第65話 エルフの使者
シィラが来たのは、レンからの報告が入った直後だった。
「東から人が1人。徒歩だ。武器は持っていない。エルフだと思う」
「年齢は?」
「若い。女性だ」
ナナが少し間を置いた。
「中に入れてください」
城門が開いた。
入ってきたのは、細身の若い女性だった。長い耳。淡い緑色の髪が、歩くたびに揺れた。旅の埃が外套についていた。靴が傷んでいた。遠くから来た足だと分かった。
ナナが近づいた。
「ようこそ。私が第七魔王ナナミア=ヴァル=ミリスです」
女性がナナを見た。少し驚いた顔をした。それをすぐに抑えた。
「……シィラと申します。精霊の大森林から来ました。エルドランに遣わされました」
ナナは少し間を置いた。
「遠いところから来ましたね。まず座ってください。話を聞かせてください」
中庭の奥の部屋に通した。エリスが水を持ってきた。シィラが礼を言って飲んだ。
「森の東縁の話です」
シィラが話し始めた。声が落ち着いていた。急いでいるのに、言葉を選んでいた。
「クレモア様の鉱山開発が、東縁まで来ています。1ヶ月前は3キロ先でした。今は1キロを切っています」
「精霊の大森林の東縁ですか」
「はい。このままでは——半年以内に、森の縁に届きます」
ナナが少し間を置いた。
「エルドランは、外交で解決すると言っていますね」
シィラが少し驚いた顔をした。
「……ご存知なんですか?」
「定期的に連絡を取っています」
シィラが少し息を吐いた。知っているなら話が早い、という顔だった。
「クレモア様への交渉は?」
「使者を送りましたが、門前払いでした。クレモア様側からの接触もありません」
シィラが少し声を落とした。
「エルドランは待てと言います。でも——現場は待てない速さで削られています。だから私が来ました」
(エルドランの判断と、シィラ自身の焦りは別物だ)
「分かりました。話は聞きました」
シィラが少し前のめりになった。
「助けてもらえますか?」
ナナはシィラを見た。疲れた目が、ナナを見ていた。遠くから来た目だった。
(すぐには動けない。クレモアとの交渉は始まったばかりだ。腕輪の件が動いていない段階で森の問題を持ち込めば、交渉の焦点が散る。ただし——放置すれば半年で手遅れになる)
「すぐには動けません」
シィラの表情が少し固まった。
「少し待って頂けますか?」
「……どれくらい、ですか?」
「クレモア様との交渉が進行中です。その中で、森の問題も話し合える段階を作ります。時間はかかります。ただし、なかったことにはしません」
シィラが黙った。水の入った椀を両手で持ったまま、下を見ていた。
ナナは何も言わなかった。
(待ってくれと言うのは簡単だ。待つ側には重い。それは分かっている)
(ただし今ここで「動く」と言えば嘘になる。嘘をついて動けなかった時の方が、ずっと悪い)
シィラが顔を上げた。
「……分かりました」
「はい」
「待ちます。ただし——連絡を頂けますか? 状況が変わった時に」
「必ず連絡します」
シィラが頷いた。それから少し表情が緩んだ。緊張が解けたのではなく、決めたから緩んだように見えた。
「今夜、泊めて頂けますか? 明日の朝に発ちます」
「もちろんです。エリス、案内してもらえますか」
エリスがシィラを連れて出ていった。
部屋に一人残った。
窓から農地が見えた。ターニが畝の間を歩いていた。夕方の光だった。
(すぐには動けない、と言った。正しい判断だ。ただし——シィラが帰った後も、森の東縁は削られていく)
(待つように頼んだ。その間に、動く準備をする)
グリムが入ってきた。廊下で聞いていたらしかった。
「エルフか」
「はい」
「森の問題は把握した。クレモアとの交渉と同時に動くつもりか」
「クレモアとの交渉の中で、森の問題を議題に入れます」
「条件が増えるな」
「はい」
グリムが腕を組んだ。
