第55話 ストルムの条件
北の山脈に入ると、空気が変わった。
低地の湿った空気が消えて、乾いた冷たさが来た。道が石畳になった。山を削って作った道だった。幅が広かった。荷馬車が2台並んで通れるくらいあった。両側が岩壁だった。切り立っていた。上を見ると空が細く見えた。
「よく整備されている」
グリムが道を見ながら言った。
「採掘した石材を運び出すための道です。ストーンフォールは輸送を重視します」
「お前、行ったことがあるのか」
「ありません。ゴルドーから聞きました」
グリムが少し間を置いた。
「交渉したことは?」
「ありません」
「……ナナ」
「はい」
「正直に言う。俺は外交が得意じゃない」
「知っています。今日は口を開かなくていいです」
グリムが鼻から息を出した。
「それはそれで腹が立つ」
ナナは何も言わなかった。
グリムが少し間を置いた。
「……分かった」
オズが後ろで帳簿を確認していた。馬に乗りながら帳簿を読んでいた。落ちなかった。
「団長、持参した金貨2枚ですが、交渉の最中に相手に見せますか」
「最初に見せます。ただ渡しません」
「見せるだけですか」
「はい。これだけしかないと分かれば、相手も金貨以外の条件を考えます。それを引き出します」
オズがしばらく黙った。
「……なるほど」
帳簿を閉じた。
ストーンフォールは山の中腹にあった。
岩盤を削り取って作った都市だった。建物が石でできていた。全部石だった。壁も床も屋根も。木材が一切なかった。街全体が山の一部だった。
人が多かった。背が低く肩幅が広い者が多かった。ドワーフだった。人族も混じっていたが、少数だった。皆が何かを運んでいた。石を、鉄を、工具を。誰も立ち止まっていなかった。声が飛び交っていた。作業の指示だった。怒鳴っているわけではなかった。ただ、全員が仕事をしていた。
グリムが街を見回した。
「……でかいな」
「採掘量に比例して街が広がったそうです」
「人口は?」
「ゴルドーから聞いた範囲では3000人ほど」
「イグレアの何倍だ?」
「今のイグレアは20人です」
グリムが少し間を置いた。何も言わなかった。
門番がゴルドーの手紙を確認した。少し間を置いて、中に通した。
案内された先は広い石の部屋だった。装飾が一切なかった。テーブルと椅子があった。窓から採掘場が見えた。槌の音が聞こえた。休みなく続いていた。
ストルムが来たのは10分後だった。
白い髭だった。体が横に広かった。目が小さかった。その目が、部屋に入った瞬間にナナを見た。それからグリムを見た。オズを見た。また、ナナを見た。
椅子に座った。何も言わなかった。ゴルドーの手紙を机の上に置いた。折りたたんだままだった。すでに読んでいる、ということだった。
ナナが先に話した。
「お時間をいただきありがとうございます。黒い翼の団長、ナナミアといいます」
「ゴルドーの手紙は読んだ」
それだけ言った。続きを待っている顔だった。
「石材と鉄材を継続的に供給していただきたいのです。月に石材20トン、鉄材5トンを目安に考えています。対価として金貨と、傭兵ギルドの依頼優先権を提示します」
ストルムが少し間を置いた。
「3つ、聞く」
「はい」
「第六魔王を本当に倒したのか?」
「はい」
「お前が、か。この体で」
「はい」
ストルムがナナを見た。10歳の外見を見ていた。長い間だった。判断している目だった。馬鹿にしている目ではなかった。疑っている目でもなかった。測っていた。
「どうやって倒した?」
「魔王砲を使いました。魔力を一点に集中させる技法です」
「魔王砲」ストルムが低い声で繰り返した。「聞いたことがある。前の第七魔王が使ったと言われていた技だ」
「はい。私が使えるのはその影響です」
ストルムが頷いた。それ以上は聞かなかった。
「2つ目。南の空白地帯をどう処理するつもりか」
「略奪集団を抑えます。1年以内に」
「根拠は?」
「すでに動いています。旧第六魔王軍の元小隊長が情報を持っています。場所は把握済みです」
「兵力は?」
「黒い翼の16人と、帰順した元兵士3人です」
ストルムが少し間を置いた。
「少ないな」
「はい。ただ略奪集団は分散しています。まとまる前に各個に当たれば数は問題になりません」
「まとまった場合は?」
「まとまらせません。情報があります」
ストルムがナナを見た。少し長い間だった。
「1年で足りるか?」
「足ります」
ストルムがまた間を置いた。長い沈黙だった。グリムが横で微動だにしなかった。オズが帳簿を膝の上に置いたまま動かなかった。
「3つ目」
「はい」
「お前は何者だ?」
ナナは少し間を置いた。
「第七魔王です」
「それは聞いた。お前が何をしたいかを聞いている」
また少し間を置いた。
「調停者を目指しています」
ストルムの目が動いた。初めて表情が変わった。眉が少し動いた。それだけだった。
しばらく誰も何も言わなかった。
採掘場の槌の音だけが続いていた。
「……調停者か」
低い声だった。独り言のようだった。
「100年ぶりに聞く言葉だ」
「ストルム王は、前の第七魔王と会ったことがありますか?」
「一度だけ。俺がまだ若い頃だ」ストルムが少し遠くを見た。「小さな女だった。お前と同じくらいの背だったかもしれない。ただ目がな……」
