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第77話 夜明け

 最初に分かったのは、石の感触だった。


 背中に石があった。城壁の上の石だった。空が見えた。さっきより色が変わっていた。昼の白い空ではなく、夕方の色をしていた。


「どのくらいですか?」


「4時間だ」とグリムの声がした。


 隣にいた。城壁の上に膝をついて、ナナの横にいた。鎧に血がついていたが、グリム自身の傷ではなさそうだった。剣はまだ手の届く場所に置いてあった。


 ナナは起き上がろうとした。腕に力が入らなかった。グリムが背中に手を当てて支えた。


「急がなくていい」


「状況を教えてください」


「話せる状態になってから聞け」


「今聞けます。大丈夫です」


 グリムが少し間を置いた。それから城壁の外を一度見て、ナナに向き直った。


「砲は沈黙した。歩兵は押し返した。今は南の平野の向こうに引いている。撤退ではない——陣を立て直している」


「死者は?」


「出ていない。負傷者が7名。ダリオとカルの班に集中している。動けないほどの者はいない」


 ナナは少し息をついた。


(死者が出なかった。それだけでいい。今は)


「農地は?」


「外縁の刈り跡が焦げた。昨夜の砲の火薬が飛んだ分だ。作物はない。土への影響はターニが確認している」


「居住区は?」


「北側の通路の壁が焦げた。構造には問題ない。ガリンが確認した」


 ナナがもう一度起き上がろうとした。今度は腕が動いた。グリムが手を離さずに支えた。城壁の上に座る形になった。南の平野が見えた。遠くに陣の旗が見えた。クレモア軍はまだいた。


「ゴルドーから連絡は来ていますか?」


 グリムが少し間を置いた。


「来ていない」


 城壁の下から声がした。


「ナナ」


 低い声だった。聞いたことのある声だった。



 ゴルドーが城門から入ってきていた。


 大柄な体に、いつもの重厚な鎧をつけていた。ただし左腕の部分に、鎧の上から布が巻かれていた。布に赤いものが滲んでいた。カイルとサルがその後ろについていた。ベインの姿がなかった。


 ナナは城壁を降りた。グリムが後ろについてきた。


 ゴルドーがナナの前に立った。大柄な体から見下ろすのが普段のゴルドーだったが、今は少し背を丸めていた。左腕を庇っていた。


「すまなかった」とゴルドーが言った。


「ゴルドー、腕を」


「後でいい」とゴルドーが言い、続けた。「2方向から来た。1方向はカイルたちと一緒に止めた。もう1方向——崖の上から来た。獣道だった。そっちに回れなかった」


「ベインは?」


 カイルが前に出た。


「足を折りました。峠のそっちに残してあります。動けないほどじゃないですが、歩いてここまでは来られませでした」


「分かりました。後で迎えを出します」


 ナナはゴルドーに向き直った。


「ゴルドーは悪くありません」とナナが言った。


 ゴルドーが顔を上げた。


「私の計算が甘かったです。2方向で同時に来られると、4人では止めきれない。峠に送る前に、もう少し地形を確かめておくべきでした」


 ゴルドーが何か言おうとした。ナナは続けた。


「ゴルドーが抜かれたのではありません。私が見えていなかった部分があった。それだけです」


 横でグリムが少し動く気配がした。声は出なかった。


 ゴルドーがしばらく黙っていた。大柄な体が、少しだけ緩んだ。


「……嬢ちゃんがそう言うなら、そういうことにしておく」


「腕を見てもらってください。元野戦医のところへ」


「それくらいは自分でできる」とゴルドーが言い、左腕を少し持ち上げた。「骨は折れていない。肉を削られただけだ。大したことはない」


「大したことはあります。行ってください」


 ゴルドーが短く笑った。それから城内の方へ歩き始めた。カイルとサルが後ろについた。



 グリムがナナの横に来た。


「驚いた」とグリムが言った。


「何がですか?」


「お前が『私の計算が甘かった』と言ったことが、だ。言えるとは思っていなかった」


「事実です」


「事実を言える奴が少ないということだ」とグリムが言い、南の平野の方を見た。「それで次はどうする?」


 ナナも南の平野を見た。陣の旗がまだ動いていた。クレモア軍が再編成を続けていた。


「クレモアは砲を失いました。後方に補給拠点があります。レンが昨日確認しています。次の砲を引いてくるか、別の手を打つか——今夜か明朝には動くと思います」


「補給拠点を叩けるか?」


「叩ければ、再攻撃の手段がなくなりますし、そうしたいのですが」とナナが言い、少し間を置いた。「ただ今夜は動けません。魔王化の後遺症が抜けていないので。明朝、体が動くようなら考えます」


「無理はするな」


「するつもりはありません。ただ——補給拠点は時間が経つほど守りが固くなります。明朝までには判断します」


 グリムが頷いた。



 エリスが城壁の内側で作業していた。


 クルトとセルマとロスが壁に手を当てて、魔法で石を繋いでいた。昨夜と今日の砲撃で入ったひびを塞ぐ作業だった。エリスがその横に並んで、別の箇所を見ていた。


「エリス」とナナが言った。


 エリスが振り返った。ナナの顔を見て、少し間を置いた。それだけで何も言わなかった。


「ありがとうございます」とナナが言った。「昨夜の砲を止めてくれたことと、今日の間、城内を頼んでいたことと」


「私は自分の仕事をしただけよ」とエリスが言った。「ロスも、クルトも、セルマも。みんな自分の仕事をしただけ」


 ロスが壁から手を離さないまま、小さく頷いた。


「今夜は休んでください」とナナが言った。


「修繕が終わってから」とエリスが言い、壁に向き直った。


 クルトが杖をついたまま横を向いた。


「今夜中には終わる」と老人が言った。「明日の朝には使えるようにする」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」とクルトが言い、また壁に向いた。



 夜になった。


 クレモア軍の旗は動かなくなっていた。陣の松明が平野に並んでいた。攻撃の動きはなかった。砲がない今夜は、正面から来ることはないと判断していた。


 ナナは中庭に出た。体はまだ重かったが、立っていられた。


 オズが来た。帳簿を持っていた。いつも通りだった。


「報告があります」とオズが言った。「負傷者7名の状況、食料の消費、ベインの迎えに出す人員の案です」


「お願いします」


 オズが帳簿を開いた。それから少し間を置いて、顔を上げた。


「団長」


「はい」


「死者が出なかったです」とオズが言った。事務的な口調だったが、そこだけ少し違った。「私が数えている人口の中に、減った数字がない。それだけ報告しておきたかった」


 ナナは少し間を置いた。


「そうですか。分かりました」


「では報告します」とオズが帳簿を開いた。


 中庭の向こうで、居住区の明かりが戻っていた。食堂から声が聞こえた。128人が、今夜もまだここにいた。ゴルドーの笑い声が混じっていた。腕の傷の手当が終わったらしかった。


 ナナはオズの報告を聞きながら、南の方角を一度見た。


(補給拠点がある。明朝、体が動けば話を進める。クレモアが次を打つ前に——こちらが動く)


 今夜は静かだった。長い静けさが、明日の前にあった。

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