第39話 角笛が鳴る
翌朝、ジャックが食堂に入ってきた。
「第一魔王の偵察隊が再び動いています。昨日より人数が増えている。30人前後、山道を下りてきています」
ナナは椅子に座ったまま動かなかった。昨夜から眠っていなかった。窓の外に朝の光が差していたが、まだ体には夜の感触が残っていた。
「距離は?」
「3時間。早ければ昼前に着きます」
グリムが壁際に立っていた。腕を組んでいた。
「こちらの戦力は?」
「昨日の戦闘で軽傷が数人います。動けます」
グリムがナナを見た。
ナナは立ち上がった。懐に手を入れた。
「角笛を使います」
全員の視線が集まった。
「グラ=ベイルへの援軍要請です。30人に対してこちらは十分な戦力がある。今日だけの話ではありません。これから先、同じ状況が続く。今、角笛の実績を作っておく必要があります」
グリムがわずかに間を置いた。
「……グラ=ベイルは動いてくれるか?」
「動きます。約束しました」
「使いどころを選べ、と言われたが——今がその時か?」
「はい」
ナナは角笛を取り出した。
城壁の上に上がった。全員がついてきた。
南の空に雲が広がっていた。北東の山道がよく見えた。まだ部隊の姿はなかった。風が頬を撫でた。冷たかった。
ナナは角笛を口に当てた。一度、息を整えた。
吹いた。
低く、重い音が鳴った。山の斜面に広がり、谷に反響して遠くまで伸びていった。それだけだった。
待った。
1時間後、南の街道に砂埃が上がった。
最初に見えたのはフェンリルの影だった。後ろに50人。全員、獣人の戦士だった。重装備で、速かった。走っているわけではない。それでも速かった。
城門の前でフェンリルが止まった。城壁のナナを見た。
「吹いたか」
「吹きました」
「北東か」
「はい。30人前後。あと2時間で着きます」
「分かった」
フェンリルが振り向いた。部隊に短く指示を出した。半数が北東の山道に向かった。残りが城門前で待機した。
ナナは城壁から降りた。
グリムが隣に来た。
「……早かったな」
「近くにいたのかもしれません」
少し間を置いた。
「あるいは——待っていたのかもしれない」
「待っていた?」
「角笛が鳴ることを想定して、近くに部隊を置いていた可能性があります。グラ=ベイルはそういう人です」
グリムが腕を組んだ。しばらく北東の山道の方を見ていた。
「……信用できる相手だな」
「今のところは」
グリムが短く笑った。
昼前に北東の部隊が山道を下りてきた。
フェンリルの部隊が山の中腹で迎撃した。ナナはイグレアの城壁から見ていた。距離があったが動きは分かった。フェンリルたちは速く、隊列が乱れなかった。第一魔王の偵察隊は正面だけを見ていた。側面から圧力をかけられた時、10分も保たなかった。撤退する背中が山道に消えた。
フェンリルが城門まで戻ってきた。
「片付いた」
「ありがとうございます」
「礼はいい。同盟として当然のことだ」
グラ=ベイルと同じ言葉だった。
「主に報告する。次があれば、また呼べ」
「はい」
フェンリルが部隊を連れて南に戻った。砂埃が上がり、やがて収まった。
誰も何も言わなかった。
2正面の脅威が退いた。同盟の実戦価値が証明された。それだけのことだった。城壁の上に残った全員が、それぞれ違う方向を見ていた。
夕方、ナナは自室にいた。書類を開いたまま手が止まっていた。
グリムがノックした。
「入っていいか?」
「どうぞ」
グリムが入った。椅子を引いて座った。すぐには何も言わなかった。窓の外が橙色になっていた。
「……お前のせいじゃない」
ナナは書類から目を上げなかった。
「判断は正しかった。南を先に叩く——それは正しかった。俺もそう思っていた」
「……分かっています」
「後方への侵入は——読めなかった。読めない状況だった」
「分かっています。それでも」
グリムが黙った。立ち上がろうとして、もう少し座っていた。外の光が暗くなった。
