということは、単純な偵察ではなく戦力として使っているということだ。ルゼとの戦闘で機能したから、前に出せる。


 レンが地図の上で指を動かした。「本隊はここだと思う。前哨との距離からして、半日もあれば合流できる位置だ」


「ありがとうございます。引き続き見ていてもらえますか。3名に気づかれないように」


「分かってる」とレンが言い、地図を元の向きに戻した。出ていく前に少し足を止めた。「……強そうだった」


「見てそう思いましたか?」


「動き方が違う。訓練された動きじゃなくて——もっと自然だった。体に染みついてる感じだ」


 ナナが頷いた。レンが出ていった。



 グリムを呼んだ。


 レンの報告を伝えた。グリムが地図を見た。西縁の位置を確認して、顔を上げた。


「向かってくるか?」


「今はルゼを追っています。私たちは進路上ではありません。ただし——」


「ただし、か」


 グリムが地図の上で視線を動かした。ルゼの後退方向、宗教国家の進軍ルート、イグレアの位置。


 (ルゼの後退が完了した後、向きが変わる可能性がある)


「ルゼが完全に片づいた後、次の標的を探す。その時に西を見れば、ここが見える」とナナが言った。


「今は接触しないのか?」


「今は接触しません。様子を見ます」


 グリムが腕を組んだ。「……レンが強そうだと言ったのか?」


「はい」


「グリムは?」とグリムが自分に問うように言った。それから答えた。「お前と戦える者が来るとしたら、今まで想定していた相手とは違う。訓練の組み方を変える必要があるかもしれない」


「ドーガとも話してください」


「分かった」


 グリムが地図を返した。出ていく直前に、ナナを一度見た。何か言おうとして、止めた。そのまま出ていった。



 夕方になって、ヴェルナー公爵からの文書が来た。


 ファルクの筆だった。いつもより書き方が硬かった。


 「公爵閣下よりお伝えします。

 宗教国家の使者が先日フォルケンを訪れました。

 内容は以下の通りです——

 『異端の魔王に協力するな。人族として、同じ側に立て』

 公爵閣下はこれを断られました。

 ただし、使者の態度は強硬でした。フォルケンへの経済的な圧力も示唆されています。

 圧力は増しています。対応を検討中ですが、協定に変更はありません。ファルク」


 ナナは文書を読み終えて、机に置いた。


 (人族にも圧力をかけている。傲慢さが出てきた)


 フォルケンは商業都市だ。経済的な圧力をかけるということは、宗教国家が外海の交易ルートを押さえていることを利用しているのだろう。「協力しなければ物が入らなくなる」、そういう圧力だ。ヴェルナー公爵が断ったのはナナへの義理だけではない。フォルケンには廃港を通じた西の交易ルートがある。宗教国家に頭を下げなくても動ける、と判断したはずだった。


 (フォルケンが断れたのは、廃港のルートがあるからだ。あの港は、今、複数の意味で重要になっている)


 ファルクへの返信を書いた。「ヴェルナー公爵の判断に敬意を表します。廃港の交易については引き続き優先して動きます。圧力の内容と変化を教えてもらえますか?」と書いて、短く締めた。



 夜、エリスが来た。


 珍しく、少し急いている様子だった。


「レンから聞いた。若者が3人、前線に出ているって」


「はい」


「……年はいくつくらい?」


「レンが見た限りでは、若い、としか。詳細は分かりません」


 エリスが少し間を置いた。「私と同じくらいかもしれない」


 ナナは何も言わなかった。


「魔法隊の連携を上げたいの。クルトとロスに頼んで、週に1回追加で組む。いい?」


「お願いします」


「セルマが属性の組み合わせを試したいと言っているわ。時間を取るわね」


「判断はエリスに任せます」


 エリスが頷いた。それから少し躊躇って、また口を開いた。


「ナナ、1つ聞いていい?」


「はい」


「勇者って——宗教国家が選ぶの? それとも、勝手に強い人が勇者になるの?」


 ナナが少し考えた。「分かりません。セインに聞いてみます」


「そうして」とエリスが言った。少し表情が固いまま出ていった。



 シィラがイグレアに着いたのは、その夜遅かった。


 リーファが案内して部屋に来た。シィラは以前来た時と同じ、細身の淡い緑色の髪の女性だった。ただし顔の緊張が違った。前回は「焦り」があった。今回は「焦り」と「何か別のもの」が混ざっていた。


「エルドランから来ました。直接お話ししたいことがあります」


「聞かせてください」


「宗教国家の斥候が、東縁に3度来ています。最初は2名でした。今日は5名でした。増えています」


 ナナが頷いた。「エルドランの連絡では、動きに変化があれば知らせると言っていました。これは変化ですか?」


「エルドランは『まだ監視の段階だ』と言っています。私は違うと思います」


「シィラはどう見ていますか?」


 シィラが少し間を置いた。「斥候が増えるのは、進入路を探しているからです。監視なら数は要りません。増えているということは、入れる場所を見ているということです」


 ナナはその言葉を聞いた。考えた。


「エルドランはまだ外交で解決できると思っていますか?」


「はい。直接交渉するつもりでいます」


「止めさせてください。今の段階では」


 シィラが顔を上げた。「理由を聞かせてもらえますか?」


「宗教国家は今、ルゼを追っている最中です。戦闘中に外交の話を持ちかけると、足元を見られます。条件を吊り上げられる可能性が高くなります。交渉するなら——ルゼとの決着がついた後、宗教国家が次に何を求めているかが見えてからの方がいいので」


 シィラがしばらく黙っていた。


「……エルドランに伝えます。ただし、納得するかどうかは分かりません」


「分かりました。シィラはどう思いますか?」


「私は——」とシィラが言いかけて、止まった。それからもう一度口を開いた。「私は、あなたを信用することにしました。前回もそう言いましたが、今回は理由が分かった上で言っています」


 ナナが少し間を置いた。「ありがとうございます。東縁の情報を引き続き教えてください。斥候の人数と動きの変化を、できれば毎日」


「できます」とシィラが答えた。「明日の朝、エルドランのところへ戻ります」


「リーファに今夜の部屋を頼みます。ゆっくり休んでください」


 シィラが頷いた。立ち上がりかけて、少し止まった。


「1つだけ。旗の動きが速いと、エルドランが言っていました。私も同じに見えています」


「分かっています」とナナが言った。


 シィラが出ていった。



 部屋に1人になって、ナナは地図を広げた。


 西縁に来ている前哨の3名。東縁で増えている斥候。フォルケンへの経済的な圧力。それぞれが別の場所で起きているが、すべて同じ向きを示していた。


 宗教国家は、ルゼを追いながら、次を見ている。


 (まだ来ない。次の準備は、今している)


 地図を畳んだ。エリスに頼まれたセインへの確認事項を思い出した。「勇者はどう選ばれるか?」——それをセインへの文書に一行足した。


 書き終えて、机の端に重ねた。明日の朝、ジャックに頼む。


 灯りを落とす前に、窓の外を見た。居住区の灯りが散っていた。昨日より少し増えている気がした。数えるには多すぎた。

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