最終話「想い、遙か」 20
美しい氷柱の一部が、飛び散った鮮血によって染めあげられる。ミナーシェからの強烈な一撃を受けたヴォリアンは、傷ついた脇腹を手で庇いながら崩れ落ちた。その唇からは、僅かなうめき声が洩れ出ている。どうやら、相当に苦しいようだ。ミナーシェはというと、後方へ素早く下がり、一定の距離を保った状態で敵の様子を注意深く観察していた。ルトレーの方は先ほどの攻撃で相当な疲労を覚えたのか、肩で呼吸しつつ因縁の相手を直視している。しかし、心なしかその表情は晴れやかなもののように思えた。
そして、敵部隊のリーダーと接戦を繰り広げていたフーレンスは、倒れた配下に視線をやると、顔つきを歪めた。
「くっ……!」
一方、ゼルリックは両手で構えている剣と視線を敵に向けたまま、冷静な口調で部下の名を呼ぶ。
「ミナーシェ」
「分かっています、隊長」
僅かに荒くなっている呼吸を整えながら、水色髪の青年もまた平静の調子を保ったまま応答した。
「急所は外しました。ですが、あの怪我では強力な魔術は容易に扱えないでしょう。戦闘力は奪った筈です」
「そうか」
ミナーシェの報告を聞くと、ゼルリックは相対しているかつての副官をその漆黒の瞳で力強く見据えたまま、低い語調で言葉を発する。
「諦めて降伏するんだ、フーレンス。既に、このアジトに潜んでいたお前の部下は殆ど無力化されている。極一部の者達はまだ反抗を続けているが、お前が投降すれば彼らも大人しくなるだろう。こちらとしては、無駄な血は流したくない」
「……そんな要求、私が呑むと本気で思っているんですか?」
相手の提案を、フーレンスは一笑に伏した。
「この日の準備に、私は人生の大半を費やしてきたんです。今更、計画を中断しろなどと言われても従えませんね。もう、貴方は私の上司ではない。命令を聞く必要なんてありませんから」
「お前なら、既に悟っている筈だ。手駒の大半を失った自分に勝ち目はないと」
「私はまだ負けていない!」
激昂するフーレンスの目は血走り、強く握りしめられた拳は震えていた。
「この計画こそが私の生きる全てだった! 私が長年抱き続けていた夢を! 生にしがみつくために手に入れた希望を! 誰にも邪魔はさせない! たとえ仲間だった貴方達が立ち塞がったとしても、私は最後まで戦い続ける!」
「……違う!」
考える前に、言葉が口から飛び出していた。突如放たれた叫びに、場がシンと静まり返る。ゼルリック、フーレンス、ミナーシェ、ルトレー。顔を俯けているヴォリアンを除く全ての者達の視線が、発言者であるワタシに注がれ、頬がかっと熱くなる。しかし、狼狽えはしなかった。緊張に物怖じするより、かつて同じ時間を過ごしてきた彼の心を救いたい気持ちの方が、遙かに勝っていた。
フーレンスはワタシのことを特別な存在に感じている筈だとか、そんな風に自惚れているつもりはない。彼にとって、ワタシは精霊アズレードを宿す器として、自身の計画を遂行する道具として利用する価値のあった女に過ぎないのかもしれない。エリュシールでずっと親切に接し続けてくれていたのは、その方がただ都合良かったというだけなのかもしれない。
――それでも、ワタシは……。
まさしく人々の手本となるような、礼儀正しい立ち振る舞い。いつも理知的で洞察力に優れ、不安や迷いを抱える者を見ればさりげなくアドバイスを送る。柔和な微笑みは見る者の心を安心させ、温厚な物腰は接した者に深い信頼を抱かせていた。そして、有事の際にはその高い指揮能力を遺憾なく発揮し、部下だけでなく自身も前線に赴いて任務に臨む。ミナーシェを始め、多くの隊員達から尊敬を集めていた副隊長としての姿。その全てが完全に偽りのものだったとは、どうしても思えなかった。
――ワタシは、彼を信じたい……!
