第27話 精霊契約
森の内側は、外とは別の空気だった。
木々が高く、葉が光を遮っている。昼間でも薄暗かったが、暗さは不快ではなかった。静かで、深かった。遠くで鳥が鳴いた。
リーファが案内した場所は、大きな木の根元に囲まれた窪地だった。風がなかった。地面が平らだった。野営には十分だった。
「ここを使っていい。精霊が近くにいるから、怪物は入ってこない」
「ありがとうございます」
全員が荷を下ろした。オズが食事の準備を始めた。ミラがタロの傷を再確認した。
エリスがリーファの隣に座った。
「森の中って、こんな感じなんだ」
「普通の森と違う?」
「全然違う。空気が——濃い気がする」
「精霊がいるから。あなたにも感じられるんだ」
「魔法使いだから、かな」
リーファが少し頷いた。
「感じられる人間は少ない。あなたは素直な魔力を持っている」
「素直?」
「歪んでいない、ということ。扱いやすい魔力だと思う」
エリスが少し照れた顔をした。
「ありがとう。褒められてるよね?」
「褒めている」
ナナはその会話を聞きながら、翌日の段取りを考えていた。
(残りの群れは南縁の西側に散った。明朝、班を2つに分けて同時に当たる)
グリムが隣に来た。
「明日の段取りを考えているか?」
「はい」
「そうだと思った」
グリムが火を見た。しばらく黙っていた。
「リーファは、どういう存在なんだ?」
「精霊族の戦士です。精霊隊長と聞いています」
「族長ではないのか?」
「族長は別にいます。今は魔王のそばを離れられないそうです」
グリムが少し間を置いた。
「魔王が瀕死で、族長が動けない。だからリーファが来た」
「そうです」
「リーファは若いのか?」
「精霊族の年齢は分かりません。見た目では若く見えますが」
グリムが頷いた。炎が揺れた。
「……責任が重い立場だな」
「そうですね」
その夜、リーファはほとんど眠らなかった。
ナナが目を覚ました時、リーファは木の根元に座ったまま目を閉じていた。眠っているのではなかった。何かに耳を澄ませていた。
(精霊と話しているのかもしれない)
ナナはそのまま目を閉じた。
翌朝、残りの群れを片付けた。
班を2つに分けた。グリム班が西、リーゼ班が東から当たった。ジャックとジョンが2つの班の間を往復して位置を報告した。リーファの風で群れを2方向に分けた。
昨日より動きが整っていた。
グリム班が先に接触した。ヴァルグが7頭。グリムが正面を引きつけ、カイルとサルが時間差で入った。ジャックが後ろから1頭の動きを止めた。昨日より連携が速かった。
東ではリーゼ班がオーガ2頭に当たっていた。ダリオが側面から槍を入れた。ハルクが押し、ベインが盾で崩した。リーゼが仕留めた。4人の動きが一つに見えた。
逃げた群れをレンとジョンが追った。弓が2本走った。外れがなかった。
最後の1頭を、レンが静かに射た。
南縁の草地が静かになった。
「終わりました」
ナナが全員に言った。
誰かが息を吐いた。ジャックが地面に座った。
「疲れた。でも——昨日より楽だった気がする」
「慣れてきました」
「慣れるもんなんだな、こういうのも」
「慣れます。それが訓練の意味です」
ダリオが剣を拭きながら短く言った。
「動きが揃ってきた」
満足そうだった。
ミラが動いていた。打ち身が数人。深刻な怪我はなかった。
リーファが草地を見ていた。
静かに立っていた。少し時間が経ってから、ナナのところに来た。
「終わった」
「はい」
「本当に——終わった」
リーファの声が少し変わった。
「3週間、この光景を見ていた。どんどん増えていって、止められなくて——」
リーファが口を閉じた。視線が草地の先に向いていた。
「……ありがとう、ナナ」
ナナは少し間を置いた。
「終わりましたから、言ってくださって結構です」
「うん。ありがとう」
リーファが深く頭を下げた。
エリスが横で見ていた。グリムも見ていた。
昼になった。
全員が草地で休んでいた。オズが昼食の準備をしていた。
リーファがナナに言った。
「少し時間をもらえる?」
「はい」
「2人で話したい」
ナナはグリムを見た。グリムが頷いた。
リーファとナナは草地の端、川の近くに行った。水が澄んでいた。流れが緩やかだった。
リーファが川を見ながら言った。
「あなたに頼みたいことがある」
「なんですか?」
「精霊契約を結んでほしい」
ナナは少し間を置いた。
「精霊契約とは何ですか?」
「精霊族と、他の種族が結ぶ誓約。精霊族の力を借りる代わりに、精霊族の守るものを守ると誓う」
「守るものとは?」
「この森。ここに生きているもの全部。精霊も、木も、川も、獣も」
「それを守ると誓うんですか?」
「守れる範囲でいい。でも——誓いを破った場合、精霊の力は消える。それだけじゃなく」
リーファが川から目を離した。
「誓いを破った者は、精霊族全員の敵になる」
ナナは黙って聞いた。
「重い契約だ、と思っているでしょ」
「はい」
「でも——あなたなら守れると思った」
「なぜですか?」
「昨日見ていた。あなたは、殺す必要がないものは殺さなかった。逃げた怪物を追わなかった。それは精霊族の考え方に近い」
ナナは少し間を置いた。
(殺す必要がないものは殺さない。それは前世から変わらない自分の判断基準だ)
「もう1つ聞いていいですか?」
「何?」
「精霊族はなぜ私に頼むんですか? 他の傭兵団でも助けを求められたはずです」
リーファがナナを見た。
「他には頼まなかった。黒い翼だけに頼んだ」
「なぜ?」
「噂を聞いていた。グレンフォードで活動している傭兵団で、団長が子供だという。それだけなら頼まなかった。でも——」
「でも?」
「黒森峠のゴルドーが言っていた。嬢ちゃんの目が気に入った、と」
ナナは少し間を置いた。
「ゴルドーから?」
「ゴルドーは100年以上あの峠を守っている。その人間が認めた団長なら信用できると思った」
(ゴルドーが、そういうことを言っていたのか)
前魔王が静かに言った。
『……ゴルドーか。あの男は昔から目利きだった』
(知っているのか?)
