第34話:第二魔王の使者・フェンリルと暗殺者リシュア
ラドン村で一夜を明かした。
老人が食事を出した。質素だったが温かかった。村の者が何人か来て、グリムに頭を下げた。グリムは短く頷いた。それだけだった。
翌朝、イグレアへ戻った。
戻って3日後の朝、ジョンが走ってきた。
「南の街道に使者が来ています」
「旗は?」
「黒地に金の牙の紋章です。第六魔王ではありません」
ナナは少し間を置いた。
(黒地に金の牙。第二魔王グラ=ベイルの紋章だ)
「単独ですか?」
「1人です。馬に乗っています」
「武装は?」
「剣を帯びています。鎧は軽装です」
「分かりました。南門で迎えます。グリムを呼んでください」
ジョンが走った。
南門の外で待った。
馬が近づいてきた。
乗っていたのは若い獣人だった。狼の特徴を持っていた。灰色の毛並み。耳が頭頂部に立っていた。目が鋭かった。敵意はなかった。体格は人族の成人男性より一回り大きかった。
馬を止め、降りた。動きが無駄になかった。
ナナを見た。少し間があった。
「——第七魔王か?」
「そうです」
「小さいな」
「よく言われます」
獣人が少し口角を上げた。
「俺はフェンリル。第二魔王グラ=ベイルの使者だ」
「ナナです。話を聞きます」
「立ち話でいいか?」
「構いません」
フェンリルが周囲を見た。城壁の修復を見た。グリムを見た。南門の内側を見た。
「……整えているな」
「途中です」
「その割に、南の街道に先遣隊を返した話を聞いた。第六魔王の将校ガルドを」
「情報が早いですね」
「魔王同士の動きは、互いに見ている」
(そうか。フェンリルが来たのはガルドが来た後だ。偶然ではない)
「用件を聞きます」
「同盟の打診だ」
ナナは黙って続きを待った。
「我が主グラ=ベイルは、第六魔王カオス=ベルゼの動きを警戒している。あれは話が通じない。いずれ全方位に牙を向ける。第七魔王の領域にも、我らの領域にも」
「それは把握しています」
「ならば話が早い。互いの領域を侵さない。第六魔王への対処を協議する。それだけの同盟だ」
ナナは少し間を置いた。
(シンプルな提案だ。ただ軍事国家との同盟は、使い方を誤れば従属になる)
「条件を確認します。互いの領域不可侵と第六魔王への対処協議——それだけですか?」
「それだけだ」
「文書にできますか?」
フェンリルが少し目を細めた。
「……文書を求めるか」
「口約束では拘束力がありません」
「俺たちの約束は牙に誓う。それで十分だ」
「あなたの誓いは信用します。ただ誓いを交わした当事者がいなくなった場合、文書がなければ後の者が従う理由がない」
フェンリルが少し黙った。
「……先を考えているな」
「同盟は長く続くものでなければ意味がありません」
「俺の一存では決められない。主に持ち帰る」
「分かりました」
「主が直接会いたいと言った場合、謁見を受けるか?」
ナナは少し間を置いた。
(直接謁見。軍事国家の拠点に出向くことになる。リスクはある)
「受けます。ただ条件があります」
「聞こう」
「同行者を5人連れます。武装したまま謁見します。謁見の場所と日時を事前に文書で知らせてください。こちらも文書で返答します」
フェンリルが少し間を置いた。
「……5人か」
「多すぎますか?」
「いや。主は気にしないと思う」
「それと——」
「まだあるか?」
「謁見の前に、こちらの立場を明確にしたい。調停者として行きます。従属するために行くのではありません」
フェンリルがナナを見た。しばらく見ていた。
「……ガルドが報告していた。第七魔王は調停者だと。動じないと」
「はい」
フェンリルが少し口を開いた。何か言いかけた。止めた。
「持ち帰る。返答は3日以内に来る」
「待ちます」
フェンリルが馬に乗った。南の街道を戻り始めた。
10歩ほど行って、振り返った。
「1つだけ聞いていいか?」
「どうぞ」
「怖くないか? 軍事国家の拠点に出向くのが」
ナナは少し間を置いた。
「怖いです」
フェンリルが少し目を細めた。
「正直だな」
「嘘をついても意味がありません」
「怖いと言いながら——受けると言った」
「必要だからです」
フェンリルが少し間を置いた。
「……なるほど」
それだけ言って、馬を走らせた。南の街道を遠ざかっていった。
グリムが隣に来た。
「行くのか? 本当に」
「行きます」
「同行者の5人は?」
「グリム、リーゼ、ダリオ、レン、エリスです」
「俺が入っているな」
「当然です」
グリムが少し間を置いた。
「……エリスは魔王契約をしていない」
「魔法が使えます。必要です」
「リスクは?」
「あります。ただ、行かなければ同盟はない。同盟がなければ、第六魔王が来た時に孤立します」
「そういう計算か」
「はい」
グリムが南の方角を見た。フェンリルの姿はもうなかった。
「……ガルドが来て、次はグラ=ベイルの使者が来た。お前のことが広まっている」
「そうですね」
「それが——怖くないか?」
「怖いです」
グリムが少し間を置いた。
「お前はいつも正直だな」
「あなたも聞くのが上手い」
グリムが短く笑った。
ナナはイグレアを見た。城壁の足場でダリオたちが動いていた。オズが南門の近くで帳簿を開いていた。ジャックが何か食べながら壁にもたれていた。
(広まっている。想定より早いが、想定内だ)
ヴァルが静かに言った。
『……グラ=ベイルは我の時代にも動きが速かった。相手の出方を見て、すぐ行動する』
(どういう性格だ?)
