第81話 帰還
城内に明かりがあった。
城門を閉めてから、ナナはしばらく動かなかった。居住区から声が聞こえた。夕食の支度をしているらしく、何かを煮る匂いが石畳のほうまで流れてきていた。
グリムが周囲を見渡してから言った。
「ゴルドーは」
「城内にいます」とリーゼが答えた。「腕の傷は塞がっている。動いている」
「そうか」
それだけで会話が終わった。リーゼが部隊に向けて短く何かを告げると、各自が散っていった。張り詰めていたものが少しずつほどけていった。
レンとリアが少し前を歩いていた。2人は話していなかった。リアが居住区の建物を見ていた。石を積んだ壁、木の扉、窓から漏れる明かり——初めて見るもののはずなのに、立ち止まらなかった。それよりレンが隣にいることの方が重要なのか、時々横をちらりと確かめながら歩いていた。
ナナはその後ろを歩いた。
(離れると何かを失う気がして、意識的に距離を詰めている。言葉ではない確認だ。ここにいる、消えていない——そういう確認だ)
食堂に入ると、人が集まっていた。
戦いが終わったという知らせは早かった。グリムの「終わった」の一言が城内を回ったのか、あるいは松明が消え旗が下りるのを誰かが見ていたのか、食堂には普段より多くの顔があった。魔族と人族が入り混じって席に着いていた。子供もいた。老人もいた。それぞれが思い思いに食べていた。
オズが奥で指示を出していた。ナナを見て、短く「お帰りなさい」と言った。それだけだった。
リアが食堂の入口で立ち止まった。中を一通り見た。レンが隣に並んで「座るか」と言った。リアが小さく頷いた。
2人が席を見つけた。隅のほうだった。向かいに誰かが既に座っていた。レンが軽く頷いた。相手も頷いた。それ以上の会話は始まらなかった。リアがスープの椀を受け取って、両手で包むように持った。
ナナはそれを食堂の端から見た。
(来た。レンの妹が来た。それだけで今夜は充分だ)
グリムが隣に来て、同じ方向を見た。
「……食えるな」
スープのことではなかった。ナナは頷いた。
「そうですね」
しばらくして、リアがナナのいるほうへ歩いてきた。
椀をまだ半分残したまま、まっすぐ来た。急いだ様子ではなく、何か言おうと決めてから立ち上がったような歩き方だった。
「お兄ちゃんが言ってた通りの人だ」
ナナは少し間を置いた。
「何と言っていましたか?」
「小さいのに全然小さくない人って」
グリムが短く笑った。椀を持ったまま顔を背けた。
ナナは笑わなかった。笑おうとして、言葉が先に出た。
「……そうですか」
「本当に小さいですね」
「はい」
「でも本当に全然小さくないです」
リアが首を少し傾けた。観察するような目だった。臆してはいなかった。クレモアの補給拠点で帳簿を管理してきた子だった。
「ゆっくりしてください」とナナが言った。「急ぐ必要はありません」
リアが頷いた。スープの椀を持って、レンのところへ戻っていった。
食堂を出てから、ナナはゴルドーを探した。
居住区の外れにいた。城壁の近く、南の方角に向かって立っていた。左腕に布を巻いていた。
「ゴルドー」
ゴルドーが振り返った。
「終わったか」
「終わりました」
ゴルドーが少し間を置いた。
「……峠を抜かれた。すまなかった」
「4人で2方向は無理です」とナナが言った。「分割されて抜かれることまで読めていなかった。最初からそういう配置にしなかった私の判断が甘かった」
ゴルドーが口を閉じた。少し間があった。
「……次は守り抜く」
「はい。お願いします」
それだけだった。ゴルドーは城壁を一度見てから、食堂の方へ歩いていった。
ナナはその背中を見た。大きかった。左腕の布が月明かりの中で白く見えた。
翌朝、ナナが城壁の修繕を遠くから確認していると、エリスが来た。
横に並んで、開口一番に言った。
「3人が話してくれた。クルト、セルマ、ロスが——残りたいって」
「マルセルの」
「うん。昨夜、私に言ってきた。マルセル先生への返事はどうしたらいいか、って」
エリスが少し間を置いた。驚いた顔をしていた。意外だったのか、嬉しかったのか、判断しにくい表情だった。
