第76話 魔王化
夜明けは静かに来た。
城壁の上から南を見ると、砲の燃えた残骸が平野に転がっていた。護衛の歩兵が遠巻きに集まっているのが見えた。旗が動いていた。再編成をしていた。撤退ではなかった。
ナナは一晩城壁の上にいた。グリムに「少し休め」と言われたが、動かなかった。眠れる状況でもなかった。
ガリンが城壁の亀裂のところに来て、また槌を当てていた。夜の間に応急の修繕をしていたが、昨夜の2発が続けて当たった箇所はまだ完全ではなかった。
「もちますか?」とナナが聞いた。
「昨夜の修繕で今日1日はもつ」とガリンが言った。「ただし同じ場所に集中してくれば話が変わる。クレモアが学んでいれば、同じ場所を狙ってくる」
「学ぶ人間です」
「ならもたない」とガリンが言い、槌を置いた。「補強材が要る。石を運ぶ時間をくれれば夕方までに厚くできる。ただし今日の午前中に砲が撃ち始めれば。時間がない」
ナナは南の平野を見た。クレモア軍の旗がまだ動いていた。
再編成が終わったのは昼前だった。
レンが城壁の外に出て偵察し、戻ってきた。
「砲が1門、修理されている。昨夜の砲ではない。別の砲だ。後方から引いてきたらしい。歩兵は再編成で200近くまで戻っている」
「後方に補給拠点があったということですか」
「ある。街道の南、1日の距離に荷車が集まっていた。昨夜の砲は壊れたが、替えが来た」
ナナは少し間を置いた。
(クレモアは撤退しない。砲を1門修理して、再び正面から来る。歩兵は再編成された。昨夜の北からの侵入部隊は壊滅か撤退か、今日は正面だけで来る可能性がある)
(ガリンが言った。同じ場所を狙われたらもたないと。クレモアは昨夜の着弾位置を知っている。今日は最初からそこに集中して撃ってくる)
「グリムを呼んでください」
レンがすぐに動いた。
グリムが来た。ドーガも一緒だった。
「状況を話します」とナナが言い、南の平野を指した。「砲が1門、修理されて戻ってきました。歩兵は200近い。今日、正面から来ます。昨夜の着弾点を集中して狙われると、城壁がもたない可能性があります」
「ガリンが言ったか」とグリムが言った。
「はい。補強材を積む時間があれば夕方までに厚くできると言っています。ただし午前中に砲が撃ち始めれば時間がないそうです」
ドーガが平野を見た。
「護衛は昨日より薄くなっている。北の侵入部隊に当てた分が戻っていないのかもしれない。昨日の出撃で潰した3門の砲手も欠けている」
「出られますか?」とナナが聞いた。
「出られる。ただ——」とドーガが言い、グリムを見た。「昨日の負傷が4名いる。ダリオは左肩だ。動けないことはないが、機動力が落ちる」
「実働は何名ですか」
「城壁に10名を残すなら、動かせるのは17名から4名を引いて13名。それが現実だ」
グリムが腕を組んだ。
「13名で砲の護衛を突き破れるかどうか——護衛が薄くなっていれば、できないことはない」
「わかりました」とナナが言った。「砲が撃ち始めた直後——砲手が次弾の準備に入った間は、護衛の注意が砲に向きます。その隙に出てください」
「分かった。準備しておく」とグリムが言い、ドーガに頷いた。
砲撃が始まったのは昼を少し過ぎた頃だった。
1発目が城壁の南面に当たった。昨夜と同じ箇所だった。ガリンが走った。
「学んでる」とガリンが走りながら言った。怒っていたが、落ち着いた怒り方だった。「同じ場所だ。補強が間に合っていない」
2発目が来た。またも同じ場所だった。ガリンが亀裂の上から手を離した。亀裂が広がっていた。
「ナナ」とガリンが言った。昨日と同じ言い方だった。
「分かっています」
「今度は昨日と違う。3発目で第二区画が崩れる。崩れると城壁の上が使えなくなる。それだけじゃない。崩れた石が城内側に落ちる。下にいる者に当たる」
「グリム!」とナナが城壁の下に声を出した。
グリムが見上げた。
「城門の内側から離れてください。第二区画の下から全員を動かしてください!」
「崩れるか?」
「3発目が来れば!」
グリムがすぐに声を出した。城門の内側にいた者たちが散った。ドーガが東の通路に班を誘導した。
南の平野で砲が向きを確かめていた。3発目の準備をしていた。護衛の歩兵が砲の周囲を固めていた。砲手が動いていた。
ナナは城壁の縁に立って南を見た。
(条件を確認する)
(砲を今潰せば決着が見えるか——残り1門だ。これを潰せば砲撃は止まる。歩兵は再編成されているが、砲がなければ城壁を崩せない。決着が見える)
(昏睡後の護衛をグリムに伝えるか——今から伝える)
(退路はあるか——城壁の上だ。グリムが来られる)
「グリム!」とナナが言った。
グリムが見上げた。城壁の下、第二区画から離れた場所に立っていた。
「魔王化します。砲を潰します。30分後には動けなくなります。城壁の上で倒れます。護衛をお願いします」
グリムが少し間を置いた。長くはなかった。
「任せろ!」
それだけだった。ナナはグリムが聞き返さなかったことを確認した。護衛の意味を理解していた。
ナナは目を閉じた。
魔王化は、普段は意識の奥に押し込んでいるものを表に出す作業に似ていた。引き出し方は分かっていた。引き出すことも、今は怖くなかった。ただし引き出した後に何時間も使えなくなる。それを知っていて引き出す。
額に熱が来た。城壁の石の感触が足の裏から消えた。代わりに、南の平野の全体が広く見えた。砲の位置が分かった。護衛の歩兵の数が分かった。砲手が3発目の準備を終えていた。
「《魔王砲・零式》」
声が変わった。低く、響いた。
黒い光が城壁の上から南の平野に向かって走った。音もなく。城壁の上から見えた砲の位置に向けて、まっすぐ飛んだ。砲座に当たる。砲が吹き飛んだ。護衛の歩兵が波のように散った。火薬が誘爆して、南の平野に煙が上がった。
歩兵の動きが止まった。200近い歩兵が、南の平野で一瞬だけ動きを失った。
(止まった。動揺している。今だ——グリム)
城門が開いた。
グリムの声が聞こえた。「出るぞ」
ドーガが続いた。13名が城門から走り出た。動揺した歩兵に向かって、まっすぐ走った。ナナは城壁の上からそれを見ていた。見ていられた。まだ見えていた。
グリムが歩兵の中に入った。大剣が動いた。ドーガが右から回り込んだ。13名が楔を打ち込む形で歩兵の隊列を分断した。
足に来た。
意識が遠くなる前に来るものだ、とナナは知っていた。前回も同じだった。ただ今回は城壁の上だった。足元に何もないところで膝が折れた。
城壁の石が来た。手で受けた。手が滑った。
グリムの声が近くで聞こえた。
いつ城壁の上に来たのか分からなかった。ただしグリムの手がナナの体を支えていた。城壁の石の上に降ろされた。空が見えた。昼の空だった。
「グリム」とナナが言った。声が出たかどうか分からなかった。
「ここにいる」とグリムの声がした。
南の平野の音が遠くなった。剣の音が聞こえていたが、だんだん小さくなった。
ナナは目を閉じた。