「……ミラは」
少し間を置いた。
「あいつは自分で選んだんだと思う。オズを庇うのも、ここにいるのも」
ナナは答えなかった。書類に視線を落としたまま、ページをめくる気にもなれなかった。
「お前が連れてきたわけじゃない。あいつが来ると決めた」
「……そうですね」
「そうだ」
グリムが立ち上がった。出ていきかけて、扉の前で止まった。振り返らなかった。
「リシュアが——お前に話があると言っていた」
「分かりました。後で行きます」
グリムが出た。扉の音が静かだった。
ヴァルが言った。
『……我も守れなかった。100年前も、同じように誰かを失った』
ナナは書類を閉じた。
『それでも続けた。続けるしかなかった。お前も』
(分かっている)
『……そうか』
ヴァルは黙った。
ナナは立ち上がった。棚を開けた。聖銀の短剣があった。リシュアが来た夜から、そこに置いていた。手に取った。思ったより重かった。
廊下を歩いた。
リシュアの部屋の扉をノックした。
「入れ」
入った。リシュアが壁際に立っていた。ナナの手を見た。短剣を見た。何も言わなかった。
「返します」
リシュアがわずかに間を置いた。
「……信用が固まったのか?」
「昨日——あなたはあそこにいた」
リシュアの目が動いた。それだけだった。
「武器なしで動こうとした。間に合わなかった。それはあなたのせいではありません」
「短剣があっても、間に合わなかったかもしれない」
「そうかもしれません」
「……それでも返すのか?」
「信用が固まったので」
リシュアが短剣を受け取った。腰に収めた。それから、少しだけ時間が経った。部屋の中が暗くなり始めていた。
「話がある」
「なんでしょう?」
「昨日入ってきた2人、第一魔王の直属だ」
「根拠は?」
「転移で内部に入る戦術は、ルゼ配下の特定の者しか使わない。私はソルの時代に各魔王の戦術を把握するのが仕事だった。あの動き方はルゼの直属だ」
「今後も同じ手を使うと思いますか?」
「使う。ルゼは同じ戦術を繰り返す。一度通った手は信用する」
(内部侵入が繰り返される。城壁を強化しても転移で入られれば意味がない。対策が必要だ)
「100年前も使いましたか?」
「使った。前第七魔王もそれで側近を失った、と記録にあった」
ナナはヴァルに問いかけた。
(ヴァル)
『……そうだ。内部に入られた。気づいた時には、側近が1人やられていた。我はその後——転移封じの結界を張ったが、遅かった』
(エリスに相談する)
「ありがとうございます」
リシュアが短剣に手を置いたまま、ナナを見ていた。
「礼はいい。昨日、何もできなかった。それだけだ」
ナナは黙った。リシュアも黙った。窓から夜の空気が入ってきた。
「次は止める」
リシュアが静かに言った。壁に背を預けたまま、ナナを見ていなかった。その目が部屋の隅を向いていた。
ナナは少し間を置いた。
「はい」
朝、全員が中庭に集まっていた。
誰かが呼んだわけではなかった。気づいたら全員がそこにいた。
ミラは中庭の隅に寝かせてあった。白い布をかけていた。リーゼが昨夜のうちに整えたものだった。布の端がきれいに畳まれていた。
誰も何も言わなかった。
グリムが前に立った。
「ミラ=ハーネ。黒い翼の医療担当。仲間だった」
風が吹いた。白い布が少し動いた。
リシュアが輪の外に立っていた。全員から少し離れた場所に。俯いてはいなかった。ただ、静かに立っていた。前を向いて、目を伏せていた。
ジャックが一歩前に出た。膝をついた。ジョンが続いた。カイルが頭を下げた。サルが目を閉じた。1人ずつ、それぞれのやり方だった。
オズがナナの隣に来た。しばらくそのまま立っていた。それから、小さな声で言った。
「ミラの分まで、数字を見ます」
ナナは少し間を置いた。
「はい」
グリムが「解散」とだけ言った。
昼になった。
