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第七魔王戦記 ~少女魔王は戦場にて微笑む~  作者: 猫じゃらし
第2部  調停者の戦場 第1章 廃墟から城砦へ
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第64話 クレモアとの第一交渉

 クレモアからの返答が届いたのは、ファルクが去ってから4日後だった。


 文書は短かった。「3日後、アルヴィスを遣わす。交渉の場を設けられたし」。それだけだった。


 ナナはその文書をグリムに渡した。


「3日後に来ます」


「リシュアには伝えたか」


「これから伝えます」


 グリムが文書を読んだ。折り畳んで返した。


「同席するのは俺とリシュアでいいか」


「はい。2人に来てもらいます」


「場所は?」


「中庭の奥の部屋が良いと思います。窓から農地が見えます」


 グリムが少し間を置いた。


「農地が見える部屋で交渉するのか」


「アルヴィスはここを観察しに来ます。見せた方が早い」


 グリムが短く笑った。声には出さなかったが、表情が動いた。「そうか」とだけ言って、訓練場に戻っていった。



 リシュアに伝えたのはその夜だった。


 食堂の片付けが終わった後、リシュアは外の石段に座っていた。いつもの場所だった。


「クレモアからの返答が届きました。3日後にアルヴィスが来ます」


「分かった」


「同席してもらいます。ただし、何も言わなくていいです」


 リシュアがナナを見た。


「何も言わなくていい?」


「はい。いてくれるだけで十分です」


 リシュアが少し間を置いた。石段の縁に手を置いて、中庭の方を見ていた。ガリンの作業音がどこかから聞こえていた。


「……お前は変な使い方をするな」


「使うとは言っていません」


「そうだったな」


 リシュアが視線を中庭に向けたまま続けた。


「クレモアは私を見て何を考えるだろうな」


「それを見るために同席してもらいます」


「……なるほど」


 それだけ言って、また石段の縁に目を落とした。農地の方からターニの声が遠く聞こえた。まだ夜の見回りをしていた。



 3日後の朝、アルヴィスが来た。


 前と同じ黒い外套だった。馬から降りて、城壁を一度見上げた。完成した第一区画を確認するような目だった。前に来た時は修復中だったが、今は石が整然と積まれていた。


 ナナが迎えた。


「ようこそ。こちらへどうぞ」


 中庭の奥の部屋に案内した。窓が南に向いていた。農地が見えた。ターニが畝の間を歩いていた。市場の屋根の端が見えた。朝の光の中で人が動いていた。


 アルヴィスが窓を一度見た。景色を確認した。それから椅子に座った。


 ナナ・グリム・リシュアが向かいに座った。


 アルヴィスがリシュアを見た。一瞬だけ。それから目を戻した。何も言わなかった。


(見た。予想していたが、反応を表に出さなかった)


「では、始めましょうか」


 アルヴィスが文書を取り出した。


「クレモア様からの提案です。情報共有協定——互いの動向を月1回、文書で交換する。ヴァル=イグレアの活動とクレモア領の動向を相互に開示する」


「内容は以前と変わりませんね」


「はい。ただし今回は条件を1つ追加しています。クレモア様が直接イグレアを訪問する機会を協定に明記してほしい、と」


 ナナが文書を受け取った。読んだ。


「こちらからも条件を追加させてください」


「どのような?」


「リシュアの腕輪を外すことを、協定の一項目に加えてください」


 室内が少し静かになった。


 アルヴィスがリシュアを見た。今度はしっかりと見た。リシュアは何も言わなかった。窓の外の農地を見ていた。視線をアルヴィスに向けなかった。それが拒絶なのか無関心なのか、外からは判断できない表情だった。


(リシュアは何も言わない。それで十分だ)


 アルヴィスがナナに目を戻した。


「……その件は、私の権限では判断できません。クレモア様に直接確認する必要があります」


「分かりました。持ち帰ってください」


「協定の他の項目については合意できますか?」


「リシュアの件が解決するまでは、協定全体への署名は保留します。ただし情報交換の試験的な運用は先に始めても構いません」


 アルヴィスが少し考えた。


「試験的な運用、とは」


「今月の動向を双方で1件ずつ文書にして送る。それだけです。正式な協定の前に、やりとりの形を確認する」


「なるほど」


 アルヴィスが文書に書き込んだ。それから顔を上げた。


「承知しました。クレモア様にそのようにお伝えします」


 グリムはこの間、一言も言わなかった。腕を組んで座っていた。ただ、その存在感は部屋の空気に確かに混ざっていた。アルヴィスは交渉中に2度ほどグリムを見た。どちらも一瞬だった。


(グリムが黙っていることの重さを、アルヴィスは感じている)