感情の命じるまま、ワタシは必死の想いで彼に訴えかける。
「フーレンス、貴方が抱いていたのは、こんな暗くて悲しい夢なの? 違うでしょう? こんな辛くて苦しい方法を、貴方は本当に心の底から望んでいるの?」
「……先ほど申し上げた筈ですよ。私は決して私怨だけで動いていたわけでは」
「そういうことを言いたいわけじゃないの。怒りとか憎しみとか、そんな負の感情に突き動かされたんじゃなくて、貴方がこの国の行く末をちゃんと考えて今回の行動を起こしたんだって、そのことはワタシも信じてる……でも、幼い頃の貴方が夢見たのは、違う世界だったんじゃないかって思うの。貴方が抱いていた希望はもっと別の、温かで優しい未来だったんじゃないかって」
一瞬、言葉に詰まったものの、ワタシは意を決して目の前の彼に問いかける。
「貴方はきっと、家族みんなで幸せに暮らしたかっただけなのよ。貴方のお母さんと、貴方のお父さんと、そして貴方と、三人で」
彼の茶色い瞳が僅かに戸惑い揺れ動くのを、ワタシは確かに見た。
「貴方がずっと抱き続けていた感情は、自分達を捨てた父親への憤りでも、憎悪でもない。貴方は辛かったのよ。だから、貴方は母を捨てた父を恨み続けた。そうしないと自分が耐えられなかったから……けど、それでも一縷の望みをかけて、貴方はこの都にまで足を運んだ。もしかしたら、王は自分のことを受け入れてくれるかもしれないって」
「そんな……ことは……」
「でも、現実は違った」
弱々しい彼の反論を遮って、ワタシは胸の痛さを覚えつつも話を続けた。
「貴方のお父さんは城ですれ違う貴方を実の息子と気がつかなかった上、自分の入る余地のない新たな家庭を築き上げていた。それを悟った貴方は、更に傷ついてしまった。苦しくて、悲しくて、耐えられなくなって……それで、貴方は夢と希望を自ら離してしまったんだと思う。でも……ねえ、フーレンス。さっき貴方がワタシに言ってくれた事、覚えてる?」
突然の質問に、呆然としていた彼はすぐに返答出来ない様子だった。彼を気を落ち着けようと、笑いかけようと試みる。けれど、泣きそうに頬がひきつった笑顔しか、今のワタシには浮かべられなかった。
「貴方はこう言った。『貴女は必ず、私が無事に元の世界へ還します』って。それを貴方は自分の償いだって話してたけど」
彼の顔を真っ直ぐに見つめて、ワタシは言葉を紡いでいく。
「本当はワタシに自分のような辛い経験をしてほしくないから、貴方はあの約束をしてくれたんじゃないかなって、そう思うの。だって、家族を失い故郷を離れて生活する悲しみを、貴方は誰よりも理解しているだろうから。貴方は人の痛みを理解することの出来る、優しい人だから」
暫く誰も声を発しなかった。
やがて、青年の静かな声が、沈黙を破る。
「フーレンスさん、もう止めにしましょう」
「ミナーシェ……」
多大な信頼を寄せていた彼に自分の名を呼ばれると、青年は寂しげに微笑んだ。
「もう勝負はつきましたよ。今ならまだ……引き返せる筈です」
「……ミナーシェさんの言う通りっすよ」
青髪の青年が複雑そうな表情を浮かべつつも、口を開いた。
「俺はアンタのやった事、正直許せないっす」
そう告げる彼の脳裏にはきっと、フーレンスに操られ利用された老婆の姿がよぎっているのだろう。
「けど……アンタがちっぽけな理由で動くような人じゃないって、それは俺も分かってるつもりっすから」
「もし、お前に再び国に仕える気が……復隊する意志があるのなら」
エリュシール隊長である赤髪の男もまた、かつての副官に語りかける。
「私からも、王に進言しよう。微力にしかならないだろうが、お前の処遇に関しては全力を尽くすつもりだ」
「……そんな事をすれば、貴方自身の立場が危うくなるのではないですか?」
「恐らくお前の言う通りだろう……だが」
いったん言葉を切ると、ゼルリックはフッと男前な微笑を洩らした。
「部下の責任を背負うのが、隊長である私の務めだからな」
「……相変わらず、厳しそうに見えて甘い人だ」
苦笑して呟くフーレンスの肩から力が抜けていくのを眺めていると、深い安堵感がワタシの胸中に広がっていった。
――良かった……。
もしかすると、全てが丸く収まるかもしれない。そんな淡い期待が気づかないうちに笑顔となって、ワタシの心を癒し始める。
しかし。
電流の弾ける爆音が、流れ始めていた平穏を無慈悲に奪い去った。