『100年前から峠を守っていると言っていたろう。我も知っている』
(そうか)
「分かりました」
ナナはリーファを見た。
「契約します」
リーファが少し目を丸くした。
「……即答するんだ」
「迷う理由がありません。この森を守ることは、私が目指すものと矛盾しません」
「目指すもの?」
「ここに生きているもの全部が、安心して生きられる場所を作ること。それが私の目標です」
リーファがしばらくナナを見ていた。
川の音だけがあった。
「ヴァルに似ている」
(前魔王の名前を知っているのか)
「知っているんですか? ヴァルのことを」
「精霊族は記憶が長い。ヴァルは100年前、同じことを言っていたと伝わっている」
前魔王が言った。
『……そうか。精霊族は覚えていたか』
(同じことを言っていたのか)
『似たようなことは言った。ただお前ほど明確ではなかった。我はまだ、言葉にできていなかった』
ナナは少し間を置いた。
(ヴァルというのが、お前の名前か?)
『……そうだ。我の名だ』
(今までなぜ教えなかったのか?)
『必要がないと思っていた。ただ——お前に呼ばれるなら、悪くない』
ナナはそれを心の中に留めた。
「契約の形式を教えてください」
リーファが頷いた。
「精霊の言葉で問う。あなたが答える。それだけ」
「分かりました」
リーファが目を閉じた。
風が止まった。
川の音だけが残った。
リーファが目を開けた。目の色が少し変わっていた。深い緑色だった。精霊の言葉が混じった声で言った。
「問う。あなたはこの森に生きるものを、力の及ぶ限り守ると誓いますか」
「誓います」
「問う。あなたはその誓いを、自分の命が続く限り守り続けると誓いますか」
「誓います」
「問う。あなたはその誓いを破った場合、精霊族の裁きを受けると誓いますか」
ナナは少し間を置いた。
「誓います」
リーファの目の色が戻った。
風が再び動いた。
川の音に、別の音が混じった。葉が揺れた。木々の奥で何かが動く気配がした。
「精霊たちが聞いていた」
リーファが言った。
「これで契約は成立した」
ナナは川を見た。水が流れていた。止まらなかった。
(誓った。この森に生きるものを守ると。命が続く限り)
ヴァルが静かに言った。
『……我も同じ誓いを立てた。100年前、この森の精霊たちの前で』
(知らなかった)
『言っていなかった。ただ——我は誓いを果たせなかった。守ろうとして、滅んだ』
(滅んでも、守ろうとしたことは変わらない)
『……そうかもしれない。お前には、滅ばずに守り続けてほしい』
(分かっている)
ナナは川から目を離した。
誓いは軽くなかった。それは分かっていた。この先、この誓いが重荷になる場面が来るかもしれない。それでも——
(今、誓うべきことだった)
「何か変わりますか?」
「この森の中では精霊があなたを守る。森の外でも、精霊の気配があるところでは助けが来ることがある」
「ありがとうございます」
「お礼はこっちの台詞だよ」
リーファが少し笑った。ナナも少し笑った。
2人で草地に戻った。
グリムが待っていた。
「終わったか?」
「はい。精霊契約を結びました」
グリムが少し目を細めた。
「……また契約か」
「必要なものは結びます」
「そうだな」
グリムが川の方を見た。
「リーファ」
「何?」
「この森を守ろうとしているんだな。1人で、ずっと」
リーファが少し間を置いた。
「1人じゃなかった。エルドランがいた。魔王がいた。でも——今は」
「今は1人だった」
「……うん」
グリムが頷いた。
「これからは1人じゃない。そういう契約だろう」
リーファがグリムを見た。少し意外そうな顔をした。
「副団長なのに、優しいんだね」
「副団長だから言える」
「どういう意味?」
「団長は優しいことをいちいち言わない。俺が代わりに言う。それだけだ」
エリスが横で聞いていた。
「それ、すごくいい関係だと思う」
グリムが短く笑った。
ナナは少し間を置いた。
(そうかもしれない)
ヴァルが言った。
『……お前には、言ってくれる者がいるな』
(そうだ)
『我にはいなかった。最後まで』
(分かっている)
『……悪くない。本当に悪くない』
ヴァルはそれきり黙った。
草地に風が吹いた。葉が揺れた。