「シィラには待てと言った。それは正しい。ただし——クレモアが森の問題を交渉の外に置こうとする可能性は?」
「あります」
「その時は?」
「その時は別の道を探します。まだ考えていません」
グリムが少し間を置いた。
「まだ考えていない、か」
「はい」
「……正直だな」
グリムが腕を組んだまま窓の方を向いた。農地を見た。しばらくそのままだった。それから、何も言わずに部屋を出た。
足音が廊下を遠ざかっていった。
(グリムは答えを求めていない。確認しているだけだ)
(私が考えていることを、確かめている)
翌朝、シィラが発った。
城門を出る前に振り向いた。
「ありがとうございました。待ちます」
「連絡します」
シィラが頷いて、東の方角へ歩いていった。細身の背中が、街道の先に小さくなっていった。
その日の午後、バロウからの文書が届いた。
レンが持ってきた。アルトハイムの傭兵ギルド受付、隻眼のバロウだった。以前から時折、依頼や情報が届いていた。
「アルトハイム周辺の情報収集依頼。報酬は金銭ではなく、情報の相互提供。こちらが集めた情報を渡す代わりに、そちらが持つ南方の情報をもらいたい。受けるなら人を2名送ってほしい。期間は10日」
ナナが文書を読んだ。
(バロウが情報交換を求めてきた。アルトハイムは中立都市だ。そこに根を張るバロウが持つ情報は、南方とは別の方角の話が多い)
「受けます」
レンに顔を向けた。
「レン、ジャックと一緒に行ってもらえますか?」
「分かった」
「10日で戻ってください。帰りに廃港の方角を確認してきてほしい」
レンが少し間を置いた。
「廃港?」
「南西の方角に古い港があると聞いています。船が残っているかもしれない。ついでに見てきてください」
「分かった」
レンが出ていった。短い話だった。それで十分だった。
夕方になった。
オズが報告に来た。帳簿を抱えていた。いつもより少し疲れた顔をしていた。
「今日の食料配分の確認が終わりました。ただ——」
「何か問題が?」
「情報の整理が追いつきません」
オズが帳簿を開いた。
「クレモアとの試験的な情報交換が来月から始まります。ストーンフォールからの報告が月2回届きます。ヴェルナー公爵との協定で情報共有が始まりました。バロウへの使者を出しました。シィラさんとの連絡も約束しました」
オズが帳簿を閉じた。
「私1人では、これらを整理しきれません。どこに何が書いてあるか分からなくなります」
ナナが少し間を置いた。
「整理する仕組みを作ります」
「どのように?」
「外交の記録はオズさんが持つ。依頼の記録はベラさんの窓口と連携する。物資はヴォルクから月次で受け取る。衛生と人口は元野戦医から受け取る。それぞれが別の帳簿に入るようにします」
「つまり——私が集約するのではなく、それぞれが自分の範囲を記録して、私は外交だけを見る」
「はい。オズさんが全部を持つ必要はありません」
オズが帳簿をしばらく見ていた。それから頷いた。
「分かりました。各担当に記録の形式を伝えます。明日から動かします」
「お願いします」
オズが食堂に向かいかけて、少し立ち止まった。
「……団長、1つ聞いてもよいですか」
「はい」
「今日、エルフのシィラさんに『すぐには動けない』と言いましたね」
「はい」
「私はあの場にいませんでしたが、エリスから聞きました」
オズが少し間を置いた。
「動けないのに、なぜ待つよう頼んだんですか?」
ナナがオズを見た。
「今は無理です。ただし——必ず動ける時が来ます。その時まで、シィラには待っていて欲しいのです」
「動けると確信があるんですか?」
「確信はありません」
オズがナナを見た。少し間があった。
「……確信がないのに、待たせるんですか」
「はい」
「シィラさんが待てなかったら?」
「その時は、間に合わなかったということです」
オズが帳簿をまた開いた。何かを書き込んだ。それから閉じた。
