第101話 調停者として
宗教国家が補給を終えたという報告が来たのは、後退から10日後だった。
レンが朝の偵察から戻ってきた。地図を広げたまま何も言わなかった。ナナが地図を見た。前哨の位置に新しく印がついていた。20から、30に増えていた。
「本隊が動いている。東縁から押し出してきた。今日明日で前線を作る」
「砲は?」
「4門、確認した。荷台に載せて運んでいる。荷がまだある。数はもっと多い」
ナナは地図から目を離した。10日間で物資を集め直した。それだけの補給網がある。
(来る。それは分かっていた。どう受けるか)
その日の午後、ナナは文書を書いた。
使者はジョンに頼んだ。旗を持たせた。白い旗だった。
「宗教国家の前哨まで届けてください。返答があれば受け取ってきてください」
「内容を聞いてもいいですか?」
「戦いの前に話し合いたい。条件を持って来い、と書いています」
ジョンが頷いた。それで出ていった。
返答は翌日の夕方に来た。
文書ではなく、口頭だったという。ジョンが戻ってきて、少し表情を動かさないまま繰り返した。
「我らに条件はない。魔王は討伐するのみ、との言葉でした。紙は渡してもらえませんでした」
「分かりました。無事でよかったです」
ジョンが少し止まった。それから出ていった。
ナナは夕刻にファルクへ文書を書いた。ミラ港(元廃港)経由ではなく、フォルケンへ直接向かう使者を立てた。グレンフォードのベラを経由する早便だった。
廃港は亡きミラの名前をつけることにし、ミラ港となづけることにしていた。
ファルクへ、ヴェルナー公爵に話を通してほしいと書いた。宗教国家と交渉の場を設けることに公爵も賛同しているという形で、もう一度使者を送りたい。魔王の名前だけでは動かないかもしれない。人族の領主の名前が添えられれば、まだ可能性があるかもしれない。
書いてから、少し止まった。
(可能性がある、と思っているわけではない)
それでも2度目を試みることには意味がある。1度断られたから終わりにするのか、2度試みてから結論を出すのかは、違う。
封をして、使者に渡した。
フォルケンからの返答は3日かかった。
ファルクからではなく、ヴェルナー公爵直筆の文書が来た。短かった。
「公爵の名をお使いください。異論はありません。ただ、これは話が通じる相手ではありませんね、とだけ申し上げておきます」
ナナは文書を折り畳んだ。もう一度だけ広げて、最後の一文を読んだ。それから折り畳んだ。
ヴェルナー公爵は分かっていた。それでもナナに名前を借りさせた。
2度目の使者はジャックに頼んだ。
今度は文書を2通持たせた。1通はナナの署名。もう1通はヴェルナー公爵の署名入りの写しだった。
「話し合いの場を設けることができませんか?フォルケンの領主も賛同しています」
ジャックが出ていった。
返答は翌日の午前に来た。今度も口頭だった。ジャックが戻ってきて、表情を変えずに繰り返した。
「異端の人族は裁きを受けよ、との言葉でした。2通の文書は受け取ってもらえませんでした」
ナナは頷いた。「ご苦労様でした」
ジャックが出ていった。
部屋に1人になった。
窓の外から中庭の作業音が聞こえてきた。ガリンが城壁の補修指示を出している声だった。木材を運ぶ音がした。難民の子供が何かを叫んでいた。普段と変わらない音だった。
(調停者として立とうとした。2度試みた。無理だった)
判断の失敗ではない、試みることは正しかった。2度試みたことも正しかった。それでも無理だった。
(相手が話し合いを拒絶している時、調停者には何もできない)
調停者という称号は、ナナが望んで得たものではなかった。前魔王ヴァルが持っていたもので、ナナが引き継いだものだった。間に立って、双方の言葉を聞いて、均衡を作ることが調停者の役割だった。その役割を試みた。
通じなかった、ということは、調停者として機能しなかった、ということだ。
夜、グリムが来た。
戸を叩く音は1回だった。いつもと同じ音量で、短かった。
「どうぞ」とは言わなかった。ナナが立ち上がって戸を開けた。
グリムが立っていた。廊下が暗かった。グリムの顔が半分影になっていた。
「どうする?」
ナナは少し間を置いた。
廊下の奥で誰かが歩いている音がした。リーゼの声が遠くで聞こえた。夜の見回りをしている時間帯だった。
「戦います」
グリムが頷いた。
そこからグリムが動いた。廊下に背を向けて、壁に肩を預けた。立ったまま少し考えているような格好だった。
「使者を2度出したのか?」
「はい」
「それは聞いていなかった」
「報告が遅れました。すみません」
グリムが鼻から息を出した。怒っているわけではなかった。確認しているだけだった。
「2度試みて駄目だったなら、それは仕方ない」
「はい」
「次は戦いで決める」
「はい」
グリムが壁から体を離した。何も言わずに廊下を歩いていった。角を曲がって見えなくなった。
ナナは戸の前に立ったまま、その角の先を少し見ていた。訓練場に続いている方向だった。
翌朝、ミラ港から商人が来た。
テオといった。外海側から来る男で、40代で顔が日焼けしていた。来るたびに荷の量が増えている。
「食料は積んできた。小麦と乾燥魚が多め。あと、外海の知り合いから預かってきたものがある」
テオが木箱を開けた。中に瓶が並んでいた。
「薬です。調合済みのやつ。向こうの港街の元船医から。『あの街は常備薬が足りてないはずだ』と言って持たせてくれた」
「名前を聞いてもいいですか、その方の?」
「ハルドという。今は薬の商いをしている」
「覚えておきます。ありがとうございます。お礼の品を用意します」
「向こうは礼より次の取引を望んでいると思うよ」
テオが笑った。ナナも少し笑った。
オズが横に来て木箱の中身を確認し始めた。帳簿に書き込む音がした。「種類ごとに分けます」と小声で言ってから動き始めた。
テオが帰った後、ナナは中庭に出た。
ガリンが城壁の東側に人を集めて補強の追加作業を指揮していた。石を運んでいる者が3人いた。そのうちの1人は先月イグレアに来た難民で、元石工だという話だった。今はガリンの指示に従って動いていた。
(宗教国家が補給を終えた。次が来る)
来ることが分かっているということは、備える時間がある、ということだ。前の4日間でどこが足りなかったか、ガリンは全て把握している。エリスも、ドーガも、リシュアも、それぞれの場所で分かっている。
守るものがある。
帰る場所がある。
(それが変わらないうちは、まだいける)
中庭の向こうで、子供が走っていた。転んで、立って、また走った。老いた女が水桶を両手で持ってゆっくり歩いていた。誰かが何かを叫んで、誰かが笑った。
ナナはその場に立ったまま、少し目を細めた。
東から、風が来ていた。




