第40話 クレモアの使者
弔いから2日後の朝、レンが報告に来た。
「南の街道に馬が1頭。旗はない。単騎。武装していない」
「外見は?」
「30代前後の男。人族。荷物が少ない。使者か交渉人の動きだ」
ナナは少し間を置いた。
(旗なし。単騎。武装なし。第一魔王でも第六魔王でもない。グラ=ベイルなら事前に文書が来る。残るのは)
「リシュアを呼んでください」
レンが出た。
リシュアがすぐに来た。
「何だ」
「南から使者が来ています。旗なし、単騎、人族です」
リシュアが少し目を細めた。
「……クレモアの使者だ」
「根拠は?」
「旗を立てない。それがクレモアのやり方だ。目立たず、静かに入り込む」
「お願いがあります。この話し合いの間、姿を見せないでください」
「……なぜだ」
「相手がどこまで知っているかを確認したい。あなたの存在を知っているなら、必ず探ります。知らないふりをするのは難しい」
リシュアが少し間を置いた。
「……分かった」
「話が終わったら、必ず報告します」
リシュアが出た。
使者は昼前にイグレアの城門前に着いた。
グリムが城門で迎えた。男は馬を降りた。背が高かった。30代半ば、茶色の外套。顔に傷はなかった。目が穏やかで、口元に笑みがあった。何かを探っているようには見えなかった。それが気になった。
「黒い翼の方ですか? 私はアルヴィスと申します。第四魔王クレモア=クロック様の使者として参りました」
グリムが黙ったままナナを見た。
「通してください」
食堂に通した。グリムとリーゼが同席した。
アルヴィスが席に着いた。荷物を机に置いた。手の動きに無駄がなかった。
「遠いところをわざわざ。お疲れでしょう」
「いいえ。道中は快適でした。——ナナ様、でよろしいですか?」
「はい」
「単刀直入に申し上げます。クレモア様は、第七魔王と情報を共有したいと考えています」
「どのような情報ですか?」
「各地の魔王の動向です。大会議の招集が出ました。クレモア様はその前に——友好的な関係を築きたいとお考えです」
ナナは少し間を置いた。
(友好的な関係。表の言葉だ。クレモアはリシュアを使って暗殺を試みた。それが失敗した。次の手として直接接触を選んだ。目的は戦力の把握か、意図の確認か)
「具体的には、どのような情報交流を想定していますか?」
「互いの領域に関わる動きがあれば、事前に知らせる。まずそれだけです。難しい条件ではありません」
(難しい条件ではない、と言った。どちらが先に動かされる立場かを隠している)
「検討します」
「ご検討いただけますか。では——同様の形で、クレモア様と関係を結んでいただけますか?」
(同様の形で、と言った。グラ=ベイルとの条件を知っている口ぶりだ。情報が外に出ている。今は顔に出さない)
「文書にできますか?」
アルヴィスがわずかに間を置いた。
「……クレモア様は、まず口頭での合意を好まれます」
「私は文書を好みます」
「理由を聞かせていただけますか?」
「後で内容が変わらないためです」
アルヴィスの目が動いた。笑顔は変わらなかった。グリムが腕を組むのが視界の端に見えた。
「……承知しました。クレモア様にお伝えします」
「それまでは——条件の受諾は保留させてください」
「保留、ですか」
「はい。文書が来れば、その内容を見て判断します」
アルヴィスが少し頷いた。
「分かりました。では——1点だけ確認させてください」
「どうぞ」
「最近、イグレアに新しい方が加わったと聞きました。黒い翼の構成員が増えたと」
ナナは少し間を置いた。手は机の上で動かなかった。
「傭兵の出入りはあります。詳しくは答えられません」
「そうですか。失礼しました」
アルヴィスが立ち上がった。
「本日はありがとうございました。クレモア様にお伝えします」
「お気をつけて」
グリムが城門まで送った。アルヴィスが馬に乗った。南の街道を戻った。砂埃が薄く上がり、消えた。
グリムが戻ってきた。
「……どう見る?」
「優秀です。笑顔が崩れなかった。最後の質問——新しい構成員について聞いてきた。リシュアを探っていました」
「知っているのか?」
「おそらく。確信はないはずです。確認しに来た」
「どう対処する?」
「今は何もしません。文書が来るかどうかを見ます。来なければ、クレモアは別の手を打ちます」
グリムが少し間を置いた。
「……厄介な相手だな」
「はい」
リーゼが腕を組んだまま何も言わなかった。ナナを一度見て、窓の外に目を向けた。
夕方、ナナはリシュアの部屋に行った。
「来ていました」
リシュアが黙った。
「アルヴィスという名前でした。知っていますか?」
