第104話 守護者の決意
朝の空気が冷たかった。
ナナは夜明けとほぼ同時に城壁に上がっていた。眠れなかったわけではない。目が覚めて、そのまま上がった。特に理由はなかった。
東を見た。
宗教国家の陣地がある方角だった。夜のうちに焚き火が消えて、今は灰色の地平だけがある。空が明るくなるにつれて、遠くの輪郭が少しずつ出てきた。前哨の天幕が見えた。旗が1本立っている。風に揺れていた。
昨日レンが持ってきたスケッチが頭の中にまだあった。砲の形。小さく、数が多い。どこにでも運べる形。
それを動かしてくる日が近い。
補給が終わった。改良型の砲がある。前の4日間で失った兵の代わりも補充しているはずだ。次に来る時は、今より整った形で来る。
(次が来る前に、こちらも整える)
エリスが「やってみる」と言った。ドーガが「エリスと話しておく」と言った。グリムが「次は戦いで決める」と言った。それぞれが自分の場所で考えている。
ナナがここで何を考えるか、だった。
足音が聞こえた。
城壁の階段を上がってくる音だった。軽い。革靴ではなく、魔法使いが履く薄い底の靴の音だった。
エリスが城壁に出てきた。ナナを見て、少し目を細めた。
「いつからいるの?」
「夜明け前から」
「眠れなかった?」
「眠れました。目が覚めました」
エリスがナナの隣に並んだ。東を見た。それから北を見た。また東に視線を戻した。
「聞いていい?」
「はい」
エリスがすぐには続けなかった。風が来た。エリスの金色の髪が流れた。
「調停者として立てなかったことを、後悔してる?」
ナナは城壁の縁に置いた手を、そのままにしていた。石が冷たかった。
「後悔はしていません。試みました。通じませんでした。それだけです」
エリスが少し間を置いた。
「じゃあ、これから何として戦うの?」
ナナは東を見た。
地平の向こうに、宗教国家の軍が来ている方角がある。今は見えない。補給を終えて、準備して、こちらを見ているはずだ。
「守護者として戦います」
エリスがナナの横顔を見た。ナナは東を向いたままだった。
「調停者とどう違うの?」
「調停者は間に立ちます。守護者は守るものの前に立ちます」
エリスが少し考えるように黙った。城壁の下で、早起きの誰かが動いている音がした。水を汲む音かもしれなかった。
「……それ、最初からそうだったんじゃないの?」
ナナは東から視線を外した。エリスを見た。
エリスが真剣な顔をしていた。糾弾しているわけではなかった。純粋に、そう思って聞いていた。
ナナは少し笑った。
「そうかもしれません」
エリスが「もう」と言って、前を向いた。責めているわけではない口調だった。どこか安堵したような、それでいて少し呆れたような、エリスらしい反応だった。
エリスが隣に立った。2人で東を見た。
宗教国家の旗が風に揺れていた。
遠くからでも、その存在は分かる。旗が揺れている場所に、人がいる。命令があって、動いている人間がいる。その向こうに、命令を出している者がいる。
ナナは「守護者」という言葉を声に出して初めて使った。
調停者として立とうとした。使者を2度出した。2度とも跳ね返された。跳ね返されて初めて、自分が何として立つかを改めて考えた。
(調停者として立てなかったことは、確かだ。後悔はない。試みたから)
試みなければ後悔が残っただろう。試みたから、前に進める。
守護者は守るものの前に立つ。
それはナナが最初からやっていたことだった。言葉にしていなかっただけで、基本は変わらない。廃墟だったイグレアに来た者を受け入れた。宗教国家の使者に応答した。4日間の戦闘で城壁を守った。ずっと、守るものの前に立っていた。
ただ、言葉が決まった。
「守護者」として戦う。
固まった、という言い方は正確ではないかもしれない。もともとそこにあったものに、名前がついたことで、輪郭がはっきりした。
「ねえ」とエリスが言った。
「はい」
「私も守護者?」
ナナは少し考えた。
「エリスはどう思いますか?」
「私はあなたの魔法隊長だから」とエリスが言った。「あなたが守護者として戦うなら、私もそうなると思う。ただ、自分で決めたい」
「では自分で決めてください」
「決めた」
「早いですね」
「最初から決まってたから」
エリスが前を向いたまま言った。声に笑いが混じっていた。ナナも少し笑った。
城壁の下が動き始めていた。
イグレアの朝が始まっている。訓練場でグリムの声が聞こえた。早朝の訓練を始めている。農地の方角から、鍬が土を打つ音がした。ターニが早い。いつも夜明けには農地に出ている。ガリンが城壁の西側で誰かに指示を出していた。補修の続きを始めているのだろう。
(みんなが動いている)
ナナが守護者として前に立つ。その後ろに、守るべき人たちがいる。前に立つ、ということはそういうことだ。後ろを守るために、前に出る。
調停者は間に立った。
守護者は前に立つ。
同じ「立つ」でも、向いている方向が違う。
エリスが伸びをした。城壁の縁に手をかけて、体を前に傾けた。下の中庭を覗き込んでから、また戻った。
「朝ごはんにする。来る?」
「後で行きます」
「分かった」
エリスが城壁から戻り始めた。階段を下りていく足音が聞こえた。半分くらい下りたところで、声が上がってきた。
「ナナ」
「はい」
「守護者、似合ってると思う」
返事をする前に、足音が続いた。そのまま下りていった。
ナナは東を向いたままだった。
似合っているかどうかは分からない。ただ、これが今の自分の立場だ。
風が来た。今度は東から来た。冷たさの中に、どこか乾いた土の匂いがあった。宗教国家の軍が陣を張っている方角から来た風だった。
ナナは城壁の石から手を離した。
下に降りる前に、もう一度だけ東を見た。旗がまだ揺れていた。風は同じ方向から来ていた。
来るなら来い、と思ったわけではなかった。
ただ、ここに立っている。守るものの前に。それが守護者の場所だった。




