第46話 魔王砲零式
球だった。
暗い光が手の前に浮いていた。小さかった。密度があった。重さがあった。触れれば消えると分かっていても、触れたくない種類の重さだった。
カオスが近づいてきた。ナナは動かなかった。あと3歩だった。あと2歩だった。
「魔王砲——」
あと1歩だった。
「零式」
放った。
音がなかった。光が走った。暗い光で、直線で、曲がらなかった。カオスの胸に当たった。一瞬、何も起きなかった。次の瞬間、カオスが後ろに飛んだ。大きな身体が地面を滑り、10歩、20歩、30歩と距離を稼いでから止まった。
ナナは前を向いたままだった。
カオスが立ち上がった。胸に穴があった。鱗が消えていた。黒い肉が見えた。煙が出ていた。それでも立ち上がった。
(倒れない)
カオスの赤い目がナナを見た。何かが変わった。怒りではなかった。恐れでもなかった。もっと原始的な何かだった。カオスが一歩下がり、もう一歩下がり、そのまま南の平野に向かって歩き始めた。
ナナは動かなかった。
(追わない。追う余力がない)
カオスが遠ざかった。平野の端まで歩き、そこで止まった。振り返らなかった。低い音がした。言葉ではなかった。
(また来る)
カオスがまた歩いた。今度は止まらなかった。地平線の向こうに消えた。ナナは息を吐いた。
その瞬間、身体が重くなった。急だった。足から力が抜け、手が重くなり、魔王化が解けていく感触があった。熱くはなかった。ただ重かった。体の中心から何かが引いていくような感覚で、額の模様が消えていくのが分かった。
(まずい)
(まだ——意識がある)
ヴァルの声がした。遠かった。
『……よく——』
続きが聞こえなかった。
(ヴァル?)
『……ナナ』
声だった。ただどこか遠い場所から来ていた。壁の向こうから聞こえるような、そういう遠さだった。
(聞こえる)
『……よくやった』
ナナは地面に手をついた。視界が暗くなった。グリムが走ってくる音がした。
「——ナナ」
声が遠かった。地面が近くなった。
声が聞こえた。遠かった。
「——ナナ。聞こえるか?」
グリムだった。ナナは目を開けた。天井があった。イグレアの天井だった。石の目地の形に見覚えがあった。自分の部屋ではなかったが、この城の中だった。
(運んでくれたのか)
グリムが横にいた。椅子に座って腕を組んでいた。
「……目が覚めたか?」
「はい」
「何時間経ったか分かるか?」
「分かりません」
「3時間だ」
ナナは身体を起こそうとした。
「動くな」
「動けます」
「動くな」
グリムが少し強く言った。ナナは動かなかった。
「全員、無事ですか?」
「無事だ。お前が倒れた後、カオスは来なかった。全員城壁の内側にいた。昨日の戦闘の続きで軽傷が2人増えたが、動ける」
「ありがとうございます」
「俺に言うな。全員がいた場所にいただけだ」
グリムが立ち上がった。
「エリスを呼ぶ。待っていろ」
グリムが出ていった。
1人になった。ナナは天井を見た。
(ヴァル)
少し間があった。いつもより長かった。
『……起きたか』
声だった。昨日より遠かった。昨日が壁の向こうだとすれば、今日はその壁がもう一枚増えたような感覚だった。
(聞こえる)
『……そうか』
(大丈夫か?)