『戦士だ。話が通じる。条件が合えば約束を守る』
(それは助かる)
『ただ、条件が合わなければ容赦しない。そこは忘れるな』
(分かっている)
ヴァルは黙った。
ナナは南の空を見た。雲が流れていた。
3日後、返答が来る。その前に、準備が必要だった。
3日目の夜だった。
フェンリルの返答はまだ来ていなかった。イグレアは静かだった。夜番はジャックとレンが交互に回していた。
ナナは寝室にいた。目を閉じていた。眠れていなかった。
(準備が足りない。謁見に向けて文書をまとめなければならない。フェンリルが戻った場合の想定を——)
気配があった。
ほとんど音がしなかった。ただ——空気が動いた。窓の方から。外から入ってきた者がいた。
(侵入者だ)
ナナは目を開けなかった。呼吸を変えなかった。
気配が近づいた。一歩ずつ、慎重に。床板を踏む位置を選んでいた。訓練された動きだった。
(あと2歩)
ナナは動いた。
布団を蹴り飛ばして横に転がった。右から刃が来た。床板に深く刺さった。聖銀の短剣だった。白く光っていた。
その瞬間、何かが変わった。
魔力が消えた。正確には——封じられた。体の中の魔力が、壁を張られたように動かなくなった。転移を試みた。できなかった。魔法を構えようとした。集まらなかった。
(聖銀か。魔王の力を無効化する)
相手が短剣を引き抜いた。
ナナは初めて相手を見た。
人族の女だった。年齢は20代半ばほど。黒い服。髪が短く、目が細く鋭かった。感情が見えなかった。短剣を構え直した。迷いがなかった。
「——死ね」
静かだった。
2撃目が来た。ナナは右に半歩ずれた。刃が肩を掠めた。薄く切れた。痛みがあった。無視した。
相手の右手首を両手で掴んだ。前世で学んだ動きだった。関節を逆に取る。体重を使って相手の重心を崩す。身体の大きさは関係ない。
女が短剣を手放した。床に落ちた。
ナナは女を壁に押し込んだ。右腕を背中に回した。女が動こうとした。さらに押した。動けなくなった。
「——動かないでください」
女が止まった。
外で足音がした。
「ナナ?」
ドアの外からジャックの声がした。
「入らないでください。少し待ってください」
「……分かった」
ナナは女を見た。女はまだ抵抗しようとしていたが、体勢が取れなかった。
「名前を聞かせてください」
女が黙った。
「名前だけでいいです」
少し間があった。
「……リシュア」
低い声だった。
「リシュア。誰に頼まれましたか?」
リシュアが黙った。
「答えなくていいです」
ナナはリシュアの左手首を見た。腕輪があった。金属製だった。装飾はなかった。嵌め込まれているというより——締め付けられているように見えた。皮膚が少し変色していた。長期間、外れていない証拠だった。
(これは——)
ヴァルが静かに言った。
『……魔法的な封印だ。術者がいる。術者以外が外そうとすれば、罰則が発動する仕組みだ』
(強制か)
『……おそらく、な』
ナナはリシュアを解放した。
リシュアが振り返った。目が少し変わった。
「なぜ離す」
「短剣を拾わなければ、危険はありません」
「……なぜ殺さない」
「必要がないからです」
リシュアが少し間を置いた。
「私はお前を殺しに来た」
「失敗しました」
「……なぜ笑う」
「笑っていません」
ナナはリシュアの左手首を見た。
「その腕輪、自分でつけましたか?」
リシュアの顔が、一瞬変わった。
「関係ない」
「関係あります」
「お前には関係ない」
「私を殺そうとした者が関係ない、とは言えません」
リシュアが黙った。
外でグリムの足音がした。ドアが少し開いた。
「ナナ——」
「グリム。中に入っていいです」
グリムが入った。リシュアを見た。床の短剣を見た。ナナの肩の傷を見た。
「……何があった」
「暗殺者です。話を聞きたい。縛って食堂に連れて行ってください」
グリムがリシュアを見た。リシュアはグリムを見た。逃げる様子はなかった。
「抵抗するか?」
リシュアが少し間を置いた。
「……しない」
「約束か?」
「負けたのだから、従う」
グリムが少し目を細めた。
「……変わった奴だな」
リシュアは何も言わなかった。グリムがリシュアの腕を取った。
ナナは床の短剣を見た。拾わなかった。聖銀の短剣は、術者が触れれば魔力が戻る。それまでは置いておいた方がいい。
(腕輪の話は——明日だ)
肩の傷が痛んだ。薄かった。血が出ていた。ナナは布を手に取り、自分で押さえた。
廊下でジャックが待っていた。ナナの肩を見て、少し顔が変わった。何か言いかけた。
「大丈夫です。ミラを起こさなくていいです」
「……本当に?」
「明日、見てもらいます」
ジャックが少し間を置いた。
「……了解」
ナナは食堂へ向かった。夜が深かった。