「……エリスはどう思いますか?」
「歓迎したい」とエリスが言った。迷わなかった。「3人とも昨日の戦いで動けた。クルトの土の壁がなければ砲の直撃が通っていた場所もある。セルマの風が魔法を逸らした。ロスの水で火が消えた。魔法隊に必要な人たちだと思う」
「分かりました。歓迎します」
エリスの表情が少し動いた。安心したような顔だった。
「マルセル先生に手紙を書く。報告と——3人が残ることを伝える」
「お願いします」
エリスが頷いた。それから城壁の方を見た。ガリンが石材を確認しながら修繕の指示を出していた。カルの組が石を運んでいた。
「……ナナ」
「何ですか?」
「ありがとう、じゃなくて」エリスが少し間を置いた。「終わったね」
ナナは少し間を置いた。
「はい」
それだけにした。それ以上の言葉は要らなかった。
昼過ぎに、農地の外縁を歩いた。
ターニが既に来ていた。焼けた跡に膝をついて、土を掘り返していた。手に土を取って匂いを確かめ、指で砕いた。
「ターニ」
ターニが顔を上げた。
「団長さん。見ての通りです」
「直りますか?」
「外縁の2割が焼けました。火薬の熱で土の上層が変質しています」とターニが言った。「でも深くは行っていない。掘り返して、腐葉土を混ぜれば、来年の春には使えます」
「手伝えることはありますか」
「人手があれば。掘り返しは力仕事です」
「グリムに言います」
ターニが短く笑った。「グリムさんが農地を耕すのは初めてですね」
「文句は言わないと思います」
「そうですか」とターニが言い、また土を手に取った。「……来年は、もっと増やせます。今年の収穫で種も確保しました。焼けた分は取り戻せる」
ナナは何も言わなかった。
(来年、という言葉が出てくる。この場所に来年がある、とターニは当たり前のように言う)
農地の向こうに南の平野が見えた。昨夜まで松明が並んでいた場所は、今は何もなかった。草と土と、遠くの街道だけがあった。
夕方、武器庫の横を通りかかったとき、レンの声が聞こえた。
外の小さな広場だった。木の杭が何本か打ち込んであって、レンが普段そこで弓の訓練をしていた。ナナは立ち止まった。
レンがいた。リアがいた。
レンがリアに弓を持たせていた。短い弓だった。リアの体格に合わせて選んできたのか、それは分からなかった。
リアが弦を引いた。
ほんの一瞬だった。引いて、離した。矢は番えていなかった。弦を引く動作だけだった。形が様になっていた。肘の位置が、肩の角度が、無駄な力の入り方をしていなかった。
レンが何も言わなかった。しばらく見てから、頷いた。
リアが弓を返した。何か言った。小声で、ナナには聞こえなかった。レンが短く何か答えた。それだけだった。
ナナは立ち去った。見ていたことを知らせる必要はなかった。
(あの一瞬だけで分かる。素質がある。レンも分かったから頷いた。ただし——今はまだその話をする時ではない。今夜は隣にいるだけでいい。それだけでいい)
夜、城壁の上でナナは南を見た。
平野に人影はなかった。松明もなかった。農地の焼けた跡が月明かりの中に黒く見えていた。城壁の修繕はまだ途中で、ガリンが明日以降の工程を組み直しているはずだった。
グリムが来た。
隣に立って、同じ方向を見た。何も言わなかった。
しばらく、2人は黙っていた。
(終わった。クレモアとの戦いは終わった)
(農地は直る。城壁も直る。クルトたちが残る。リアが来た——それだけのことが1日の中に収まっている)
(クレモアは行き先を言わなかった。どこへ行くつもりか。あの目は、まだ何かを考えていた)
ただ今夜は、それでいい。
「グリム」
「何だ?」
「農地の掘り返しに、人手が要るそうです」
グリムが少し間を置いた。
「……俺に耕せと言いたいのか」
「ターニが、力仕事だと言っていました」
「剣を持つ手で土を耕すのか」
「たまには」
グリムが低く笑った。声に出るか出ないかのところで笑って、南の平野を見た。
「分かった。やる」
ナナは城壁の縁に手をついた。夜風が来た。冷たかった。居住区から声が聞こえた。食堂がまだ明るかった。
城門は閉まっていた。
イグレアに夜が来ていた。




