第48話 第六魔王との決戦
ナナは眠れなかった。
全員が地面に座って休んでいた。グリムが目を閉じ、エリスが壁にもたれ、レンが横になっていた。グラ=ベイルの兵たちが焚き火の周りに集まっていた。ナナだけが起きていた。南を見ていた。暗かった。何も見えなかった。地平線の影は消えていた。
ヴァルが静かに言った。
『……眠れないか?』
(眠れない)
『……無理に眠らなくていい』
(ヴァル、声が遠い)
『……そうか?』
(最近、ずっと遠い)
ヴァルが少し間を置いた。
『……気にするな。我はここにいる』
ナナは南を見続けた。風がなかった。焚き火の音だけがしていた。
夜明けが来た瞬間、地面が揺れた。
1回だった。大きかった。それだけで焚き火が揺れ、眠っていた者が目を開けた。グリムが立ち上がり、レンが弓を取り、エリスが起き上がった。
「——来た」
ナナは南を見た。見えた。
大きさは同じだった。4本の腕も同じだった。赤い目も同じだった。違ったのは圧だった。空気が変わっていた。前回は歩いていた。今回は身体全体が戦うための形をしていた。4本の腕が全部動いていた。鱗が立っていた。尾が地面を叩いていた。それだけで地面が低く振動した。
咆哮した。音ではなかった。衝撃だった。空気が波打ち、後方にいたグラ=ベイル軍の数人がよろけた。焚き火が消えた。
グリムが横に来た。
「……前と違う」
「はい。前回は軍の残務整理で来ました。今回は戦いに来ています」
「……対処できるか?」
「条件を整えてから魔王化します。グリム、昏睡後の護衛をお願いします」
「任せろ。ただその前に」
カオスが動いた。速かった。以前とは比べものにならなかった。前進のたびに地面が割れ、その振動が足の裏から来た。
グラ=ベイル軍の前線がぶつかった。1秒で吹き飛んだ。腕を1本振っただけだった。10人以上が空中に飛んだ。
「全部隊、散開してください。固まらないでください」
各部隊が散らばった。カオスが右腕を薙いだ。ベルグランドの重装部隊の左翼に当たった。盾ごと吹き飛び、重装の獣人族が5人、地面を転がった。
(通常の戦術では抑えられない。近づけない。距離を取れば押されるだけだ。魔王化するか。条件を確認する。退路と防衛ラインが確保されていない。まだだ)
「エリス、カオスの周囲に炎の壁を4方向から」
「4方向同時?……やるわ」
エリスが詠唱した。炎が4方向から立った。カオスが止まった。炎を見た。1秒後、右腕で薙いだ。炎の壁が消えた。
(1秒止まった。牽制にはなった)
そこでグリムが走り出した。前に出ていた。カオスに向かっていた。
「グリム」
「囮になる。その間に仲間を下げろ」
「駄目です」
「お前が魔王化するための時間を作る」
「グリム」
グリムが止まった。振り返った。
「今、魔王化しません。条件が揃っていない。グリムが死ねば護衛がいなくなります。前に出ないでください」
グリムが少し間を置いた。拳を握った。
「……じゃあどうする」
「条件を整えます。魔王化します。昏睡後の護衛をお願いします。リーゼを呼んでください」
「任せろ」
グリムがリーゼを呼んだ。リーゼが走ってきた。
「リーゼ、全員を西の崖際まで下げてください。黒霧が出たら全員後退させてください。グラ=ベイルとベルグランドにも伝えてください」
「黒霧?」
「魔王領域を展開します。カオスと私だけが動ける空間を作ります。その間に全員が退路を確保してください」
「……承知した」
リーゼが走っていった。グリムが頷いた。
「全部揃えた」
「はい」
「行ってこい」
ナナは前に出た。
カオスが見えた。グラ=ベイル軍の残存を追っていた。ナナは目を閉じた。魔王化を解放した。
重力が変わった。自分の身体が少し遠くなり、同時に地面の感触が足裏から直接来た。額に何かが刻まれる感触があった。自分の声と、100年前の何者かの声が同じ喉から出る感覚があった。
「我はここにいる」
カオスが止まった。赤い目がナナを見た。
「覚えているか。前に会った。もう一度だ」
《魔王領域・黒霧》
黒い霧が広がった。地面から立ち上がり、四方を塞ぎ、空を覆った。30歩の範囲があっという間に暗くなった。霧の中では見えた。カオスが見えた。ナナの姿がカオスにも見えていた。霧の外の音が消えた。仲間の声が届かなくなった。
(これでいい。カオスの注意は我だけに向いた)
カオスが動いた。速かった。4本の腕が一度に来た。ナナは横に跳んだ。腕が空を切り、霧が揺れた。
(引きつける。仲間が退路を確保するまで動き続ける)
「黒閃斬」
闇の刃がカオスの右腕に走った。鱗が飛んだ。カオスが少し止まった。ナナは後退した。カオスが追った。ナナは転移した。10歩後ろに出た。
(魔力残量3割。転移を使いすぎると魔王砲が使えなくなる)
カオスが咆哮した。衝撃が来た。
「魔導障壁・双層」
障壁を張った。衝撃が来た。2枚の壁が順番に揺れ、ひびが入ったが持った。
(10分が経った)
カオスが前に出た。ナナは後退しながら止まった。
(カオスを見た。赤い目だ。何も考えていない目だ。ただ破壊に向かっていた。前回も同じだった。あの時、カオスは魔王砲を受けて後退した。本能的な何かが働いた)
(戦意を崩す必要はない。本能に働きかければいい。この相手に近づくと削られ続けるという感覚を植えつければ本能が退かせる)
ヴァルが言った。
『……何かつかんだか?』
(方向が見えた。やってみる)
『……残り時間は?』
