第38話 第一魔王の影
アルトハイムから戻って3日後、バロウから文書が届いた。
レンが受け取り、ナナに渡した。短い文だった。
「昨日、あんたたちの情報を買いに来た者がいた。旗はなかった。純魔族、2人。以上。バロウ」
ナナは文書を折った。
(純魔族。第一魔王配下だ)
ヴァルが静かに言った。
『……動きが早い。100年前も同じだった』
(どういう動きだった?)
『まず情報を集める。相手の戦力・拠点・人員を把握する。それから動く。ルゼ=アヴァロンは慌てない。ただ放置もしない』
(調停者を排除しようとしている、ということか)
『そうだ。100年前、我が各地の魔王と話し合いを始めた時、ルゼはまず情報を集めた。次に使者を送った。次に圧力をかけた。それでも動かなければ——動いた』
(今はどの段階だ?)
『情報収集の段階だ。まだ使者は来ていない』
ナナは文書を懐に入れた。
食堂にグリムとリーゼがいた。ナナが入ると2人が顔を上げた。
「バロウからだ。純魔族2人が私たちの情報を買いに来た」
グリムが少し目を細めた。
「第一魔王か」
「おそらく」
リーゼが腕を組んだ。
「どう動く?」
「今は動きません」
「理由は?」
「3つあります」
ナナは椅子に座った。
「1つ目、戦力が足りない。第一魔王の本軍と正面からぶつかれる状態ではない。2つ目、第六魔王がまだ動いていない。南の脅威が残っている状態で北東に力を割けない。3つ目、ルゼ=アヴァロンはまだ使者を送っていない。情報収集の段階で動けば、こちらが先に仕掛けたことになる」
「向こうが動く前に動くのは悪手、ということか」
「はい。ただ準備はします」
「何を準備する?」
「情報収集の継続。イグレアの防衛強化。グラ=ベイルへの通知。この3つです」
リーゼが少し間を置いた。
「グラ=ベイルへの通知は早くないか? まだ第一魔王が動いたわけじゃない」
「同盟の条件に『相手の領域に影響が出る行動は事前に知らせる』とあります。第一魔王が北東の山道を使っているなら、グラ=ベイルの領域にも関係します。通知する義務があります」
リーゼが少し頷いた。
「……筋が通っている」
「同盟は使い続けなければ意味がありません。通知することで信用が積まれます」
グリムが静かに言った。
「100年前、前魔王はどう対処した?」
ナナはヴァルに問いかけた。
(ヴァル。グリムに話せることがあるか?)
ヴァルが少し間を置いた。
『……我は対処できなかった。情報収集の段階でルゼの意図を読めなかった。使者が来た時には、すでに包囲の準備が始まっていた』
「前魔王は読み違えた、と言っています。使者が来た時には包囲が始まっていた」
グリムが黙った。
「だから今回は、使者が来る前に準備します。ただ先に動かない」
「難しい判断だな」
「難しいです」
ナナは立ち上がった。
「フェンリルへの文書を今日中に出します。グリム、レンを借りていいですか?」
「ああ」
「リーゼ、南の斥候を1人増やしてください。第六魔王の動きがあれば即時報告を」
「分かった」
2人が動いた。
昼過ぎ、ナナは文書を書き終えた。
食堂を出ると、廊下の先から音がした。物置として使っていた部屋だった。扉が開いていた。
中を覗いた。
オズが壁の亀裂を確認していた。ミラが横で漆喰を練っていた。2人で何か話しながら作業をしていた。
「何をしていますか?」
オズが振り返った。
「亀裂の補修です。雨が入ると床が傷みますので」
「ミラも?」
ミラが顔を上げた。手が白くなっていた。
「漆喰を練るだけならできます。重くないので」
「……そうですか」
オズが亀裂に指を入れ、深さを確認した。
「この部屋、後で書類の保管に使いたいんです。今は外に置いているものがあって——雨が来る前に直しておきたくて」
「分かりました。無理しないでください」
「してないです」
ミラが少し笑った。
「ナナ、心配性ですね」
「そうですか?」
「はい。私たちは後方にいます。安全です」
ナナは少し間を置いた。
「……そうですね」
オズが壁に漆喰を塗り始めた。ミラが追加分を練った。
ナナは廊下に戻った。
(後方は安全だ。前線にいる者が全員を守っている。今の体制はそういう形だ)
ヴァルは何も言わなかった。ナナはレンを探しに行った。
夕方、フェンリルへの文書をレンに持たせた。
レンが出発する前に、ナナは言った。
「気をつけてください」
レンが少し間を置いた。
「……分かった」
それだけだった。レンが門を出た。
夜になった。ナナは自室で前の情報紙を広げた。
北東の山道。第一魔王配下の偵察隊。もう1つの正体不明の部隊。
(2正面になる可能性がある。北東と南——同時に来た場合、どちらを優先するか)
ヴァルが言った。
『……南だ。南の部隊の方が統率が粗い。統率の粗い軍は速く動く。北東は慎重だ。慎重な軍は時間をかける』
(南を先に叩く、ということか)
『……そうだ。その間、イグレアを守れる者を残せ』
(残す。オズとミラは後方にいる。安全だ)
ヴァルは黙った。ナナは紙を折り、灯りを消した。
報告が来たのは朝だった。
ジョンが息を切らして食堂に入った。
「南に部隊が来ています。黒地に赤い竜の旗——第六魔王の軍です。60人前後。イグレアから2時間の距離」
「北東は?」
「昨日から動きがあります。第一魔王の偵察隊——20人前後。山道を下りてきています」