『……我のことは気にするな。今日はゆっくりしろ』
ヴァルが少し間を置いた。
『よくやった』
昨日も同じ言葉だった。ただ今日の方が、少し遠くから来ていた。ナナは天井を見たまま少し間を置いた。
(守れた)
『……ああ』
それ以上、ヴァルは何も言わなかった。ナナも何も言わなかった。ただ天井を見ていた。
エリスが来た。グリムと一緒で、後ろにレンとリシュアがいた。エリスがナナを見た。
「顔色が悪い」
「昏睡していたので」
「分かってる。もう少し寝てていいのに」
「目が覚めました」
エリスが少し笑った。椅子を引いて座った。
「魔力の消耗は——回復まで2日はかかると思う。無理に動かないで」
「分かりました」
レンが部屋の端に立った。リシュアが扉の近くに立った。グリムが壁際に腕を組んだ。全員がそれぞれの場所にいた。
(全員いる)
「……ありがとうございます」
グリムが短く息を吐いた。
「礼は後でいい。今日は寝ていろ」
「はい」
夕方、オズが文書を持ってきた。
「バロウからです。急ぎとのことでした」
ナナは文書を受け取り、読んだ。2枚あった。1枚目——クレモア=クロックの使者がイグレアに向かっている。到着は3日後の見込み。内容は不明。2枚目——第一魔王ルゼ=アヴァロンが北東に向けて独自に兵を動かしている。目的不明。
(クレモアが来る。ルゼが動いた)
ヴァルを呼ぼうとした。やめた。
(今日は休む。ヴァルも言っていた)
ナナは文書を折った。窓の外が暗くなっていた。今日守れた。それは確かだった。明日、また考える。
翌朝、レンが来た。
「動けるか?」
「動けます。ただ今日は部屋にいます」
「報告する。座っていいか?」
「どうぞ」
レンが椅子を引いた。
「ルゼの動きを確認した。北東に向けて兵を動かしている。規模は200前後で、まだ国境を越えていない。手前で止まって様子を見ている。こちらの動きを確認してから判断する気だと思う」
「第六魔王の動きは?」
「撤退した。南の平野から姿が消えた。ただ完全に退いたわけではないと思う。カオスはまた来る」
「はい」
ナナは机の上に昨日の文書を広げた。
「2つ同時に動いています」
「そうなる」
レンが出ていった。ナナはヴァルを呼んだ。
(ヴァル)
少し間があった。昨日より長かった。
『……なんだ』
遠かった。でも聞こえた。
(100年前、第一魔王と第六魔王が同時に動いた時、どちらを先に対処したか?)
『……第六魔王を先にした。ルゼは様子を見る。動くより先に相手がどう動くかを見る。その間に第六魔王を片付けた』
(今回も同じ構図だ。ただ100年前と違うのは、今は同盟がある)
『……連合を組むつもりか?』
(黒い翼だけでは足りない。精霊族・ベルグランド・ゴルドー。使える力を全部集める。分担防衛協定を連合戦力に転換する)
ヴァルが少し間を置いた。
『……大きく動くな。お前らしくない』
(守るためだ)
『……そうか』
ヴァルは黙った。ナナも黙った。窓の外で風が鳴った。
昼前、グリムが来た。
「顔色が昨日よりいい」
「少し回復しました」
グリムが椅子を引いた。
「話がある顔をしている」
「はい。方針を決めました」
ナナは文書を2枚グリムに渡した。
「ルゼの動きとクレモアの使者の件です。両方同時に対処するのは無理です。順番をつけます。まずカオスを完全に撃破します。カオスが来る前に、来られない状態にする。そのためには今の黒い翼の規模では足りません。連合を組みます。精霊族・ベルグランド・ゴルドー、グラ=ベイルにも参加を要請します。分担防衛協定を連合戦力に転換する形です」
グリムが文書を見た。
「……まとめられるか?」
「まとめます。ルゼが様子を見ている間に動けば——カオスを先に片付けられます。ルゼが動いたら、その時はその時に対処します。2つを同時に対処するより、1つずつの方が確実です」
「クレモアの使者は?」
「3日後に来ます。話を聞きますが、何を提案されても今は動きません。カオスの件が片付くまで、クレモアとの交渉は保留します。断れば敵対します。今は敵を増やしたくない」
グリムがしばらく黙った。文書を机に置いた。
「……連合の話——どこから動く?」
「リーファを通じて精霊族に打診します。リーファは今日呼べますか?」
「呼んでくる」
グリムが立ち上がった。扉に向かって、止まった。
「……無理するな」
「はい」
「昨日は倒れた。今日はまだ回復中だ。頭だけ使え。身体は使うな」
グリムが出ていった。
リーファが食堂の椅子に座っていた。朝食を食べていた。ナナを見て立ち上がった。
「——来た。大丈夫?」
「回復しました。話を聞いてください」
2人で向かい合って座った。
「精霊族の長老に連合への参加を打診したいです。リーファ、橋渡しをお願いできますか? 戦力としての参加で、転移封じの結界支援・地形誘導・後方の精霊網による情報収集——今まで通りの形に加えて、本格的な戦力として動いてほしい」