ダリオが壁の修復作業を続けていた。レンが斥候に出た。リーゼが怪我人の状態を確認して回っていた。イグレアは動いていた。
ナナは食堂で書類を整理していた。向かいにオズが座っていた。帳簿を開いていた。2人で黙って作業をしていた。ペンの音だけがしていた。
しばらくして、オズが口を開いた。
「ミラが——」
そこで止まった。ナナは手を止めなかった。
「ミラが、最後に言っていたんです。イグレアの記録を残したいって」
「記録?」
「誰がいつ怪我をして、どう治したか。どの薬草が効いたか。そういう記録です。私が引き継ぎます」
ナナはペンを置いた。
「……お願いします」
「はい」
オズが帳簿に何かを書いた。ナナも書類に戻った。またペンの音が続いた。
日が傾く頃、ナナは中庭に出た。
リシュアが白い布の前に1人で立っていた。ナナが近づく音を聞いて振り返った。
「……ソルも、こういう形で逝ったのか」
「穏やかだったと聞いています」
「ミラも——穏やかだったか?」
ナナは少し間を置いた。
「……はい」
リシュアが前に向き直った。腰の短剣に手が触れた。それから離れた。
2人でしばらく並んで立っていた。
夕方、エリスがナナを探してきた。
「少し話せる?」
2人で中庭の端に腰を下ろした。石畳が冷たかった。
「転移封じの結界、調べてみた。張れないことはないけど、イグレア全体をカバーするには私1人じゃ魔力が足りない。私と同程度の魔力を持つ人間がもう2人か3人、あるいは精霊族の協力があれば足りるかもしれない」
「リーファに相談します」
「うん。それともう1つ——結界を張っている間は、他の魔法が使えなくなる。戦闘中には使えない」
「分かりました。戦闘前に張る形で設計します」
エリスがナナを見た。何かを言いかけて、止めた。
「また明日も調べる」
「お願いします」
エリスが立ち上がった。中に戻りかけて、止まった。
「ミラ——いい子だったね」
ナナは少し間を置いた。
「はい」
エリスが中に入った。ナナはしばらく石畳の上に座っていた。夜の冷気が地面から上がってきた。
レンが斥候から戻ってきた。手に文書を持っていた。
「届いていた。アルトハイムのバロウから」
ナナは受け取った。短い文だった。
複数の使者が各地を動いている。行き先は各魔王の拠点。内容は不明。——バロウ
(各魔王の拠点に、同時に使者が動いている。何かが始まろうとしている)
(ヴァル。これは何だ?)
ヴァルが少し間を置いた。
『……大会議の招集だ』
(大会議?)
『魔王が一堂に集まる会議だ。100年に数度しか開かれない。大きく動く前に、必ず開かれてきた』
(100年前も?)
『ああ。あの時も使者が動いた。次に何が起きたか——お前は知っている』
(誰が招集した?)
『……グラ=ベイルだろう。あの男は動く前に話し合う』
ナナはレンを見た。
「ありがとうございます。休んでください」
レンがナナを見た。一瞬、何か言おうとした。口を開いて、閉じた。そのまま出た。
夜になった。
ナナは自室で灯りをつけた。文書を机の上に置いた。
ミラのことを考えた。あの夜を思い出した。全員を前にした時。ミラが手に触れた後で言った言葉。
(誓います。助けてもらった分、返します)
ナナは「返さなくていいです」と言った。
ミラは「返します」と言った。
最後に「……返せましたか」と聞いた。
ナナは「返してもらいました」と答えた。
それは本当のことだった。
(私はまだ、返していない)
ヴァルが静かに言った。
『……返すとは、どういう意味だ?』
(守り続けることだ)
ヴァルは何も言わなかった。
窓の外に星があった。雲がなかった。
(ミラ)
答えはなかった。当然だった。
(お前が守ろうとしたものを、私が守る)
ナナは灯りを消した。暗くなった部屋の中で、しばらくそのまま立っていた。それから、ゆっくりと横になった。