ナナは少し間を置いた。
(来た。2正面だ)
「全員を食堂に集めてください」
10分後、全員が揃った。ナナは地面に図を描いた。
「状況を説明します。南に第六魔王の軍60人。北東に第一魔王の偵察隊20人。同時に動いています」
「挟み撃ちか」
ダリオが言った。
「そう見えます。ただ2つの軍に連携がある可能性は低い。第一魔王と第六魔王は思想が違いすぎる。それぞれが独自に動いている可能性が高い」
「どう対処する?」
「南を先に叩きます」
グリムが少し眉を動かした。
「北東は?」
「第一魔王の偵察隊は慎重です。山道を下りてきていますが、まだ様子見の段階です。南の第六魔王軍は統率が粗い。先に動きます」
「北東が来た時、誰が対処する?」
「リーゼに10人残してもらいます。イグレアの城壁を使えば20人相手でも守れます」
リーゼが頷いた。
「分かった」
「南には私が行きます。グリム・ダリオ・レン・エリスとハルク・ベイン・クロ・ガッツ・エル。9人で動きます」
「転移で行くか?」
「はい。南の平地で迎撃します。イグレアまで引き込まない」
グリムが頷いた。
「出発はいつだ?」
「今すぐです」
全員が動いた。
オズが出入口に立っていた。ナナを見た。
「行ってらっしゃい」
「留守を頼みます」
「任せてください」
ナナは頷いた。
ミラが医療鞄を抱えて立っていた。
「怪我人が出たら、すぐ連絡してください」
「分かりました」
ナナはミラを見た。
「後方にいてください」
「分かっています」
ミラが少し笑った。「気をつけて」
ナナは出た。
南の平地に転移した。
第六魔王軍が見えた。赤い竜の旗が複数立っていた。歩兵が前列に並んでいたが、統率は粗かった。列が揃っていなかった。将校の声が大きすぎた。焦りがあった。
(読み通りだ)
グリムが隣に立った。
「どうする?」
「左翼から崩します。レンとジョンが音を作ってください。右に引きつける。その間にグリムとダリオが左から入る。エリスが退路を」
「了解」
作戦通りに動いた。
レンとジョンの矢が右翼に集中した。第六魔王軍の右が動いた。左が薄くなった。
グリムとダリオが入った。魔王契約の強化が働き、グリムの速度が上がった。大剣が2人を同時に払った。左翼が崩れた。
エリスの炎の壁が退路を塞いだ。前列が動揺した。将校が怒鳴った。統率が崩れた。
ナナが転移で前に出た。魔法を構えた。
「退いてください」
静かな声だった。
第六魔王軍の将校がナナを見た。10歳の少女が前に立っていた。黒い霧が指先に集まっていた。
「……なんだ、お前は」
「黒い翼のナナです。退いてください。もう一度言いません」
将校が少し間を置いた。ナナは魔法を解放しなかった。ただ、集めたまま待った。
将校が後退の号令を出した。部隊が下がった。
グリムが横に来た。
「……追うか?」
「追いません。目的は撃退です。追えば被害が出ます」
「分かった」
グリムが大剣を下げた。全員の状態を確認した。軽い擦り傷が数人。深刻な怪我はなかった。
(北東の状況を確認する)
ナナはイグレアに転移した。
城門が開いていた。
おかしかった。リーゼが指示を出した時、城門は閉めるはずだった。
ナナは走った。中庭に入った。石畳に血があった。
物置部屋の扉が開いていた。中に入った。
オズが壁際に座り、左腕を押さえていた。顔が青かった。ミラが床に横たわっていた。リシュアが隣に膝をついていた。
ナナはミラの傍に行き、膝をついた。
「ミラ」
ミラの目が開いていた。ナナを見た。
「……ナナ」
「ここにいます」
「……転移で入ってきました。2人。私とオズしかいなくて——」
「分かりました」
「オズを庇ったら——」
「分かりました」
間があった。ミラの息が浅かった。
「……返せま……したか」
ナナは少し間を置いた。
「……返してもらいました」
ミラが少し目を細めた。それから、静かになった。
リシュアが立ち上がった。何も言わなかった。オズが壁際で頭を下げていた。肩が動いていた。
ナナは立ち上がった。
リーゼが扉から入ってきた。状況を見た。顔が変わった。
「北東の偵察隊は?」
ナナが聞いた。声は変わらなかった。
「撃退しました。城壁で2人が軽傷です」
「分かりました。怪我人の処置を」
「……ナナ」
「処置を頼みます」
リーゼが少し間を置いてから、頷いた。
ナナは外に出た。
グリムたちが城門から入ってきた。グリムがナナの顔を見た。それから物置部屋の方を見た。何も聞かなかった。
ナナは中庭の端に立ち、南の空を見た。雲が流れていた。
戦術的には勝利だった。南軍は退いた。北東の偵察隊は撃退された。イグレアは守られた。
ナナは、夜になるまで、何も言わなかった。
夜、ナナは自室にいた。灯りをつけなかった。
ヴァルが静かに言った。
『……お前のせいではない』
ナナは答えなかった。
『判断は正しかった。南を先に叩く、その選択は間違っていなかった』
ナナは答えなかった。
(分かっている)
『……』
(分かっている。だから、余計に)
ヴァルは黙った。
ナナは膝を抱えた。暗い部屋の中で、ミラの最後の言葉が繰り返された。
(……返せましたか)
ナナは答えを変えなかった。返してもらった。それは本当のことだったから。
(もっと早く言えばよかった)
夜が深くなった。




