第45話 南の平野の戦い
3日目の夜明け前、全員が配置についた。
南の街道は暗く、風がなかった。音もなかった。ナナは城壁の上から南を見た。まだ何も来ていなかった。平野の端が、少しずつ夜の色から切り離されていくのが分かった。
グリムが隣に立っていた。
「……来るな」
「はい」
「エリスの結界は?」
「昨夜から張っています。今朝、確認しました。問題ありません」
グリムが少し頷いた。
夜明けが来た。南の平野の端に、黒い塊が見えた。動いていた。
リーファが精霊を放った。風が南の街道に流れ、音が変わり、低い響きが崖沿いに広がった。第六魔王軍の先頭が、音に引き寄せられるように崖沿いに進んだ。横に広がれない地形に入った。
(誘導が効いている)
「エリス——」
「分かってる」
エリスが後方から詠唱した。炎の壁が街道の南端に立ち、前進を止めた。後続が詰まった。
「グリム——」
「行く」
グリムが城壁から降り、第1班・第2班が続いた。城門が開いた。
最初の30分は設計通りだった。
街道に絞られた第六魔王軍の先頭をグリムの班が崩し、リーゼの側面が後続を削り、レンが後方の個体を狙い撃ちした。ただ数が多かった。先頭が崩れても後続が押してきた。前の個体が倒れると、その上を踏んで来る。躊躇がなかった。止まらなかった。崖沿いに絞られた街道の中で、塊が塊のまま前に進んでいた。
グリムが城壁に向かって叫んだ。
「第二波が来てる。想定より早い」
ナナは南を見た。
(第二波が第一波と間隔を置いていない。統率がないはずなのに——押し込む力だけがある)
「リーゼ——第3班を左に展開してください。第二波の横腹を叩きます」
「承知した」
リーゼが動いた。右側——崖の上から何かが飛んだ。第六魔王軍の後方に黒い影が落ちた。リシュアだった。後方の個体2体を一瞬で沈め、また消えた。
「ジャック——」
レンが叫んだ。
「見えてる」
ジャックが街道の外側から走り、右側面を回り込もうとしていた個体の群れに突っ込んだ。ジョンが後ろから矢を続けて射た。側面の突破を止めた。
1時間が経った。
第一波は半壊していた。ただ第二波が来ていて、第三波の影も南の平野に見えた。グリムが城壁に戻ってきた。左腕に切り傷があり、革鎧の袖が裂けていた。
「……援軍は?」
「まだ来ていません」
「このままだと——消耗する」
ナナは南を見た。
(設計では援軍が来てから第三波を受ける予定だった。来ていない。このまま第三波を受ければ消耗が限界を超える可能性がある。魔王化するか——まだだ。カオス本人が来ていない。切り札をここで使えば、本人が来た時に手がない。ならば速度を上げる。第二波を早く終わらせる)
「エリス——炎の壁を前に移動できますか?」
「どのくらい?」
「50歩分、南に」
「……できる。ただ魔力の消耗が増える」
「お願いします」
エリスが詠唱した。炎の壁が前進し、後続が詰まっていた場所に圧縮された。
「グリム——もう一度、行けますか?」
「行く」
グリムが降りた。第1班が続いた。圧縮された第二波に突っ込んだ。密集した状態はグリムにとっても有利だった。大剣が振れる空間があれば、密集しているほど当たる。10分で第二波の前半が崩れた。ただそこに第三波が来た。フェンリルはまだ見えなかった。
グリムが城壁を見上げた。
「数が多い。左が薄い」
ナナは城壁の上から南を見た。
(左側——リーゼの第3班が伸びすぎている。第三波の左翼が抜ける。指示を出す時間がない)
ナナは詠唱した。城壁の上から左側面に向けて小規模な炎を放った。派手ではなかった。左翼の先頭に当たり、先頭が止まり、後続が詰まった。その数秒でリーゼが気づいた。第3班が左に展開した。
「——助かった」
リーゼが小さく言った。
ナナは魔力の消耗を確認した。
(まだ使える。ただ魔王化の余力は残しておく)
そこでフェンリルが来た。南の平野の東側から、グラ=ベイルの旗が見えた。100人以上だった。フェンリルの部隊が第三波の側面に当たり、挟み撃ちになった第三波が乱れた。30分後、第六魔王軍は撤退し始めた。追わなかった。
ナナは城壁の上から撤退していく軍を見た。
(カオス=ベルゼ本人は来なかった)
ヴァルが静かに言った。
『……来なかったな』
(軍が半壊しても来なかった。これは意図的だ。カオスが来なかったのではなく——来る必要がないと判断した。次に来る時は、本人が来る条件が整った時だ)
ヴァルは黙った。
ナナは南の平野を見た。撤退していく軍の後ろに、何か大きいものの影が一瞬見えた気がした。次の瞬間、なくなっていた。
(……気のせいか)
『……気のせいではないかもしれない』
ナナは城壁から降りた。負傷者の確認が先だった。
全員生きていた。グリムの左腕の切り傷、カイルの右肩の打撲、ジャックの額の浅い傷。傷を持つ者は3人で、いずれも動ける範囲だった。
フェンリルが城門の前に立っていた。
「主からの言伝だ。『よく持たせた』と」
「ありがとうございます。フェンリルも助かりました」
「援軍要請があれば来る。それだけだ」
フェンリルが部隊を整列させた。グリムが横に来た。
「……終わったな」
「今日は、はい」
「今日は、か」
「カオス本人がまだ来ていません」
