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第89話 ルゼの後退

 フェンリルが朝から落ち着かない様子だった。


 城門の前に立って、南の方角を何度か見ていた。グラ=ベイルから何か来るのを待っているのか、あるいは自分が南へ向かう必要があるのか——ナナには判断がつかなかった。


 声をかけようとしたところで、セインの使いが来た。


 廃港経由で来たという。走り書きに近い短い文書だった。


 「続報。ルゼが勇者2名に正面から打ち負かされた。

 ルゼ自身は無事だが、純魔族の精鋭部隊が半壊した。

 現在、北東の奥深くへ後退している。追撃は続いている。セイン」


 ナナは文書を持ったまま、城門のそばに立った。


 (ルゼが勇者2名に負けた。勇者の力は本物だ)


 2名で、ルゼの精鋭部隊を半壊させた。ルゼは魔王だ。種族の頂点に立つ純魔族の魔王が、人族の勇者2名に正面から負けた。数字が出ている。半壊という数字が。


 「読んでいいか?」


 フェンリルが声をかけてきた。


 ナナが文書を渡した。フェンリルが読んだ。返した。


「グラ様に伝える」とフェンリルが言った。


「その前に確認させてください。グラ=ベイルはルゼの後退をどこまで把握していますか?」


「昨日の段階では、ルゼが押されているという報告までだ。正式な確認はまだだ」


「では、ルゼの後退が確定したと伝えてください。精鋭部隊が半壊したという内容も合わせて。それと、私からひとつ聞いてもらえますか?」


「何だ?」


「今後の南側の動きを、どう見ているか。グラ=ベイルの判断を聞きたいです」


 フェンリルが頷いた。「伝える」と言って、南へ向かった。



 正午過ぎにフェンリルが戻ってきた。


 予想より早かった。グラ=ベイルが近い場所で待っていたのかもしれなかった。


「グラ様がおっしゃっている」とフェンリルが言った。「『ルゼは終わっていない。奥に引いて力を蓄えている。油断するな』と」


「南の動きについては?」


「『南は俺が見る。お前は東を見ろ』と」


 ナナが頷いた。


「他には?」


「……もう1つ」とフェンリルがわずかに声を落とした。「『勇者とは、まだやり合っていないのか』と聞いていた」


「まだです。距離があります」


「そう伝える」とフェンリルが言い、また南へ折り返した。


 (グラ=ベイルも同じことを感じている)


 「ルゼは終わっていない」という言葉が引っかかった。ナナ自身も同じ読みをしていた。精鋭部隊が半壊しても、ルゼ本人が生きている。純魔族の主義は消えない。奥へ引いて、力を蓄える——それがルゼという魔王の動き方だとしたら、今は後退であって敗北ではない。


 (宗教国家がルゼを追って北東へ進んでいる。その間、こちらは東を見る。グラ=ベイルは南を見る。今はそれで動く)


 廊下を歩きながら、東側に視線を向けた。壁の向こうは見えない。ただ方角だけが分かった。



 夕方、エルドランから連絡が来た。


 リーファが精霊を通じて受け取り、書き起こしてナナに渡した。


 「宗教国家の軍が旧クレモア領を完全に制圧した。

 大森林には来ていない。ただし——旧クレモア領との境に近い東縁を、宗教国家の斥候が複数回確認されている。こちらは監視を続けている。エルドラン」


 ナナは書き起こしを読んだ。


 (大森林には来ていない。今は)


 東縁の監視。斥候が来ている。進軍とは違う。様子を見ている段階だ。ルゼを追っている最中に大森林に深入りする余力はないだろう。ただ様子を見ているということは、大森林の防衛状況を測っているということでもある。


 リーファがそばで待っていた。


「エルドランに返してください。東縁の監視を続けてほしい。斥候の動きに変化があれば、すぐ知らせてほしいと」


「分かった。あと——エルドランが1つ聞いている。シィラを使者としてここへ送りたいと言っている。どうする?」


「来ていただいて構いません、と伝えてください。話したいことがあります」


 リーファが精霊に言葉を預けた。精霊が音もなく東の方へ流れた。


 ナナは書き起こしをもう一度見た。


 (宗教国家はルゼを追って北東へ進んでいる。大森林は進路上にない、今は。ただルゼを片付けた後に向きが変わる可能性がある)


 クレモア領の鉱山採掘が止まって、大森林の東縁への侵食はいったん終わった。それは良かった。ただし今度は宗教国家の斥候が東縁をうかがっている。問題の形が変わっただけで、大森林への圧力は消えていなかった。


 エルドランがシィラを送ると言った。エルドランは外交での解決を望んでいる。シィラは現場を知っている。その2つが今、同じ方向を向いているのかどうかを確かめておく必要があった。



 夜、グリムが部屋に入ってきた。


「ルゼが後退したという話は聞いた。訓練場で回ってきた」


「セインからの確報です。精鋭部隊が半壊して、本体が北東の奥へ引きました」


「宗教国家が追っているのか?」


「はい。追撃は続いているとセインが書いています」


 グリムが椅子を引いて、座った。珍しかった。いつもは立ったまま話す。


「勇者が2名でやったというのは本当か?」


「セインの情報では2名です。ルゼの精鋭部隊を正面から半壊させたそうです」


 グリムがしばらく何も言わなかった。


「……強いな」


「はい」


「お前は戦えるか?」


 ナナが少し間を置いた。「今すぐではありません。今は宗教国家の目的がルゼです。こちらに来ていません」


「来た時のことを聞いている」


「—準備をしておきます。それしかありません」


 グリムが頷いた。椅子から立ち上がった。出ていく前に振り返った。


「ドーガが、来た人たちの中から訓練に使える者を出したいと言っている。許可するか?」


「ドーガの判断に任せます。強制はしない、という条件で」


「それは当然だ」とグリムが言って、出ていった。



 寝る前に、レンからの短い報告が届いていた。昼間に東の方角を見に行ったらしかった。


 「旧クレモア領との境付近に、宗教国家の旗が見えた。前哨部隊と思われる。今のところ大森林の方向には動いていない。引き続き見る」


 ナナはそれを読んだ。エルドランの連絡と重なった。東縁を見ている斥候と、旧クレモア領の境に立っている前哨部隊——同じ動きを2方向から確認した形だった。


 (情報が重なった。信度が上がった)


 レンへの返信を短く書いた。「引き続き頼みます。前哨部隊の規模と動きの変化を優先してください」。


 書き終えて、机の上を見た。今日届いた文書が4通。出した文書が3通。グラ=ベイルへの口頭連絡が2往復。エルドランへの精霊経由の往復が1回。


 日が経つごとに、連絡の数が増えていた。


 (6方向を見ている。全部が同時に動いている)


 手帳を開いた。明日やることを書き出した。シィラの来訪に備えて大森林の東縁の状況を整理する。セインへの確認——ルゼ本体の位置と宗教国家の追撃距離。レンに明後日の斥候を依頼する。ドーガに訓練参加の条件を確認する。


 書き終えて手帳を閉じた。


 部屋の灯りを落とした。夜の空気が静かだった。城壁の外からは何も聞こえなかった。


 遠い場所で戦いが続いていた。ルゼが後退し、宗教国家が追い、大森林の縁で斥候が動いている。それがすべて、壁一枚の外の話だった。

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