(15分)
『……急げ』
カオスが来た。
ナナは大きな魔法を使わなかった。
右手に小さな魔力を集めた。手のひら一枚分だった。声に出さなかった。詠唱しなかった。放った。点だった。カオスの左肩に当たった。鱗が1枚飛んだ。
カオスが止まった。
また放った。同じ左肩に当たった。鱗がもう1枚飛んだ。カオスが動いた。腕が来た。ナナは後退した。距離を取った。また放った。また左肩に当たった。
(同じ場所に当て続ける。大きな傷は要らない。同じ場所が何度も痛む。それが積み重なる)
カオスが前に出た。ナナは後退した。また放った。放つたびに左肩に当たった。鱗が剥がれていった。1枚、また1枚と。カオスは追いながら、しかし少しずつ追い方が変わった。最初は直線で来ていた。3回目から少し右に体を向けた。左肩を庇うような、ほんのわずかな動きだった。ナナはそれを見た。
(変わった。反応が変わった)
10回目だった。カオスが止まった。左肩を見た。鱗が剥がれていた。肉が見えていた。傷は浅かった。致命傷ではなかった。それでも止まった。
『……効いている』
(痛みの蓄積じゃない。同じ場所に何度も当たるという事実が危機感になっている。本能だ)
ナナは放った。また左肩に当たった。カオスが1歩下がった。また放った。また当たった。カオスが2歩下がった。3歩下がった。
(後退している。怒りから回避に変わった。ここにいると削られ続けるという感覚が本能に入った)
ナナは前に出た。放った。また当たった。カオスが下がった。ナナが前に出た。カオスが下がった。前に出るたびに下がった。押されていた。圧倒的な巨体が、小さな光の点に追われていた。
ヴァルが静かに言った。
『……調停者らしい戦い方だ』
(調停者?)
『……我は力で押した。お前は相手の本能を動かす。それがお前の戦い方だ』
カオスが咆哮した。最後の抵抗のような音だった。衝撃が来た。霧が大きく揺れた。
「魔導障壁・双層」
障壁を張った。衝撃が来た。揺れた。ひびが深くなった。それでももった。
(残り5分を切った。魔力が2割を切っている。今から充填を始めれば、間に合う)
ナナは右手を前に出した。魔力を集め始めた。点が生まれた。暗い光だった。カオスが前に出た。ナナは後退しながら充填を続けた。点が大きくなった。
カオスが止まった。暗い光を見ていた。
(覚えている。本能で覚えている、この光を)
カオスが1歩下がった。ナナは充填を続けた。2歩下がった。充填を続けた。
霧の外から声がした。グリムだった。
「ナナ」
霧の外だった。遠かった。
(グリムが待っている。全員が待っている)
球だった。手の前に浮いていた。以前より小さかった。密度が違った。同じ魔力を、より小さな点に圧縮していた。空気が歪んでいた。球の周囲だけ、光の届き方が違った。
カオスが見ていた。動かなかった。4本の腕が構えたまま、足が止まっていた。
「魔王砲」
カオスが1歩下がった。
「零式」
放った。
音がなかった。光が走った。以前より細く、以前より速かった。
カオスの胸に当たった。今度は吹き飛ばなかった。貫いた。光が胸を抜けて、後ろの霧を焼いた。煙が出た。穴から光が漏れた。カオスが1歩、2歩と後ろに下がった。膝をついた。立ち上がろうとして、できなかった。また膝をついた。赤い目が薄くなった。4本の腕が地面についた。
カオスが倒れた。地面が揺れた。霧が揺れた。
ゆっくりと、霧が晴れ始めた。黒い靄が端から崩れ、朝の光が入ってきた。
ナナは口の端が動いているのを感じた。笑っているのか、泣いているのか、自分では判断できなかった。
ナナは立っていた。
身体が重くなっていた。魔王化が解けていく感触があった。体の中心から何かが引いていき、重力が戻り、自分の身体が近くなった。ナナは息を吐いた。
(終わった)
ヴァルを呼んだ。
(ヴァル)
長い間があった。今まで待った中で、一番長かった。
『……ナナ』
声だった。遠かった。壁の向こうより、もっと遠い場所だった。霧が晴れた後の、遠い空から来るような声だった。
(聞こえる)
『……よくやった』
(また同じ言葉だ)
『……我は語彙が少ない』
ナナは少し間を置いた。
(ヴァル……また遠くなっている)
『……気にするな』
(気になる)
『……後で話す。今は』
霧が完全に晴れた。
連合軍が見えた。崖際に待機していた全員がこちらを見ていた。グリムが走ってきた。
「ナナ」
ナナはグリムを見た。その後ろにリーゼがいた。エリスがいた。レンがいた。リシュアがいた。グラ=ベイルがいた。フェンリルがいた。
(全員いる)
グリムが来た。
「立てるか?」
「……立てます」
言いかけて、膝をついた。グリムが前に出た。手が肩に来た。受け止めながら、グリムは何も言わなかった。ただ——倒れないように支えていた。グリムの手が重かった。温かかった。
ナナは空を見た。青かった。霧が消えた後の空だった。
(守れた)
ヴァルの声がした。今まで聞いた中で、一番遠かった。壁の向こうでも、遠い空でもなく、もっと静かな場所から来ていた。
『……守れたな』
(守れた)
『……お前は』
続きが来なかった。
(ヴァル?)
返事がなかった。
(ヴァル)
静かだった。静かすぎた。今まで返事がなかった時とは違う、別の種類の静けさだった。
(後で話す、と言っていた)
グリムが何か言っていた。声が遠くなった。空が暗くなった。
ナナの意識が落ちた。




