第71話 農地
夜明け前に、ナナは城壁に上がった。
火は持たなかった。東の空がまだ黒く、南の平野は暗い中に広がっていた。雨上がりの匂いがした。風が南から来ていた。
城壁の上から見ると、農地の広がりがよく分かった。小麦の刈り跡が縞模様になって続き、その向こうに豆畑と野菜の畑があった。ターニたちが半年かけて耕した土地だった。今季の収穫で食料の3割を自給できるようになった、とオズが帳簿を示しながら言っていた。来年は6割を目指せると。
南の街道は、あの農地の中を通っている。
(クレモア軍が北上すれば、必ず農地を踏む。迂回路はない。砲を引いた部隊が通れる道は1本だ)
ナナは城壁の縁に手を置いた。石はまだ夜の冷たさを持っていた。
(収穫後の刈り跡だから作物そのものは残っていない。だが土を踏み固められれば、来年の耕作に影響が出る。砲の車輪と自走牽引車の重さで——土の構造が変わる)
ターニの言葉を思い出した。「南の平野は土が良い。耕せます」と言った時の顔を。難民として来て、土を掘って、少しずつ作物を育てた人間の顔だった。
夜明けと同時に、中庭にグリムとドーガが揃っていた。リーゼとエリスも来ていた。ナナが昨日の夜に呼んでおいた。
「昨日の続きから始めます」とナナが言い、図を広げた。城塞と農地と街道を描いた粗い地図だった。「クレモア軍は南の街道を北上しています。現時点でレンの報告では歩兵200以上、砲が複数、自走牽引車。今日の斥候で数が固まると思います」
「砲の位置と向きで戦い方が変わる」とドーガが言った。「城壁を狙うなら正面から来る。農地に陣を敷くつもりなら、南の平野に展開してから砲を据える」
「農地に陣を敷いた場合、どうなりますか?」
「農地が踏み潰される。陣地を作れば掘削も入る。土を掘って盾にする」
ナナは少し間を置いた。
「農地を守ることと、城を守ることは、今は別の話です」とナナが言った。「城の防衛が優先です。農地のために城外に出て戦えば、砲の射程に入る」
「分かってる」とグリムが言った。腕を組んで地図を見ていた。「ただ農地を陣地にされると城壁への砲撃が楽になる。距離が縮まる」
「そこです」
ドーガが顎に手を当てた。
「農地を渡さないための策があるなら、出す価値はある。ただし城外に出るのは砲が据わる前だ。据えられたら出られない」
「据わる前に出て、砲が来る前に退く」
「それが間に合うかどうかを確認する必要がある」とドーガが言った。「レンの次の報告次第だ」
グリムが顎を引いた。反論はしなかった。
エリスが口を開いたのはその後だった。
「マルセル先生から返事が来た。志願者が3人いる。3日後にはここに着く」
「何者ですか?」
「先生の教え子のうち2人と、自薦の1人。先生はこう書いてた——『3人いれば戦える。1人は当てにするな。どれがどれかは着いてから分かる』」
グリムが短く笑った。「相変わらずだな」
「先生らしい」とエリスが言い、少しだけ口元が動いた。「3人の配置は私が決める。城壁の内側に1人、砲への牽制に1人、私が動く間の後詰に1人」
「了解です。エリスに任せます」
「私が来るまでに城壁の上で立てる位置を決めておいて」
それだけ言ってエリスは地図に視線を戻した。
議論が一段落した後、ナナはターニのところに行った。
居住区の農具置き場の近くで、ターニは他の農民たちと翌朝の作業を話し合っていた。50代の女で、髪に白いものが混じっていたが、背筋は真っ直ぐだった。ナナを見て話を止めた。
「団長さん。朝早いですね」
「少し話せますか?」
ターニが農民たちに目で合図して、ナナの方に向いた。
「南からクレモアの軍が来ています」とナナが言った。「今日か明日、農地の近くまで来ると思います」
ターニの顔が動かなかった。少しの間があってから言った。
「農地は?」
「街道を軍が通ります。踏み固められる部分は出ます。陣を敷けばさらに広がる可能性があります」
「……どの程度ですか?」
「分かりません。まだ軍の動きが確定していないので」
ターニが南の方角を見た。城壁の向こうに農地があった。夜明けの光が平野に広がり始めていた。
「今年の収穫はもう終わっています」とターニが言った。声が少し低かった。「踏まれても、この季節に出る作物はない。ただ——」
少し間があった。
