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第84話 北東からの脅威

 数日の間に、セインから文書が3通届いた。


 1通目は簡潔だった。「北東の中立魔族の集落が2つ、ルゼに吸収された。抵抗はなかった。静かに消えた」


 2通目は少し長かった。「ルゼが周辺の小国に使者を送り、純魔族主義への賛同を求めている。賛同しない者は追い出されている。フォルケンに魔族の流入が増えている」


 3通目は短かった。「速度が上がっている」


 それだけだった。


 ナナは執務室の机に地図を広げた。イグレアを中心に、東と北東と南の位置関係を確かめた。北東の方角に目を走らせた。地図の上では何も変わっていない。線も色も同じだった。ただし、セインの文書が示している現実は違った。


(直線で来ない。外縁から削っていく。気づいたときには周囲が変わっている)


 グリムが入ってきた。地図を一瞥した。


「セインからか?」


「3通。ルゼが周辺を取り込んでいます。小国に賛同を迫って、従わない者を弾いている」


「速度は?」


「上がっているとセインが書いています」


 グリムが地図を見た。腕を組んだ。何も言わなかった。



 昼前に、城門の外から使者が来た。


 人族の若い男だった。旅装のまま、丁寧に頭を下げた。ルゼの紋章が入った布を持っていた。


「ルゼ様よりの言葉をお伝えします。純魔族以外を大陸から排除する。あなたはどちら側ですか?」


 ナナは少し間を置いた。


「どちら側でもありません」


 使者が少し止まった。答えを予測していたのか、していなかったのか、表情では読めなかった。


「……その言葉を、そのままお伝えします」


「お願いします」


 使者が頭を下げて、来た道を戻っていった。グリムが横で腕を組んだまま見送った。


「それでいいのか?」


「今は、それだけでいいです」


 グリムが短く鼻を鳴らした。それ以上は言わなかった。



 午後、フェンリルに文書を持たせてグラ=ベイルへ連絡を入れた。


「ルゼが外縁から取り込んでいます。正面ではなく周囲が削られています。グラ様はどう見ていますか」


 夕刻、フェンリルが戻ってきた。グラ=ベイルの言葉を口頭で伝えた。


「グラ様がおっしゃっている。『じわじわと来る敵は、派手に来る敵より厄介だ。囲まれてから気づいても遅い』と」


「グラ様は動かれますか?」


「『今は南を固める。北東が動いた分、南への圧力が変わる可能性がある』とのことだ」


 ナナが頷いた。フェンリルが続けた。


「それとグラ様からもう一言。『お前は今、何を見ている』と」


 ナナは少し間を置いた。


「地図です。どこが削られているか、どこがまだ残っているか」


 フェンリルが短く頷いた。「お伝えする」と言って、下がった。



 フェンリルが去ってすぐ、もう1通セインからの文書が来た。


 ナナが開いた。


「東の旧クレモア領方面で、見たことのない軍が動いている。旗は人族のものだ。ルゼの軍ではない。数は多い。街道を整然と進んでいる」


 ナナが文書を机に置いた。


(東にも何かが来た。北東のルゼとは別の勢力だ。旗が人族——宗教国家か。クレモアが東へ渡ったのは、この軍と繋がるためだったのかもしれない)


(北東でルゼが動いている。東で別の軍が動いている。2つが同時に動き始めた)


 グリムがまだ部屋にいた。文書を渡した。グリムが読んだ。


「東からも来るのか」


「まだ分かりません。今は旧クレモア領を動いているだけです」


「向かってくるか?」


「今のところ、方角はルゼの方向です」


 グリムが文書を返した。


「厄介だな」


「はい」



 夕方、オズが来た。


 いつもより足取りが少し重かった。書類を持っていたが、すぐには出さなかった。


「クレモア領からの者が、また来ました」


「何人になりましたか?」


「今日で12人です。最初の3人から、この1週間で増えました」


 ナナが頷いた。


「住む場所は?」


「ヴォルクが割り振っています。食料は今のところ問題ありません。ただ、」とオズが少し間を置いた。「このまま増え続けるなら、試算を立て直す必要があります」


「廃港の交易を急いでください。外海の商人がまた来たときに、すぐ動けるように」


「分かりました」


 オズが書類を出そうとして、止めた。


「……1人、気になる者がいます。今日来た中に若い男がいました。手に油の染みがあります。職人の手です」


 ナナが少し間を置いた。


(油の染み。機械を扱う者の手だ)


「明日、話を聞きます」



 翌朝、その男を執務室に呼んだ。


 20代半ばだった。背が高く、肩が広かった。手が大きく、指の節に細かい傷があった。椅子に座ると少し窮屈そうだったが、背筋は伸びていた。


 グリムも部屋にいた。壁際に立って、腕を組んでいた。


「名前は?」


「ヤンといいます」と男が言った。声は落ち着いていた。「クレモア様のもとで働いていました」


「何をしていましたか?」


「蒸気機関の整備です。動かすのではなく、直す仕事です。配管の詰まりを抜いたり、弁の交換をしたり」


「設計は?」


「できません。設計はクレモア様と、ごく限られた者だけです。私は整備専門でした」


 ナナが少し間を置いた。


「なぜここへ来ましたか?」


「命令がなくなったので」とヤンが言った。飾らない言い方だった。「クレモア様が東へ行かれた。軍が解散した。残った者は各自で動くしかなかった。街道に出て、どこへ行くか考えていたとき、イグレアへ向かっている者に出会いました。入れてもらえると聞いたので来ました」


 グリムが壁際から口を開いた。


「……敵の技術者を受け入れるのか?」


 ナナはグリムを一度見た。それからヤンを見た。


「人を見ます。過去を見ません」


 グリムが口を閉じた。ヤンがナナを見ていた。何か言いたそうな顔をしたが、言わなかった。


「仕事はしてもらいます」とナナが言った。「何ができるか、オズに話してください」


「分かりました」


 ヤンが立ち上がって、頭を下げた。部屋を出ていった。


 グリムがため息をついた。短く、静かなため息だった。


「お前は何でも受け入れるな」


「来た者は入れます」


「それで上手くいくか」


 ナナは少し間を置いた。


「分かりません。ただし、弾いた者がどうなるかは——セインの文書に書いてありました」


 グリムが壁から背を離した。地図の方を見た。北東の方角を見た。


「……そうだな」


 それだけ言って、部屋を出ていった。


 ナナは机の上の地図を見た。北東から削られていく外縁。東で動く見知らぬ軍の旗。12人になったクレモア領からの者。


(来た者は入れる。ただ受け入れ続けるためには、食料と場所と仕事が要る。廃港を急ぐ。オズを急ぐ。それが今できることだ)


 窓の外で、誰かが石を運んでいる音がした。城壁の修繕が続いていた。

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