「……承知しました」
納得したというより、記録した、という顔だった。それから食堂に向かった。
夜になった。
セインが来たのは日が落ちてからだった。
城門に馬が1頭来た。レンではなくジャックが確認に出た。「フォルケンから来たと名乗っている。魔族の男だ。1人だ」
「通してください」
男は細身だった。40代に見えた。黒い外套で顔の半分が隠れていた。馬から降りて、城壁を一度見上げた。それから中庭を見た。市場の屋根を見た。ギルドの窓口を見た——窓口のところで、目が少し止まった。
「あなたが第七魔王ですか」
「はい」
男がナナを見た。少し間を置いた。値段を確かめるような間だった。
「……思ったより若い」
「よく言われます」
「それは失礼しました。セインと申します。フォルケンに住んでいます」
「用件を聞かせてください」
セインが少し笑った。笑い方が、商人のものだった。
「単刀直入に話します。ルゼが純血主義に賛同する魔族を北東に集めています。私のような——人族と混ざって生きている魔族は、居場所が狭くなっています」
「それを私に話しに来た理由は?」
「情報が欲しいからです。こちらが北東の動向を提供する。代わりに、あなたが持つ南方の情報をもらいたい」
(バロウと同じ構造だ。情報の交換。ただしセインは魔族で、ルゼの動向に直接近い)
「条件を聞かせてください」
「月1回の文書交換。内容は、お互いが判断した範囲で構いません。ただし嘘は書かない——それだけです」
「信用の担保は?」
「ありません。最初は信用できないと思って構いません。ただ——足を運んだのは事実です。そこから始めましょう」
ナナがセインを見た。細い目だった。値踏みしているのか、されているのか、分からない目だった。
(担保はないと言った。嘘をついても分からない。ただし——来た、という事実は本当だ)
「分かりました。試しに1回やりとりをしましょう。それで判断します」
「結構です」
セインが短く頷いた。
「今夜の情報を1つ置いていきます。ルゼの使者が先月、第二魔王グラ=ベイルのもとを訪ねました。返答は聞けていませんが——ルゼが各方面に使者を送り始めた、ということだけお伝えしておきます」
(グラ=ベイルへの使者。ルゼが動き始めている)
「ありがとうございます。こちらからも1つ。南の空白地帯は、現在は略奪集団の残党のみです。大きな勢力は動いていません」
「それは知っています」
「知っていても、確認できることに価値があります」
セインが少し間を置いた。それから「なるほど」と言った。
「では、来月また」
「はい」
セインが馬に乗った。城門に向かう前に、もう一度ギルドの窓口を見た。
「……魔王が傭兵ギルドに登録しているとは、面白い話です」
「必要だからです」
「そうですね」
セインが出ていった。
夜が深くなった。
オズが帳簿を広げて仕組みの設計を始めていた。食堂の端に明かりが点いていた。
ナナは中庭に出た。
今日1日で、シィラ・バロウ・セインという3つの動きが同時に始まった。シィラは森の東縁の問題を持ってきた。バロウは南方の情報を求めた。セインはルゼの動向を持ってきた。
(3つとも、今日来るとは思っていなかった)
(ただし——来た。それぞれに理由があって、ここに来た)
城壁の上でレンが出発の準備をしていた。明日の朝、ジャックと共にアルトハイムへ発つ予定だった。暗い中で、静かに弓の手入れをしていた。
ナナは城壁を見上げた。
(情報が増えていく。人が増えたように、情報も増えていく。増えた分だけ——動ける場所が広がる)
(シィラに待てと言った。待つ間に、動く準備をする)
ガリンの槌の音が聞こえた。今夜も作業していた。城壁の第二区画に取り掛かっているらしく、石を叩く音が少し方角を変えていた。
オズの明かりが食堂の窓から漏れていた。
ナナは中庭に立ったまま、しばらく動かなかった。