「来年のことが心配です。土を踏み固められると耕し直しが要ります。掘削が入れば土の層が変わる。回復するのに2年はかかる」
「分かっています」
「分かっていると言ってくれるなら、それでいいです」とターニが言った。怒ってはいなかった。低く、落ち着いた声だった。「私たちのことを考えてくれているのは伝わってます。ただ知りたかった」
「だから、伝えに来ました」
「ありがとうございます」とターニが言い、一度頷いた。それから少し間を置いて続けた。「農具と種の保管場所は居住区の中に移します。城壁の外に置いておくよりは、中がいい」
「助かります。人手が要るなら言ってください」
「自分たちでできます」
ターニが農民たちのところへ戻った。何かを短く言うと、全員が動き始めた。
ナナが中庭に戻ると、レンが来ていた。
馬を引いていた。旅の埃がついていた。
「砲の数が固まった」とレンが言った。「4つ。車輪付きの砲で、全部南の街道に並んでいる。自動で動いている車は2台。歩兵は230から240の間。旗印はクレモアのものだ」
「距離は?」
「今朝の夜明けに確認した時点で、農地の南端まであと半日」
ナナは頭の中で距離を計算した。
(半日——砲が農地に入るのは今日の昼過ぎ。陣を敷くなら農地を通り過ぎてから組み直す。城壁正面まで来るとすれば夕刻から夜にかけて。砲を据えるのは夜明け以降、おそらく明朝)
「砲が農地の中に入る前に、外に出ることは間に合いますか?」
レンが少し考えた。
「間に合う。ただ退くのは砲が展開し始める前でないと厳しい。据え始めたら距離が分からない」
「分かりました」
ナナはドーガに視線を向けた。ドーガがいつの間にか中庭に戻ってきていた。
「聞こえていましたか?」
「聞こえていた」とドーガが言った。「出るなら今日しかない。ただ人数は絞る。10以上出せば城の守りが薄くなる。5から6人、足が速い者だけで出て、砲車を遅らせる。農地を陣地にさせない」
「グリムに話せますか?」
「もう話した。グリムも同意見だ」
ナナは少し間を置いた。
(5から6人で砲を引いた部隊を遅らせる。人数の差は50倍以上。ただ——砲は馬で引いている。馬を止めれば砲が止まる。夜間に速い者が動けば可能性はある)
(それでも農地は踏まれる。道を通る限り、踏まれる部分は出る。完全には守れない)
(完全には守れなくても、陣地にさせない。それだけで意味が変わる)
「誰を出しますか?」
「レン、ジャック、ジョン。それと俺が出る」とドーガが言った。「4人でいい。夜に動いて夜明け前に退く」
「了解です」
「任せてくれるか?」とドーガが聞いた。言葉は短かったが、確認の意味があった。ナナに決定権があることを前提にした問い方だった。
「任せます。ただし——必ず全員戻ってきてください」
「その条件は呑む」とドーガが言い、地図を手に取った。
夕刻、オズがナナのところに来た。
「農具と種の移送が終わりました。ターニさんが報告してくれました」
「分かりました」
「城内の食料備蓄は現在、1ヶ月半分です。包囲が長引いた場合の想定はしておくべきでしょうか」
「してください。ただし今のところ長期包囲になるとは思っていません。砲を持ってきているということは、短期で決めるつもりです」
「クレモア様らしい」とオズが言った。言葉は事務的だったが、少し間があった。「クレモア様との交渉が終わったと分かった時——団長は城壁に向かっていましたね。防衛配置を見に行ったのだと思います」
「そうです」
「交渉が終わった後に、すぐそれができる人間は多くないと思います」とオズが言った。それ以上は続けなかった。帳簿を持って部屋へ向かった。
ナナは中庭に残った。
居住区から明かりが漏れていた。食堂の方から声が聞こえた。128人が夕食を取っていた。ドーガとレンの姿は見えなかった。ジャックとジョンも、いつの間にか中庭から消えていた。
(今夜、農地を誰かが守ろうとする。4人で。それで守り切れる保証はない)
(ただ農地は、誰かが耕したものだ。難民として来て、何もないところから耕したものだ。そこに軍を据えさせることと、遅らせることは——意味が違う)
風が南から来ていた。農地の匂いがした。土の匂いと、刈り取り後の乾いた草の匂いが混じっていた。
ナナは城壁の方へ歩いた。今夜、城壁の上から南を見ておく必要があった。