「……どういう形での参加?」
「今説明した通りです。長老が慎重なのは分かっています。ただ精霊族の領域もカオスの影響を受けています。守るために動く理由はあるはずです」
リーファが少し考えた。
「……私から話してみる。返事には2日か3日かかるかもしれない」
「十分です。お願いします」
リーファが頷いた。朝食の残りを食べて立ち上がった。
「終わったら報告する」
リーファが出ていった。
昼前、グラ=ベイルへの文書を書いた。内容は短くした。
「分担防衛協定を連合戦力に転換したい。第六魔王の完全撃破を目標とした合同作戦の参加を要請する。詳細は使者を立てて話し合いたい。——ナナミア」
フェンリルへの伝言としてレンに渡した。
「急ぎでお願いします」
「分かった」
レンが出ていった。
昼過ぎ、ゴルドーが来た。扉を3回ノックした。重い音だった。
「開いています」
ゴルドーが入ってきた。巨大な体格で戦斧を背負っていて、部屋が少し狭くなった気がした。
「よう、嬢ちゃん。また面倒なことになってるな」
「なっています」
「話は聞いてる。カオスが来て、魔王化して、ぶっ飛ばしたんだろ?」
「後退させただけです。撃破できていません。また来ます。今度は今の規模では足りません」
ゴルドーが椅子を引いた。座った。椅子が少し沈んだ。
「俺に何をしてほしい?」
「北の黒森峠を引き続き守ってほしいです。連合軍が南で動いている間、北を空けるわけにはいきません。ゴルドーに北を守ってもらえれば、私たちは南に集中できます」
「……俺は南に行かなくていいのか?」
「北が抜ければ終わりです。最も重要な役割です」
「お世辞は下手だな、嬢ちゃん」
「本当のことです」
ゴルドーが少し笑った。
「分かった。峠は任せろ。いざとなれば呼べよ。俺も行く」
「その時が来たら呼びます」
「約束だぞ。嬢ちゃん、無理するなよ。倒れたって聞いた」
「回復しました」
「顔色がまだ悪い」
「2日で治ります」
「……強情だな」
ゴルドーが立ち上がった。部屋が少し広くなった。出ていきかけて、扉の前で振り返った。
「前の第七魔王も強情だったぞ。そういう奴が長生きする」
ゴルドーが出ていった。ナナは少し間を置いた。
(前の第七魔王ヴァル)
(強情、か)
ヴァルに問いかけようとして、やめた。今日はゆっくりしろと言っていた。
夕方、オズが来た。紙の束を持っていた。
「補給の試算が出ました。連合軍の規模を500人と仮定した場合、3日分の補給を確保するには食料・水・医療物資合わせてこれだけの量が必要です」
オズが紙を机に広げた。数字が並んでいた。
「現在の備蓄では2日分が限界です。差分はマルコに相談すれば3日以内に手配できると思いますが、費用が」
「費用はいくらですか?」
オズが数字を出した。
「分かりました。マルコに依頼してください。今日中に」
「承知しました」
オズが立ち上がりかけた。
「オズ。ミラの医療記録、引き継いでくれていますね」
「はい。全員分、続けています」
「ありがとうございます」
オズが少し間を置いた。机の上の書類に目を落として、それからナナを見た。
「……ミラが残したかったものですから」
オズが頭を下げた。出ていった。
夜、グリムが来た。レンの進軍ルートの最終案を持っていた。
「レンからだ。南の平野への最短経路と、退路の確保ルートが2案ある」
ナナは地図を広げた。2人で見た。
「こちらの経路が補給線を短くできますが、露出が多いですね。こちらは時間がかかりますが、崖を背にできます」
グリムが少し指で地図を叩いた。
「……遅い方がいいな。連合軍は足並みが揃わない。速度より安全を取れ。複数の組織が動く時は、一番遅い部隊に合わせた設計にしないと崩れる」
「同意見です。こちらに決めます」
グリムが頷いた。
少し間を置いた。
「……初めてだな」
「何がですか?」
「お前が軍を率いるのが。黒い翼は傭兵団だ。軍じゃない。今回は違う。500人を動かすのは軍だ」
ナナは地図を見た。
(軍、か。前世でも、軍の一員だった。ただ率いたことはなかった。小隊長が最大だった。500人は、別の話だ)
「怖いか?」
グリムが静かに聞いた。
「怖いです」
「そうか」
「でも、やります」
グリムが少し頷いた。腕を組んで、地図を見た。
「……そう言うと思っていた」
2人でしばらく地図を見た。
「クレモアの使者が明日来る」
「分かっています。話を聞きますが、何を言われても今は動きません。カオスの件が片付くまで、クレモアとは距離を置きます」
グリムが地図を折って渡した。
「今日は寝ろ。明日は長い」
グリムが出ていった。ナナは地図を机に置いた。窓の外で夜風が鳴っていた。
準備は整いつつあった。ただ整いつつある、というだけで、整ったわけではなかった。