「一つ確認させてください」


 アルヴィスが言った。


「リシュアの腕輪の件——これはあなた個人の意向ですか。それとも黒い翼として?」


 ナナが少し間を置いた。


「黒い翼として、です。リシュアは私たちの仲間です」


 アルヴィスが頷いた。それからリシュアを見た。


「リシュア様、一つだけ聞いてもよいですか」


 リシュアが初めてアルヴィスに目を向けた。


「何だ」


「クレモア様のもとに戻るつもりは、本当にないのですか」


 室内が静かになった。


 リシュアが少し間を置いた。窓の外を見た。農地を見た。市場の端を見た。それからアルヴィスに視線を戻した。


「ない」


「……理由は?」


「ここにいる理由が、あちらにいる理由より重くなった。それだけだ」


 アルヴィスが何かを言いかけて、止めた。書き込みの筆を一度止めた。それから静かに「承知しました」と言った。


 交渉が終わった。



 アルヴィスを見送りに中庭に出た。


 ベラからの定期文書がギルドの窓口に届いていた。アルヴィスが馬に乗りながら、その窓口を見た。市場の隣にあった。今日も商人が2名来ていて、農民が集まっていた。


「……本当に傭兵ギルドの窓口まで作ったんですね」


「はい。週に1回、受付が来てくれています」


「クレモア様が聞いたら驚くと思います」


「そうですか」


 アルヴィスが少し笑った。外交官らしい、抑えた笑い方だった。


「1つ、個人的に申し上げると」


「はい」


「今回の交渉で——リシュアが自分の口で答えるとは思っていませんでした。クレモア様もそれを予想していなかったと思います」


 ナナは何も言わなかった。


(アルヴィスは今日見たことをそのままクレモアに報告する。リシュアが「ここにいる理由が重くなった」と言ったことも)


(それで構わない)


 アルヴィスが馬を進めた。城門に向かいながら、もう一度市場を見た。


「……来るたびに、活気が出てきていますね」


 城門が開いた。アルヴィスが外に出た。蹄の音が遠ざかっていった。



 グリムが隣に来た。


「お前は急ぎすぎていないか?」


 ナナが少し間を置いた。


「何が急ぎすぎですか?」


「リシュアの腕輪を条件に加えた。クレモアが首を縦に振るかどうか分からない段階で」


「分かっています」


「なら、なぜ出した?」


「出さなければ、アルヴィスはリシュアを見ずに帰っていました」


 グリムが少し黙った。


「リシュアを見せるために、条件を使ったのか?」


「交渉の条件として出したのは本気です。ただ——アルヴィスがリシュアと直接やりとりする場を作りたかった」


「それが今日の結果に繋がると思っていたのか?」


「分かりませんでした。やってみなければ何も動きません」


 グリムが短く息を吐いた。


「急いでいないと言ったな?」


「はい」


「止まってもいないな?」


「止まってもいません」


 グリムが少し間を置いた。それから「そうか」と言った。不満でも賞賛でもなく、ただ確認した声だった。



 その夜、ベラからの文書を読んだ。


 内容は2つあった。1つは今週の依頼——街道の定期巡回が2件、南の平野の残党確認が1件。もう1つは別の便箋に書かれていた。


「ストーンフォールのストルム王から推薦状が届いた。南の掃討実績・交易協定の実行・城砦建設への寄与——3点が明記されている。ギルドの昇格審査に、実績として記録した。前例のない形での昇格を、正式に検討する段階に入った。詳細は次回来た時に話す」


(ストルム王が推薦状を送った)


 ナナはその文書を持ったまま、しばらく動かなかった。


(ストルム王はガリンを通じてイグレアを見ていた。ガリンが報告した。それが推薦状になった)


(ストルム王は最初から、そのつもりだったのかもしれない。「街を作るというなら、ちゃんと作れ」と言ってガリンを寄越した。見届けた上で、書いた)


 オズが来た。帳簿を脇に抱えていた。


「今日の交渉の結果を、記録に残してもよいですか?」


「はい。試験的な情報交換を来月から始めます。正式な協定の署名は保留中、と書いておいてください」


「承知しました」


 オズが帳簿を開いた。それから少し考えてから言った。


「リシュアさんが、今日初めてクレモアの使者と直接話しましたね?」


「はい」


「……変わりましたね」


「そうですね」


 オズが帳簿に書き込んだ。筆を走らせながら、静かに続けた。


「私が来た頃は、あの方は食堂にも来ませんでした」


「はい」


「今は来ます。当たり前のように」


 オズが書き込みを終えて、帳簿を閉じた。


「……イグレアが変えているのか、リシュアさんが変わっているのか、どちらなんでしょうね」


 ナナは少し間を置いた。


「どちらでも同じだと思います」


 オズが少し驚いた顔をした。それから頷いた。「そうですね」と言って、食堂の方へ戻っていった。


 ナナはベラの文書を折り畳んだ。窓から中庭が見えた。ギルドの窓口があった。今日の依頼書がまだ並んでいた。


(実績を積み続ける。止まらない。ただし——急がない)


 ガリンの槌の音が夜になっても続いていた。

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