第86話 宗教国家
ベラへの返事を書き終えたのは深夜だった。
ドーガへの相談文書、ガリンへの確認事項——残りの2通を書き上げて、ナナはようやく羽ペンを置いた。右手の指の付け根が少し固まっていた。
窓の外に灯りが散っていた。増えた分の灯りだ。クレモア領から来た者たちが使っている居住区の区画は、1か月前には暗かった。
(来た人は受け入れる。食料と場所と仕事が要る)
今日分かったことを整理する。連絡網が整った。6方向を常時見ている。セインとベラの文書が同じ夜に来た。オズの試算では来月が綱渡りだ。廃港を急ぐ。ガリンに話す。ドーガに相談する。
(やることは見えている。順番にやらなければ)
ナナは立ち上がった。ローブを引いて寝台に向かった。
翌朝、セインから緊急の文書が来た。
ジャックが持ってきた。「早朝に届きました。急便です」と言って出ていった。
ナナが封を切った。
「東の勢力とルゼの軍が北東の境界で衝突した。複数の報告が一致している。
東の勢力は人族の大軍だ。旗に光の紋章がある——勇者の旗だ。
宗教国家が大陸に来た。掲げているのは魔族討伐・魔王討伐の聖戦だ。セイン」
ナナは読み終えた。もう一度最初から読んだ。
(宗教国家。クレモアが渡った先だ。クレモアはあそこにいる)
窓の外で訓練場の声が聞こえていた。グリムが早朝から動かしているのだろう。木剣が当たる音、足音、掛け声。それがいつもと変わらない朝の音だった。
少し経って、グリムが入ってきた。ナナの顔を見て、黙って文書を受け取った。読んだ。折り畳んで返した。
「俺たちは標的か?」
ナナは文書を受け取った。
「今は違います。宗教国家の目的はルゼです。旧クレモア領を拠点に、北東のルゼに向かって進軍しています。私たちはその進路上にはいません」
「今は、か」
「はい。今は」
グリムが腕を組んだ。窓の外を見た。訓練場の方角だった。
「ルゼが押されたら、どこへ逃げる」
「西です。南です。ここへ来ます」
「受け入れるつもりか——ルゼの敗残兵も」
ナナが少し間を置いた。「武器は預かります。それ以外は同じです」
グリムが何も言わなかった。腕組みのまま、訓練場の音を聞いていた。
「……増えるな」
「増えます」
「食料は?」
「オズが試算を出しています。廃港の交易を急いでいます。今月と来月は綱渡りですが」
グリムが文書の方を一瞥した。
「セインの情報は確かか?」
「複数の報告が一致している、と書いてあります。セインが精度を下げた報告を送ってきたことはありません」
グリムが短く鼻を鳴らした。「勇者、か」
「はい」
「強いか?」
「——分かりません。まだ見ていませんので」
グリムが立ち上がった。「俺は訓練に戻る。何かあれば呼べ」と言って出ていった。
同じ日の昼過ぎ、セインから2通目が来た。
今度はレンが持ってきた。文書を渡しながら「もう1通ある。どちらから読む?」と聞いた。2通同時に届いたらしかった。
「中身は?」
「1通は緊急。もう1通はそうでもないみたいだ」
「緊急の方を先に」
レンが無言でそちらを渡した。
開いた。
「ルゼの軍が宗教国家の勇者部隊と北東の境界付近で複数回衝突した。
ルゼの軍は後退している。撤退ではなく押されている形だ。
宗教国家の進軍は止まっていない。セイン」
(ルゼが押された分、西や南に流れてくる者が増える。難民が来る。敗残兵が来る。受け入れるしかない)
「もう1通を」
レンが渡した。
「宗教国家がクレモアの技術を取り込んでいる。
旧クレモア領の工房を接収した。新たな兵器を製造しているという話がある。
ただし詳細は不明。現時点では噂の段階だが——複数の商人から同じ話が出ている。
確認が取れ次第、追加で送る。セイン」
ナナは2通を重ねて持った。
(クレモアの技術が宗教国家の手に渡った)
旧クレモア領の工房を接収した、とある。クレモア本人が渡った先が宗教国家だった。技術を持って入った。自ら渡した可能性が高い。
(あの男が利用しているだけなのか、それとも利用されているだけなのか——まだ分からない)
クレモアの目が思い浮かんだ。膝をついて、ボロボロで、それでも澄んでいた目だ。「負けました」と言ったあの目は、何かを計算していた。
