第100話 守り続けます
4日目の朝、砲声がなかった。
ナナは夜明け前から起きていた。前の3日と同じように音を待っていた。ただし音が来なかった。城壁の向こうが静かだった。
レンが様子を見に出た。1時間後に戻ってきた。
「後退している。昨夜のうちに動いたらしい。砲も含めて、本隊の方向へ引いている。斥候が補給の話をしているのが聞こえた」
ナナはそれを聞いて、少し間を置いた。
「規模は?」
「全体の後退だ。前哨だけ残している。本隊は引いた」
「前哨の数は?」
「20ほど。監視役だと思う」
ナナが頷いた。「引き続き見ていてください。前哨が動いたらすぐ知らせてください」
「分かった」とレンが出ていった。
グリムに伝えた。ドーガに伝えた。オズに伝えた。
それぞれが頷いて、それぞれの場所で動き始めた。グリムが部隊に休息を取らせた。ドーガが損耗の確認に入った。オズが物資の残量を集計した。ガリンが城壁の状態を一から確認した。
ナナは全員が動くのを確認してから、中庭に出た。
天幕がまだ張られていた。難民の者たちが朝の作業を始めていた。戦いの3日間、彼らは城内の奥に集められていた。今朝から元の場所に戻り始めていた。子供が走っていた。老いた男が水を運んでいた。いつもと変わらない朝の動きだった。
(今回は引いた。次が本番だ)
補給のために後退した、というのは本当だろう。4日間の攻防で砲を7門落とした。物資の消耗も相当なはずだ。補充して、戦術を立て直して、また来る。次に来る時は今回より大きく来る。
それまでの時間に、何を積み上げられるか。
午後、セインから文書が届いた。
廃港経由で来た。封の押し方が急いでいる様子だった。
「クレモアが宗教国家内部で勇者の残党に接触しているという情報がある。
接触の内容は不明。ただし複数の場所で確認されている。偶然ではない。セイン」
(クレモアが動き始めた。宗教国家を内側から崩そうとしている。崩した後に何を作るつもりだ?)
戦場でクレモアと対峙した時のことを思い出した。あの顔は宗教国家を見ていなかった。ナナを見ていた。何かを計算していた。
勇者の残党に接触している。勇者は宗教国家の戦力の核だ。その核に手を入れるということは——宗教国家の内側を変えようとしているということだ。外から宗教国家を崩すのではなく、内側から変える。クレモアらしい動き方だった。
崩した後に何を作るつもりなのか。クレモアの目的は「合理的な判断で世界を動かすこと」だった。宗教国家はその目的に合わない。だから内側から崩す。崩した先に何を置こうとしているのか。今はまだ見えない。
セインへの返信を書いた。「接触の内容を引き続き確認してください。勇者の動きに変化があれば優先して知らせてください」。
同じ日の夕方、フェンリルが南から戻ってきた。
「グラ様からだ。ルゼが北東の奥で再編成中とのこと。当分は動けない状態が続くと見ている。南の守りは固めているとのことだ」
「ありがとうございます。グラ=ベイルに伝えてください。こちらも今日、宗教国家が一時後退しました。次の動きを見ながら備えますと」
「伝える」とフェンリルが頷いた。
ルゼが再編成中。宗教国家が補給のために後退した。三つ巴の形は崩れていない。ルゼは当分動けない。宗教国家は補給が終われば戻ってくる。クレモアは内側で動いている。
三つ巴は終わっていなかった。形が変わっているだけだ。
夜になった。
オズが最終的な集計を持ってきた。4日間の消耗。物資の残量。負傷者の状況。廃港からの次の入荷の見込み。数字が並んでいた。破綻はしていなかった。余裕もなかった。
「廃港の商人、次は5日後に来ます。小麦と塩を優先してもらいました」
「ありがとうございます」
「負傷者3名、いずれも軽傷で回復中です。城壁の補強は今夜中にガリンが終わらせる予定です」
「分かりました。オズ、4日間ありがとうございます」
オズが少し間を置いた。「私は後方にいただけです」
「それが一番大事な仕事です」
オズが頷いた。それ以上は言わずに出ていった。
ナナは城壁に上がった。
空が晴れていた。星が出ていた。前の4日間は戦いの音があった。今夜は静かだった。
東を見た。
宗教国家の前哨の灯りが遠くに見えた。監視役の20名がいる場所だ。本隊はその向こうに引いている。クレモアもあの方角にいる。
北東を見た。
暗かった。ルゼがいる方角だ。見えるものは何もなかった。ただし、そこに何かがいることは分かっていた。
西を見た。
廃港の方角だった。今夜は船が来ていないはずだが、あの方角が一番明るかった。居住区の灯りが廃港の方角に向かって続いていた。
(廃港から物資が来ている。外海の仲間がいる。イグレアに人がいる)
東には宗教国家がいる。北東にはルゼがいる。西には物資があり、人がいる。
(守り続ける)
難しいことではなかった。複雑なことでもなかった。来る人を受け入れて、守り続ける。それが今もこれからも変わらないことだった。
足音が聞こえた。
城壁の階段を上がってくる音だった。革鎧の重さがある足音だった。グリムだと分かった。
グリムが城壁に出てきた。ナナの隣に立った。東を見た。北東を見た。西を見た。ナナと同じ順番だった。
しばらく2人とも何も言わなかった。
「終わらないな」
グリムの声は低かった。独り言のようでもあった。ナナに向けたのかどうか、最初は分からなかった。
「そうですね。まだ続きます」
グリムが少し間を置いた。
短く笑った。
声にはならなかった。ただし確かに笑った。口の端が動いて、肩が少し下がった。それだけだった。それで十分だった。
2人で西を見ていた。廃港の方角だった。
イグレアの灯りが、夜の中に広がっていた。1年前にはなかった灯りが、今はここにあった。
ナナは城壁の縁に手を置いた。石が冷たかった。
この石は変わらない。ただし、この石の向こうに積み上がったものは、1年前とは違う。人がいる。仕事がある。食べるものがある。守ろうとする者がいる。
次に来る時は今より大きな力か量で来るだろう。
それでも、ここは守る。
ナナは手を石の上に置いたまま、西の灯りを見続けた。グリムも動かなかった。2人とも、同じ場所に立っていた。




