第63話 城壁が立つ
ガリンが「今日で終わる」と言ったのは、朝食の最中だった。
隣の若いドワーフが「本当ですか」と聞くと、「当たり前だ」と短く言って立ち上がった。パンを手に持ったまま外へ出ていった。
ナナはその背中を見ていた。
(予定より2週間早い)
ガリンたちが来て、城壁修復の進み方が変わった。積み方が変わり、固定が変わり、毎朝日が昇る前から作業が始まるようになった。ヴォルクが指揮を取り、30名がガリンの手順を繰り返した。最初は戸惑っていた者も、今は迷わず動いていた。
食堂でオズが帳簿を開いていた。
「今日で第一区画が完成する見込みです」
「はい」
「完成すれば城壁南側の防御が安定します。農地の拡張も進められます」
「分かりました」
オズが帳簿を閉じた。それからもう一つ付け加えた。
「ヴェルナー公爵からの返答は、今週末か来週初めかと思われます。完成の報告が届いてから公爵が判断するでしょうから」
「そうですね」
オズが食堂を出た。ナナはしばらく、空になった自分のパン皿を見ていた。
(城壁が立つ。次は居住区の拡張、農地の開墾、食料の自立——順番に来る。ヴェルナーとの協定が動けば資金の柱がもう一本立つ)
(計算通りだ。ヴァルが聞いたら何と言うだろう)
その考えが来た瞬間、止めた。返事はないと分かっている。
昼前になると、城壁からガリンの声が一際大きくなった。
「そこだ。最後の石を入れろ」
ヴォルクが指示を飛ばした。カルが石を持ち上げた。ダリオが横から支えた。ゆっくりと、隙間に収まっていった。
石が収まった瞬間、ガリンが「よし」とだけ言った。
静かな声だったが、城壁の上にいた全員が止まった。
それから誰かが笑った。それが広がった。声になった。
ナナは中庭から見ていた。城壁の上で、30名とガリンたちドワーフが混ざって立っていた。汗をかいていた。顔が光っていた。誰かの肩を誰かが叩いた。
(立った)
それだけだった。それ以上の言葉が来なかった。
「全員上がれ」
ガリンが言った。
城壁の上に全員が集まった。30名とドワーフ職人、ナナ、グリム、リーゼ、オズ、ヴォルク、カル、ダリオ。リシュアも端の方に立っていた。リーファが精霊族2人を連れてきた。
城壁の上から見える景色が変わっていた。
南の平野が広がっていた。農地が見えた。開墾が進んでいた。ターニが指示を出しているのが小さく見えた。畝が整然と並んでいた。
居住区が見えた。ガリンの設計図通りに家が並び始めていた。道が通っていた。まだ骨格だけの家もあったが、それでも区画の形が見えた。
市場の屋根が見えた。今日も商人が来ていた。人が集まっていた。
ガリンが腕を組んで南を見ていた。ひげを少し動かした。
「——まあ、ドワーフの仕事はこういうものだ」
誰かが笑った。ガリンが「何がおかしい」と言った。また笑いが広がった。
ヴォルクが静かに城壁の縁に手を置いた。農地を見ていた。
「あそこで開墾している者の半分以上は、2ヶ月前に南から来た難民です」
隣にいたカルが農地の方向を見た。
「俺たちも、あそこで鍬を振ったことがある」
「はい」
カルが少し間を置いた。それから続けた。
「略奪してた頃は、こういうものを作るとは思ってなかった。壊す方が早いと思ってた」
ヴォルクが答えなかった。しばらく農地を見てから、静かに言った。
「作る方が、時間がかかります。ただし——崩れにくい」
カルがその言葉を聞いていた。返事はしなかったが、頷いた。
ナナはその会話を少し離れたところで聞いていた。
(ヴォルクもカルも、来た時は別々だった。今は同じ城壁の上にいる)
(廃墟から来て、今ここに立っている)
夜になった。
夕食が終わり、人が散らばった後、グリムが城壁に上がった。
ナナが後から来た。
グリムは南を見ていた。松明の明かりが農地にいくつかあった。ターニが夜の見回りをしていた。居住区の窓に灯が点いていた。市場は閉まっていたが、その輪郭が中庭に残っていた。