グリムが南の平野を見た。撤退していく塵の向こうに、空だけが広がっていた。
「……来るか?」
「来ます」
グリムが短く息を吐いて、城壁に手をついた。力を抜いたわけではなかった。ただ少し寄りかかった。
翌日の夕方、レンが走って戻ってきた。
ナナはレンが走るのを初めて見た。
「報告する」
「全員を呼んでください」
レンが首を振った。
「時間がない。南の平野——1体だけ来ている。城壁の2倍以上ある。竜人族だ。単体で来ている。軍はいない」
(来た)
「全員に伝えてください。配置につくように」
レンが走っていった。
城壁の上に立った。
見えた。
南の平野に、それはいた。巨大だった。竜の鱗を持つ人型で、4本の腕があり、長い尾があった。目が赤かった。街道の距離があっても、その目が何も見ていないことが分かった——いや、何かを見ていた。破壊の方向だけを見ていた。一歩踏み出すたびに地面が揺れ、その振動が城壁の石を伝わってきた。
ヴァルが言った。
『……カオス=ベルゼだ。変わっていない。あれは理性がない。話が通じない。戦うしかない』
グリムが横に来た。
「……でかいな」
「はい」
「魔王化するか?」
(判断基準を確認する。魔王砲・零式を直撃させれば後退させられる可能性がある。昏睡後の護衛は今から明示する。城壁がある。条件は揃っている)
「グリム——魔王化します。30分で動けなくなります。昏睡後の護衛をお願いします」
「……任せろ」
「リーゼ——昏睡後、城門を閉めて全員を城壁の内側に入れてください」
「承知した」
「エリス——結界を城壁ギリギリまで縮めてください。私が動いている間は外に出ないでください」
「分かった」
「レン——全員を城壁の内側に下げてください」
「分かった」
全員が動いた。ナナは城壁の上に1人で立った。カオスがイグレアに向かって歩いていた。一歩ごとに地面が揺れた。遠くにいるのに、圧が来ていた。
(ヴァル)
『……行けるか?』
(やる。ただ——戻ってこられるか?)
ヴァルが少し間を置いた。
『戻ってこられる。我が保証する』
(分かった)
ナナは目を閉じた。魔王化を解放した。
身体が変わった。
熱くはなかった。ただ重力が変わった気がした。自分の身体が床から少し遠くなり、同時に地面の重さが全部手のひらに伝わってくるような感覚があった。額に何かが刻まれる感触があった。そこだけが、外の空気に直接触れているような温度だった。
目を開けた。
視界が少し広くなっていた。
「——我が」
自分の声だったが、少し自分の声ではなかった。低く、少し重かった。ナナ自身の声と、100年前に生きた何者かの声が、同じ喉を使っていた。
城壁から飛び降りた。着地した。石畳が割れた。衝撃は感じなかった。足の裏に圧だけがあった。
カオスが止まった。赤い目がナナを見た。
ナナは前に進んだ。距離が縮まっていく中で、カオスの巨大さが数字ではなく空間として伝わってきた。城壁の2倍という言葉は、今この距離では意味を持たなかった。ただ大きかった。圧倒的に大きかった。
カオスが口を開いた。言葉ではなかった。音だった。低い、獣の音だった。
「——貴様が第六魔王か。我は第七魔王ナナミアだ。——引け」
カオスが答えなかった。
4本の腕のうち2本が振り下ろされた。速かった。あの巨体でその速度だった。ナナは横に跳んだ。腕が地面に当たった。石畳が砕け、破片が飛んだ。着地と同時に足を踏み出し、距離を保ちながら動き続けた。
(速い。ただ単調だ。右腕が先に動いてから左腕が来る。予測できる)
「黒閃斬」
闇の刃が横一線に走った。カオスの左腕に当たった。鱗が数枚飛んだ。傷はついた。深くはなかった。刃が当たった感触が右手に返ってきたが、それは岩を斬った時の感触に近かった。
(硬い。黒閃斬では削るだけだ。倒せない。魔王砲・零式が必要だ。ただ充填に時間がかかる。その間、距離を保ちながら動き続けなければいけない)
カオスが再び動いた。今度は尾が来た。地面を薙ぐ動きで、軌道が読めた。ナナは後ろに跳んだ。尾が石畳を叩いた。衝撃で地面が揺れ、ナナの着地が乱れた。膝が少し落ちた。
立て直して詠唱を始めた。低く、短い言葉だった。魔力が集まり始めた。右手の前に点が生まれた。暗い光だった。
カオスが近づいてきた。ナナは後退しながら詠唱を続けた。1歩引いて、カオスが2歩来る。距離が縮まっていた。城壁の上からグリムが叫んだ。
「右——」
ナナは右に跳んだ。カオスの右腕が空を切った。空気が動いた。腕が通り過ぎた後の気圧の変化が、頬に当たった。
(あと少しだ——)
魔力が集まっていた。点が大きくなっていた。ナナは後退を止めた。足を踏みしめた。
カオスが正面に立った。4本の腕が構えた。
詠唱の最後の言葉を言う前に——カオスが吼えた。音だった。音の塊だった。空気が割れるような衝撃波で、石畳の破片が舞い上がり、ナナの足元の地面がびりびりと震えた。
「魔導障壁・双層」
詠唱が間に合った。障壁が展開した瞬間に衝撃が来た。2枚の壁が順番に揺れ、ひびが入り、それでももった。ナナは足を踏み直した。障壁の向こうにカオスが見えた。赤い目がナナを見ていた。
右手の前で、魔力の点が球になっていた。




