第42話 外交の剣
扉を開けた。
ルゼがちょうど廊下を歩きかけていた。外套の裾が動いた。
「ルゼ=アヴァロン」
足が止まった。振り返った。
「なんだ」
「少し話せますか?」
ルゼが廊下を見渡した。他の者はいなかった。
「……会議室に戻る」
2人で戻った。扉が閉まった。ルゼは立ったままだった。座らなかった。
「言え」
「先月、イグレアに転移で侵入した者がいました。2人です。後方にいた仲間が巻き込まれ、1人が死にました」
ルゼが黙った。
「その動き方について、事情を知る者から話を聞きました。ルゼ=アヴァロンの直属の転移使いの動き方と一致していると」
「証拠は?」
「ありません」
「では——なぜ私に言う?」
「2つ理由があります。1つ目——もしあなたが命令していないなら、配下が独断で動いています。それはあなたにとっても問題のはずです」
ルゼが少し目を細めた。
「2つ目は?」
「もしあなたが命令したなら——私はそれを知っている、ということをあなたに知らせておきたかった」
場が静かになった。ルゼがナナを見た。長い間だった。ナナは埋めなかった。
「……死んだのは誰だ?」
「医療担当の仲間です。名前はミラ=ハーネと言いました」
「純魔族か?」
「人族です」
ルゼが少し目を動かした。何かを言いかけて、やめた。口が一度開いて、閉じた。
「……証拠がない以上、私は何も答えない」
「分かりました」
「ただ、」
ルゼが少し間を置いた。
「お前の言った1つ目の可能性——配下が独断で動いた場合。それは私が調べる」
(否定しなかった。命令したとも言わなかった。調べると言った)
「承知しました」
「礼を言う必要はない。私の領域の問題だ」
ルゼが扉に向かった。歩きながら言った。
「第七魔王」
「はい」
「ミラ=ハーネとやら。人族でも仲間と呼んでいたか?」
「はい」
ルゼが少し間を置いた。扉の前で止まらなかった。
「……そうか」
扉が開いて、閉まった。
ナナはしばらく動かなかった。
(「そうか」——それだけだった。純血主義者がその言葉を言う意味が、まだ分からない)
ヴァルが静かに言った。
『……ルゼは昔から、そういう男だった。正しいと信じていることには揺るがない。ただ予想外のことには、少し止まる』
(予想外だったのか?)
『人族を仲間と呼ぶ第七魔王が、証拠もなく話しに来た——そのどちらかだろう』
ナナは立ち上がった。次の話し合いがあった。
廊下に出ると、クレモアが少し先で壁に背をつけて待っていた。
「終わりましたか?」
「はい」
「ルゼと——何を話したんですか?」
「個人的な確認事項です」
「そうですか」
クレモアが少し目を細めた。笑顔のままだった。
「少し歩きませんか? 庭があるそうです」
「構いません」
2人で廊下を歩いた。グリムがついてきた。クレモアが振り返った。
「2人で、とお願いしたのですが」
「私の判断で同行させています」
「……そうですか」
クレモアが少し笑った。それ以上は言わなかった。
庭に出た。石畳だった。木が数本あり、風があった。秋の終わりに近い冷たさだった。クレモアが歩みを止めた。
「単刀直入に聞きます。ナナさんは——この世界をどうしたいのですか?」
「イグレアを守りたいです」
「それだけですか?」
「今のところは」
「……もったいない」
「どういう意味ですか?」
「あなたの能力があれば——もっと広い範囲を動かせます。イグレアを守るだけでなく、この世界全体の仕組みを変えることができる」
「仕組みを変える、とは?」
クレモアが少し間を置いた。木の葉が1枚、石畳に落ちた。
「今、この世界では人や魔族が——能力に関係なく生まれた場所や種族で扱いが決まっています。才能がある者が正しい場所に置かれていない。私はそれを変えたいと思っています。各魔王の領域を整理し、能力のある者が適切な役割を担う体制を作る。感情や慣習ではなく——合理的な判断で世界を動かす」
「誰が能力を評価しますか?」
クレモアが少し目を細めた。
「評価基準を作ります。客観的な基準です」
「基準を作るのは誰ですか?」
「……それは」
「基準を作る者が、実質的に全てを決めます。それは合理統治ではなく——評価者による支配です」
クレモアが少し間を置いた。笑顔が少し変わった。形は同じだったが、目の動きが止まった。
「鋭いですね」
「論理の問題です」
「では——あなたはどうするべきだと思いますか?」
「私がどうするべきかを決める立場にはありません。各地の者が自分で決める必要があります」
「非効率です」
「そうかもしれません。ただ誰かが決めた『正しい場所』に置かれることと、自分で選ぶことは別です」
クレモアが少し間を置いた。
「……あなたと話すのは面白い」
「ありがとうございます」
「しかし、立場は相容れないようです」