「……知っている。クレモアの側近だ。切れる男だ」
「最後にイグレアの新しい構成員について聞いてきました。あなたを探っていたと思います」
リシュアが少し間を置いた。腕を組んで、部屋の隅を見ていた。
「……クレモアは、私が生きていることを疑っている。腕輪の定期確認が続いている。死んでいれば確認が途絶える。だから生きているのは分かっている。どこにいるかは分からない」
「今後、アルヴィスがまた来る可能性があります」
「……次は私が対応するか?」
「いいえ。あなたの存在はまだ隠します」
「なぜだ」
「クレモアが確信を持てない状態を続ける方が、有利です。確信を持たれれば次の手が来ます」
リシュアが少し間を置いた。
「……分かった」
ナナは出かけた。扉に手をかけた時、リシュアが後ろから言った。
「……ナナ」
振り返った。リシュアは部屋の中に立っていた。腕を組んだまま、目が少し動いた。それ以外は動かなかった。
「報告——ありがとう」
ナナは少し間を置いた。
「当然のことです」
廊下に出た。
弔いから3日後の夜、ナナは城壁の上にいた。
訓練の声が下から聞こえていた。グリムが夕刻の訓練を増やしていた。食堂で喋る者が少ない日が続いていた。オズが仕事を増やして手を動かしていた。
ナナも3日間、動き続けていた。斥候の整理、補給の確認、防衛ラインの見直し。やることを作り続けた。
(止まると——考える)
南の空に目を向けた。斥候の報告では第六魔王軍の再編が始まっているという。距離はまだある。
足音が聞こえた。
レンだった。城壁の上に上がってきて、ナナの隣に立った。南を見た。
何も言わなかった。
ナナも何も言わなかった。
夜風があった。城壁の旗が鳴った。
レンが口を開いた。
「……聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜここにいるのか」
ナナは少し間を置いた。
「守りたいものができたからです」
レンが黙った。南を見たまま、それ以上聞かなかった。
しばらく時間が経った。
「……ミラの件」
「はい」
「お前のせいじゃない」
「……判断の結果です」
「そうだな。ただ——言っておきたかった」
「レン」
「なんだ」
「ありがとうございます」
レンが少し間を置いた。
また静かになった。風が来た。城壁の旗がまた動いた。
「……俺も——聞いてもらっていいか」
「はい」
レンが南を見たまま話した。
「家族がいた。父と母と、妹が1人。村にいた。怪物が来た。父が止めようとした。母も。2人とも——死んだ。妹は逃げた。俺も逃げた。逃げたら——奴隷商人に捕まった」
「妹は?」
「分からない。逃げた先が分からない」
ナナは黙った。レンも一度止まった。それから続けた。
「奴隷になってから——生きている理由がなかった。死んでもよかった。死ぬのが怖くなかった。ただ——死ぬ機会がなかった。お前に拾われた時も、どうでもよかった」
夜風が止んだ。
「ただ——お前が魔法を使った。あの炎を見た時」
「はい」
「死なないかもしれない、と思った。初めて思った」
ナナは少し間を置いた。
「それが——『死ぬな』という言葉の理由ですか?」
レンが少し間を置いた。城壁の石の縁に手を乗せた。
「……俺が死ぬなと思ったのは——お前が死んだら、俺がまたどうでもよくなると思ったからだ。お前が生きていれば——俺も生きている理由がある。それだけだ」
ナナはしばらく南を見ていた。星があった。風が少しあった。
「……話してくれてありがとうございます」
レンが少し間を置いた。
「それだけでいい」
また静かになった。2人で城壁の上に立っていた。南の空に雲が流れた。
しばらくして、レンが言った。
「妹は——生きていると思う」
「そうですか」
「根拠はない。ただ——そう思う」
「生きていると思います」
レンが少し間を置いた。
「……なぜだ」
「根拠はありません。ただ——あなたがそう思うなら、そうだと思います」
レンが短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。夜の中では分からなかった。
「……名前はリアという」
「妹の名前ですか?」
「ああ。言っておこうと思っただけだ」
「分かりました。リア」
レンが頷いた。それだけだった。
2人でまた南の空を見た。雲が流れた。その向こうに星が見えた。
ナナは城壁の石に手を置いた。冷たかった。3日間、手が触れてきたのは書類と杖と、角笛だけだった。石の冷たさが少し違った。
(リア——覚えた)
風がまた来た。旗が低く鳴った。