グリムが腕を組んだまま、長い間動かなかった。
ナナも黙って城壁の縁に立った。2人で南を見ていた。
風が来た。農地の方から土の匂いがした。
グリムが口を開いた。
「……立ってきたな」
「はい」
また沈黙があった。グリムが農地を見ていた。居住区を見ていた。
「お前が見ていたものは、これか?」
ナナは少し間を置いた。
「これだけではありません」
「そうか」
「まだあります」
グリムが少し動いた。ナナの方へ角度を変えて、確認するように見た。
「何がある?」
ナナが南を見たまま答えた。
「食料が安定します。居住区が整います。ギルドの窓口が機能します。クレモア様との交渉が動きます。ヴェルナー公爵との協定が資金を安定させます。その先に——」
「その先は?」
「今は言えません」
グリムが短く笑った。声には出さなかったが、肩が少し動いた。
「……お前は昔から、全部は言わないな」
「言えるようになったら言います」
「そうか」
グリムが再び南を向いた。農地の松明が揺れていた。ターニが方向を変えたのか、明かりが少し移動した。
(グリムが「立ってきたな」と言った。ヴァルが消えた時、ここには城壁も農地も市場もなかった。30名もいなかった)
(今は全部ある)
それが嬉しいのか、重いのか、ナナ自身には分からなかった。ただ——城壁が立っていて、農地に明かりがあって、グリムが隣にいた。それだけのことが、今夜は十分だった。
「グリム」
「なんだ」
「ありがとうございます」
グリムが少し間を置いた。
「俺に礼を言うな」
「なぜですか?」
「俺もここで戦っている。礼を言う相手が違う」
ナナは少し考えた。
「では——一緒にここにいてくれて、ありがとうございます」
グリムが答えなかった。長い沈黙があった。城壁の下で誰かが水を汲む音がした。ターニの松明が農地を一周して、やがて居住区の方へ消えた。
グリムが先に降りた。
ナナは少しの間、一人で城壁の上に残った。
グリムは最後まで「そうか」とも言わなかった。それがなぜか、ナナには分かる気がした。
(これだけではない。まだある)
南の農地は暗くなっていた。それでも、ターニが歩いた跡がどこかに残っているような気がした。
ナナは城壁を降りた。
3日後、ファルクが来た。
ヴェルナー公爵の使者として前に来た時と同じ黒い外套だったが、馬から降りた後の歩き方が違った。城壁を見上げた。農地を見た。市場を見た。前回は観察していたが、今回は——確かめているような目だった。
「公爵閣下からのご返答です」
文書を渡した。ナナが受け取り、封蝋を確認してから開いた。
ヴェルナー公爵の署名があった。条件の承諾が記されていた。食料供給・情報共有・互いの領域への不干渉、3つの項目すべてに公爵の確認が入っていた。
(承諾した。協定が動く)
「食料の第一便は明後日に届きます。麦と干し肉を中心に。公爵閣下から、以降は月ごとに届けると」
「ありがとうございます」
ファルクが少し間を置いた。それから付け加えた。
「公爵閣下は——あなたのことを、かなり真剣に見ています。警戒ではなく、関心として」
「分かりました」
「それだけです」
ファルクが一礼して、馬へ向かった。
オズがすぐ傍に来た。帳簿を開きながら歩いてきた。
「食料供給が月単位で確定しました。現在の3割自給と合わせれば、来月から食料の不安がほぼなくなります」
「分かりました」
「ストーンフォールへの石材輸送費の精算も来月で終わります。黒字転換は再来月を見込んでいます」
「収支が安定してきますね」
「はい。ただし金貨の温存は続けてください」
「分かっています」
オズが帳簿を閉じた。それから城壁の方を見た。
「……良い3日間でしたね」
ナナは少し間を置いた。
「はい」
オズが頷いて、食堂の方へ戻っていった。