「目、ですか?」
「疲れた目だった。ずっと戦い続けてきた目だった」ストルムがナナを見た。「お前の目はまだそうではない」
ナナは少し間を置いた。
「これからそうなるかもしれません」
「なるかもしれんな」ストルムが短く息を吐いた。「前の第七魔王も同じことを言っていたか?」
「調停者という言葉を使っていたかは分かりません。私は前の第七魔王ではありません。同じ言葉を使いますが、同じやり方をするとは限りません」
ストルムが少し目を細めた。
「正直だな」
「嘘をついても、いずれ分かります」
「……そうだな」
ストルムが立ち上がった。部屋を少し歩いた。窓の外の採掘場を見た。槌の音が続いていた。また戻ってきた。
「条件を出す」
「はい」
「石材と鉄材を供給する。金貨は要らない」
ナナは少し間を置いた。
「傭兵ギルドの依頼優先権だけで、ということですか」
「そうだ。それともう1つ」
「はい」
「南の空白地帯の略奪集団を1年以内に抑えること。これを条件に加える」
「……それは先ほど私が言ったことです」
「お前が言ったことを、俺の条件にする。それだけだ」
ナナは少し考えた。
(金貨を要らないと言った。ギルドの依頼優先権を欲しがっている。ストーンフォールには傭兵が要る。自前で抱えるより、ギルドを通した方が効率が良いと判断している)
「承諾します」
「傭兵ギルドの依頼優先権というのは、具体的にどういう仕組みだ」
「ストーンフォールから依頼が出た場合、黒い翼が優先して受けます。他の傭兵団より先に情報が来て、先に判断できます」
「断ることはできるか?」
「できます。優先権は強制ではありません」
ストルムが頷いた。
「分かった。第一便は10日後に出す。街道の状態を確認してから量を決める」
「はい。イグレアまでの道は整備します」
「お前のところの城砦は今どんな状態だ?」
「修復中です。石材が届けば本格化します」
「……急ぐな。焦って作った壁は崩れる」
ストルムがグリムを見た。
「お前は?」
グリムが少し驚いた顔をした。
「……副団長です」
「戦える顔だな」
「一応」
「南の略奪集団を抑える時、お前が動くか?」
「はい」
ストルムが頷いた。
「約束は人が履行する。誰が動くかを知っておく必要がある」
ストルムが手を差し出した。握手だった。ナナが握った。ストルムの手が大きかった。硬かった。
「約束は守れ」
「守ります」
「ゴルドーが珍しいことをした」
「はい?」
「あの男が誰かに手紙を書くのは初めて見た。お前に何かあるのかもしれん」
ストルムがグリムにも手を差し出した。グリムが握った。
「南を頼む」
「……はい」
それだけ言って、ストルムが部屋を出ていった。
3人が残った。
グリムが小さく息を吐いた。
「……緊張した」
「そうでしたか?」
「お前は緊張しないのか」
「していました。ただ顔に出しませんでした」
グリムが少し間を置いた。
「……そうか」
帰路、山を下りながらグリムが言った。
「傭兵ギルドの依頼優先権を条件に使うとは思わなかった」
「有効だと思っていました」
「金貨を出さなくて良かったのか」
「良かったです。2枚しかありません」
グリムが少し間を置いた。
「……最初から使うつもりがなかったのか」
「見せるつもりはありました。ストルムが金貨を要らないと言ったので、見せませんでした」
「駆け引きか」
「いいえ。ストルムが何を欲しがっているかを考えただけです。鉱山国家に金貨は余っています。足りていないのは外との繋がりです」
グリムがしばらく黙った。山道を馬が歩いた。石畳の音がした。
「ストーンフォールは外と取引したかった、ということか」
「はい。ただ相手を選んでいた。信用できない相手とは話もしない。ゴルドーがそう言っていました」
「ゴルドーの手紙がなければ、中にも入れなかったかもしれないな」
「そうだったと思います」
グリムが山を振り返った。ストーンフォールはもう見えなかった。
「ストルムという男は信用できるか?」
「はい」
「根拠は?」
「前の第七魔王のことを100年経っても覚えていました。目が疲れていたと言っていました。会ったのは一度だけで、百年前のことです。それを覚えている人間は、約束を覚えています」
グリムが何か言いかけた。やめた。
「……お前は変なところを見るな」
「そうですか?」
「普通は交渉の条件を見る。お前は相手の目を見ている」
ナナは少し間を置いた。
「条件は変えられます。目は変えられません」
グリムが短く鼻から息を出した。笑ったのかもしれなかった。
オズが後ろで小さく何かを書いていた。
「団長」
「はい」
「今回の協定ですが、石材と鉄材の対価として金貨を出さずに済みました。浮いた2枚の金貨の使い道を決めておきますか」
「次の交渉に取っておきます」
「次の交渉というのは?」
ナナは山の下を見た。平野が見えた。イグレアはまだ遠かった。
「まだ決まっていません」
オズが帳簿に書き込んだ。
「……承知しました」
風が来た。山の冷たい空気だった。下に降りるほど温かくなっていった。
石材が来る。鉄材が来る。城壁が本格的に直せる。
次は南だ、とナナは思った。カオスの名前を使っている集団がいる。ヴォルクが場所を知っている。ストルムとの約束もある。
順番が見えていた。