ナナは文書を机の引き出しにしまった。
夕方になって、ヴォルクが報告に来た。
「ルゼの方角から、また人が来ています。今日で5人。全員、純魔族ではありません。人族2人、魔族2人、獣人が1人です」
「武器は?」
「持っていません。全員、疲弊しています。食料を求めています」
「食堂に案内してください。オズに伝えます」
「分かりました」とヴォルクが一礼した。出ていく前に少し止まった。「増えます。今後も」
「分かっています」
「食料の配分を」
「オズが管理します。ヴォルクは居住区の割り当てをお願いします。第二区画の工事を急いでいますが、それまでは既存区画を詰めて使います」
ヴォルクが頷いた。「了解しました」と言って出ていった。
翌日、また来た。
今度は一度に7人だった。ルゼの支配地域から逃げてきた、と言った。魔族が4人、人族が2人、それから種族がよく分からない子供が1人いた。子供は何も言わなかった。ただ他の者の服の端を握っていた。
ナナは中庭でその7人を見た。
食堂の方から夕食の匂いが流れてきていた。
「来た人は受け入れます。仕事をしてもらいます」
7人の中から、年配の魔族の男が一歩前に出た。「……何をすれば」
「今は食べて、今夜は休んでください。明日、話をします」
男がナナを見た。ナナを見て、その後ろのイグレアの城壁を見た。また視線が戻ってきた。
「ここは、人族も入れるのか」
「入れます」
男が何かを言おうとして、口を閉じた。それから小さく頷いた。子供の手を引いて歩き始めた。残りの6人がその後に続いた。
夜、エリスが来た。
「魔法隊で余力のある者に頼んで、難民の整理を手伝わせていい?ヴォルクだけでは人手が足りないと思う」
「お願いします」
「クルトが荷下ろしを手伝いたいと言っていたわ。セルマとロスは子供の面倒を見られると言っているし」
「ありがとうございます」
「礼はいらないわよ。やりたいからやるだけ」とエリスが言った。少し笑っていた。
エリスが出ていって、部屋が静かになった。
ナナはセインの文書をもう一度引き出しから出した。
「新たな兵器を製造している」という一文を見た。
(宗教国家に蒸気の技術が渡った。それがどんな形になるか——今はまだ分からない)
ただし先日クレモア領から来た技術者の男のことが頭にあった。手に油の染みがある、蒸気機関を整備していた男だ。
(向こうが技術者を手に入れたなら——こちらも何が使えるか、確認しておく必要がある)
ドーガに宛てた確認の文書を引き出しから取り出した。もう1行付け足した。「クレモア領からの技術者について、詳しい話を聞かせてもらえますか」。
書き足して、また引き出しにしまった。明日、直接話す方が早い。
夜半過ぎ、リーファが精霊経由でエルドランの続報を持ってきた。
「宗教国家の軍が旧クレモア領の中ほどまで進んでいる。エルドランが東縁の監視を続けている。今のところ大森林に向かう気配はない——けど、エルドランが言っている。『旗の動きが速い。思っていたより速い』と」
「分かりました。監視を続けてほしいと伝えてください。何か変化があればすぐ知らせてほしいと」
「伝える」とリーファが言った。
リーファが出ていった後、ナナは地図を開いた。
北東にルゼ。東に宗教国家。南にグラ=ベイル。北にストーンフォールとゴルドーの守る峠。西に廃港。
旗の動きが速い、とエルドランは言った。
(速い。宗教国家は本気でルゼを追っている。大森林は今は進路上ではない。今は)
地図から目を上げた。窓の外の灯りは増えていた。今日だけでまた増えた。食堂に新しい顔が並んで、明日には仕事の割り当てが始まって、来週にはまた誰かが来る。
来た者は受け入れる。
それが今できることだ。
ナナは地図を畳んだ。セインへの返信を書き始めた。「宗教国家の技術情報、引き続き調査をお願いします。詳細が入れば優先して送ってください」と書いて、最後に一行加えた。「クレモアの動向も、分かる範囲で」。
書き終えて、封をした。朝になったらジャックに頼む。
灯りを落とした。窓の外の居住区の灯りがまだ消えていなかった。




