第79話 クレモア・クロック
誰も動かなかった。
建物の中で、レンと女が向き合っていた。レンは入口に立ったままだった。弓を下ろしていた。女は机の前の壁に張りついたままだった。帳簿をまだ持っていた。
ナナはリシュアを見た。リシュアが動かない理由が分からなかった。リシュアの視線が女とレンの間を行き来していた。
(リシュアは知っている。この女がレンの妹だと)
ナナが女を見た。改めて見た。レンと同じ目の形をしていた。17歳のレンより2つか3つ年下に見えた。髪の色が同じだった。
(レンの妹。リア)
レンが一歩踏み出した。それだけだった。名前を呼ばなかった。女——リアも声を出さなかった。ただ壁から離れて、レンに向かって一歩踏み出した。
そこで、背後に気配があった。
ナナが振り返るより早く、グリムが剣を抜いた。
建物の入口の外に、人が立っていた。
30代前後の男で、黒い外套を着ていた。目つきが鋭く、口数が少ない顔をしていた。アルヴィスだった。
その横に、もう1人いた。
細身の人物だった。黒い長衣を着ていた。顔が見えなかった。ランプの光が届かない位置に立っていた。ただし、その立ち方に覚えがあった。動かない時の静けさが、特別だった。
「リシュアが来ると思っていました」とその人物が言った。丁寧な口調だった。敬語だった。「やはりそうでしたか」
足が1歩前に出た。ランプの光に顔が入った。
クレモア=クロックだった。
ナナを見た。
「お久しぶりですね、ナナさん」
グリムが前に出ようとした。ナナが手で止めた。グリムが止まった。
「軍はいないのですか?」とナナが言った。
「補給拠点の守備兵は、今ここには来られません」とクレモアが言った。「ナナさんが来ることは想定していました。ただし今夜とは思っていなかった。砲がなくなってすぐ動くとは——合理的な判断です」
「褒め言葉として受け取ります」
「そのつもりで言いました」
クレモアが右手を上げた。白い光が掌の中に集まり始めた。魔導砲・収束型だった。ゆっくりと光が凝縮した。
「《魔導障壁・双層》」
ナナが魔力を両腕の前に展開した。二重の障壁が立ち上がった。物理と魔法を同時に受ける構造だった。
クレモアが撃った。
白い光が一点に収束して飛んできた。障壁に当たった。障壁が揺れた。ひびが走った。持った。
(重い。魔力の密度が高い。第一撃でこれだけの出力を出せる——クレモアの魔力は本物だ)
ナナが障壁を維持しながら横に動いた。クレモアとの距離を測った。建物の外に出る形になった。夜の暗闇の中に立った。
「炎よ、出ろ——」
火の塊を続けて3発放った。クレモアが障壁を展開して受けた。後退しなかった。受けながら次の砲撃の準備をしていた。
2発目の砲撃が来た。ナナが横に跳んだ。地面を転がって立ち上がった。砲撃が地面を抉った。
(距離を詰める。遠距離では砲の出力に押し負ける。近ければ機動で上回れる)
ナナが走った。距離を詰めた。クレモアが後退した。障壁を維持しながら後退した。ナナが雷の魔法を地面に走らせた。
「雷鎚陣」
地面に雷の陣が広がった。クレモアが跳んで回避した。着地した瞬間、ナナが炎を放った。クレモアが右腕で障壁を作って受けた。右腕の袖が焦げた。
2人が距離を保ちながら動いた。
建物の入口でグリムが立ったままだった。動かなかった。ナナが目だけで止めていた。グリムはその意味を理解していた。
(魔王同士の話だ。グリムを巻き込まない)
クレモアがもう一度砲撃を溜め始めた。白い光が大きくなっていた。今度は第一撃より出力が高かった。
「《魔導障壁・双層》」
ナナが再び展開した。砲撃が来た。障壁が揺れた。ひびが増えた。ナナが後退した。踏みとどまった。
クレモアが話した。撃ちながら話した。
「あなたはイグレアを守ることしか考えていない」
「今はそうです」
「あなたの能力があれば——もっと広い範囲を動かせるはずです」
ナナは障壁を維持したまま答えた。
「動かす、とは?」
「合理的な判断で世界を再編することです」とクレモアが言った。砲撃の準備をしながら、声は落ち着いていた。「感情や慣習ではなく、能力のある者が適切な役割を担う体制を作る。あなたならそれができる」
ナナは少し間を置いた。障壁のひびを確認しながら、考えた。
「誰がその合理的な判断をするのですか?」
クレモアが少し止まった。
「能力のある者が——」
「基準を作る者が全てを決める」とナナが言った。「以前、言ったはずです。それは評価者による支配です。合理的な判断と言っていますが、その合理の基準はあなたが作る。もう一度聞きます。誰がその基準を評価しますか?」
クレモアが答えなかった。
ナナが踏み込んだ。
障壁を畳んで前に出た。距離が一気に縮まった。クレモアが反応した。砲撃の光が近距離で収束した。ナナが横に体を捻った。光が脇を掠めた。
炎を右手に集めた。全部ではなかった。狙いを絞った。
クレモアの右肩に当てた。
クレモアがよろけて後退した。膝をつきかけた。障壁を立て直そうとしたが、出力が下がっていた。
ナナがもう一歩踏み込んだ。雷を左手に溜めた。
クレモアが膝をついた。
「——クレモア様」
アルヴィスが前に出た。クレモアとナナの間に体を入れた。剣を抜いていた。目が鋭かった。
ナナは手の雷を散らした。
アルヴィスが剣を構えたまま動かなかった。クレモアの前に立っていた。
クレモアがゆっくりと顔を上げた。右肩を押さえていた。鎧が焦げていた。それでも目が澄んでいた。乱れていなかった。計算していた目だった。ボロボロになっても、その目だけは変わらなかった。
少し間があった。
「……負けました」
クレモアが言った。敬語だった。感情の起伏がなかった。ただし、その言葉は本物だった。




