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第80話 少しだけの平和

 アルヴィスがクレモアの前に立ったまま、剣を構えていた。


 ナナは手の魔力を散らした状態で、動かなかった。攻撃を止めていた。


 クレモアがゆっくりと立ち上がろうとした。右肩を庇いながら、片膝を地面についたまま、もう一方の足を立てた。よろけた。アルヴィスが剣を鞘に収めて、クレモアの左腕を支えた。


 クレモアが立った。


 右肩の鎧が焦げていた。焦げた箇所の下に、布が赤くなっていた。それでも背筋は伸びていた。


「負けですね」とクレモアが言った。前の言葉を繰り返すような、確認する口調だった。「撤退します。何か望みはありますか?」


 グリムが動いた。動いたというより、体が僅かに揺れた。「……何?」と小声で言った。


 ナナは少し間を置いた。


(合理主義者の敗北の受け方だ。負けたなら負けた。それ以上でも以下でもない。引き際の条件を確認している)


 ナナが言った。


「リシュアの腕輪を外してください。それとリアを頂いていきます」


 クレモアが少し間を置いた。計算していた。しかし長くはなかった。


「……承知しました」


 リシュアが動かなかった。建物の入口の近くに立ったままだった。短剣は鞘に収めていた。腕輪のはまった左手首を、右手で軽く押さえていた。


 クレモアがアルヴィスの腕から離れた。右肩を庇いながら歩いた。まっすぐリシュアに向かった。


 リシュアが動かなかった。


 クレモアがリシュアの前に立った。2人の距離が近かった。クレモアがリシュアの左手首に手を伸ばした。腕輪に触れた。指が動いた。何かの魔法を解く動作だった。音は出なかった。


 腕輪が外れた。


 地面に落ちた。金属の音がした。


 リシュアが左手首を見た。長い間、見た。腕輪のあった場所には、皮膚が少し擦れていた。何年も嵌まっていた跡だった。


「……礼は言わない」とリシュアが言った。


 クレモアが答えなかった。リシュアを見ていた。何かを言おうとして、言わなかった。それから目を逸らした。


 2人の間に、何年分かの重さがあった。ナナはそれを見ていた。何も言わなかった。言葉を挟む場所ではなかった。


 グリムも黙っていた。



 建物の奥で、レンがリアの近くに立っていた。


 リアは机の前に戻っていた。帳簿を机の上に置いていた。レンと話していなかった。ただ、レンが近くにいることを確かめるように、時々横を見ていた。レンは前を向いたまま、外の状況を見ていた。妹を視界の端に入れながら、外を見ていた。


 ナナはその2人を一度見た。それだけにした。



 クレモアが踵を返した。アルヴィスのところへ戻った。アルヴィスが左腕を差し出した。クレモアが掴んだ。


「クレモア」とナナが言った。


 クレモアが立ち止まった。振り返った。


「どこへ行くのですか?」


 クレモアが少し間を置いた。


「——それは、お答えできません」


 ナナは少し間を置いた。


「また来るのですか?」


 クレモアが少し考えた。考えてから言った。


「分かりません」とクレモアが言った。「ただ——あなたと話すのは面白い。それは変わらない」


 ナナが少し間を置いた。


「同じです」


 クレモアが少し、目を細めた。笑ったのかもしれなかった。表情が動いたのか、光の加減か、暗くて判別できなかった。


 アルヴィスが一礼した。深く、丁寧な礼だった。それからクレモアを支えて歩き始めた。南の暗闇に向かって、2人が遠ざかった。


 松明の光が届かなくなった。足音が消えた。



 しばらく、誰も言葉を出さなかった。


 グリムが息を吐いた。


「……去ったか」


「はい」


「『望みはあるか』、か」とグリムが言った。感心しているのか呆れているのか、判断しにくい口調だった。「合理的、ということか」


「そういう人です」


 グリムが腕を組んだ。


「クレモアがどこへ行くか——お前は気になるか?」


(気になる。外海に出るのか、どこかに拠点を作るのか。合理主義者が次に何を作ろうとしているのか——それは当分分からない)


「気になります。でも今は無理です」


「そうだな」とグリムが言い、南の暗闇を見た。それ以上は続けなかった。


 リシュアが地面の腕輪を見ていた。拾わなかった。少し間を置いてから、踏んだ。踏み砕こうとしたが、金属の腕輪は踏んでも壊れなかった。リシュアが足を離した。


「持っていきますか?」とナナが言った。


「要らない」とリシュアが言った。「お前が持っていけ。捨てるなり何なりしろ」


 ナナが腕輪を拾った。手の中に収めた。


(捨てない。これはリシュアが選んだ証拠だ。リシュアがクレモアに戻らないと決めて、ここまで来た——その跡だ。捨てる必要はない)


 リシュアが建物の奥のレンを見た。それからナナを見た。


「帰るぞ」


「帰ります。ただその前に——」とナナが建物に向かった。


 荷車に積まれていた砲の部品を確認した。砲身の部品、車輪、火薬の箱。次の攻撃の準備が揃っていた。


「燃やします」とナナが言った。


「やれ」とグリムが言った。


「炎よ、出ろ」


 火が建物の中の火薬に向かって走った。グリムがナナの腕を引いて建物の外に出た。


 爆発が来た。建物が内側から燃えた。南の平野に火柱が上がった。


 クレモア軍の陣が動いた気配があった。遠くに旗が揺れた。ただし来なかった。クレモアが撤退を伝えていたのかもしれなかった。陣の旗がゆっくりと下がり始めた。



 帰り道、レンがリアの横を歩いていた。


 4人と1人——5人で北に向かって歩いた。リアは帳簿も何も持っていなかった。補給拠点に残してきた。身一つだった。


 レンとリアは話さなかった。ナナの前を歩いていた。レンが歩調を合わせていた。リアが少し遅れそうになると、レンが自然に速度を落とした。それだけだった。


 ナナはその2人の後ろを歩いた。


 夜道の農地の外縁を歩きながら、焦げた刈り跡を踏まないようにした。


(シィラに連絡を入れる。クレモア軍が撤退した。採掘が止まる。大森林の東縁の問題は、これで一段落つく)


(クレモアがどこへ行くか言わなかった。外海か——それとも別の場所か。合理主義者は次の場所を既に決めている。決めていなければ撤退しない)


 夜の空に星があった。農地の焦げた跡が、月明かりの中に黒く見えた。


 イグレアの城壁が遠くに見え始めた。



 城門が開いた。リーゼが待っていた。4人と1人が中に入った。


 リーゼがリアを一度見た。それからナナを見た。ナナが小さく頷いた。リーゼが何も言わなかった。


 グリムが部隊に向かって短く言った。「終わった」


 それだけで充分だった。


 ナナは城門の内側で立ち止まった。南を見た。クレモア軍の陣の松明が、平野から消えていくのが遠くに見えた。旗が降りていた。


(終わった。クレモアとの戦いは——ここで終わった)


(でも全てが終わったわけでは無い。次が来る。セインからの情報が、もうじき届く頃だ。ルゼが動いている。宗教国家が動いている。クレモアが去った後の大陸は——より複雑になる)


 城内に明かりが戻った。居住区から声が聞こえた。


 ナナは南を見るのをやめて、城門を閉めた。

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