「そう思います」
クレモアが少し笑った。今度は目も動いた。
「リシュアのことも——いずれ話し合いましょう。今はまだ、その時ではありませんが」
(「今はまだ」——自分から言った。今は動かないと確認した)
「その時が来れば」
「楽しみにしています」
クレモアが庭を出ていった。石畳の足音が遠くなった。
グリムが横に来た。
「……あれは何者だ?」
「前世は科学者だったと思います」
グリムが少し間を置いた。
「……科学者?」
「合理的に世界を設計しようとする人間です」
「危険か?」
「はい。悪意がないぶん——余計に危険です」
グリムが木の方を見た。葉がまた1枚落ちた。何も言わなかった。
翌朝、扉をノックする音がした。
まだ日が昇りきっていなかった。ナナは書類を閉じて立った。
「どうぞ」
ミュリエだった。翅を折りたたんで入ってきた。手に小さな籠を持っていた。中に果物が入っていた。色が鮮やかだった。
「おはよう。朝ごはん、一緒にどう?」
「……なぜ私の部屋が分かったのですか?」
「フェンリルさんに聞いたの」
「フェンリルが教えたのですか?」
「可愛くお願いしたら教えてくれたわ」
ナナは少し間を置いた。
「入ってください」
ミュリエが部屋に入った。椅子に座った。籠を机に置いた。
「食べて。美味しいわよ」
「ありがとうございます」
ナナは果物を1つ手に取った。ミュリエがナナを見ていた。じっと見ていた。朝の光の中で、翅の緑色が少し透けていた。
「ねえ——なんで戦うの?」
「守りたいものがあるからです」
「守るために戦わないといけないの?」
「今のところは、そうです」
「おかしいと思わない?」
「おかしいとは思いません。必要なことだと思っています」
ミュリエが少し首を傾けた。
「でも——人が死ぬわ。あなたの仲間も死んだでしょう?」
「死にました」
「それでも戦うの?」
「はい」
「なぜ?」
(なぜ、か。守りたいから。ミラが守ろうとしたものを守り続けると決めたから——それを全部言う必要はない)
「戦わなければ、守れないからです」
ミュリエが少し唇を噛んだ。
「……戦わなくていい世界を作ればいいじゃない」
「そうですね」
「え?」
「そういう世界が来るといいと思います」
ミュリエが目を丸くした。
「じゃあ——一緒に作りましょうよ。戦わずに話し合って、全員が納得する形を——」
「誰と話し合いますか?」
「全員よ。魔王も、人族も、全員で——」
「カオス=ベルゼは話を聞きません。ルゼ=アヴァロンは純血主義を曲げません。昨日の会議で分かりました。話し合いが成立する相手とだけ話し合っても——話し合えない相手が動いている間は、何も変わりません」
ミュリエがしばらく黙った。昨日からずっと喋っていたミュリエが、何も言わなかった。翅が少し動いて、止まった。
「……それでも」
ミュリエが静かに言った。声のトーンが少し変わっていた。
「戦い続けることが答えだとは思えないわ」
「私もそう思います」
「え?」
「戦い続けることが答えだとは思っていません。ただ戦わなければ次がない状況があります。今がそうです」
「じゃあ、今が終わったら?」
「考えます」
ミュリエが少し間を置いた。
「……正直ね」
「嘘をつく理由がありません」
ミュリエが少し笑った。昨日の賑やかな笑い方ではなかった。口元だけが動いた。
「あなた——思ったより難しい子ね」
「そうですか?」
「うん。最初は小さくて可愛いだけかと思ってたけど」
「可愛くはないと思います」
「可愛いわよ」
「ありがとうございます」
ミュリエが立ち上がった。籠を机に置いたまま、扉に向かった。扉の前で止まった。振り返らなかった。
「ねえ——いつか考えを変えてね。戦わなくていい方法を、一緒に探しましょうよ」
「その時が来たら、話しましょう」
「絶対よ」
ミュリエが出た。翅の色が扉の隙間から消えた。
ナナは果物を1つ食べた。甘かった。予想より甘かった。
ヴァルが静かに言った。
『……変わった女だろ?』
(はい)
『あの平和主義は本物だ。演じていない』
(分かっています。だから——厄介です)
『なぜだ?』
(悪意がなく、論理も持っている。ただ現実が見えていない。そういう相手は動かしにくい。クレモアとは別の意味で)
ヴァルは何も言わなかった。
外の光が明るくなっていた。今日、帰る。
出発前、ナナはフェンリルを探した。城門の前にいた。
「昨日、ミュリエ=メシスに私の部屋を教えましたか?」
フェンリルが少し間を置いた。
「……聞かれた」
「断れませんでしたか?」
「断った。3回断った」
「4回目は?」
「……泣きそうな顔をされた」
グリムが横で小さく息を吐いた。
「次回からは教えないでください」
「善処する」
フェンリルが前を向いた。




