014 「……なにやってんのよ、バカ」
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「はーい、鳳城さんお疲れー」
夜の八時半を過ぎた頃。店長と挨拶を交わして、私はバイト先の店を出た。
夜道を歩いて駅に向かい、ホームで電車を待つ。
そのあいだもスマホのアプリで英単語を覚えて、次のテストに備える。
学校、バイト、家事、勉強。
私、鳳城亜梨紗の生活は、ほとんどそれらで埋め尽くされている。忙しい、慌ただしい。
ただ、最近は――。
『美護さんの様子、どう?』
電車に揺られながら、LINEでそんなメッセージを送る。
相手は、神矢璃奈ちゃん。
中学二年生の女の子で、友達の……うん、私の唯一の男友達の、妹だ。
いろいろ……特に兄の方とは本当にいろいろあって、仲よくなった。
しっかり者で素直で、かわいい。
あいつの妹にしとくのは、もったいない。
うちに来ればいいのに。私の妹になったら、かわいがってあげられるのに。
そんなことを思うけれど、でも、だめだな、という気持ちもある。
鳳城家にいちゃ、苦労するから。そんなのは、私とお母さんだけでいいから。
それにきっと、璃奈は神矢家でも、すごくかわいがられているから。
『なんとか大丈夫そうです。今はお風呂です』
少しして、そう返事が来た。
お風呂。私があいつと入れ替わってたときに、最も苦労したもののひとつ。
美護さんも、大変だろうな。
ただ、私は自分の中に、そんな同情以外の、おかしな気持ちが渦を巻いているのを感じる。感じてしまう。
モヤモヤして、イライラする。
焦りなのか不安なのか、それとも、怒りなのか。
とにかく、暗くて重くて、いやな感情だ。
その気持ちの正体はわからないけれど、突き止めようとも思えない。
考えれば、きっとわかってしまうから。向き合うのが、怖いから。
「……ネガティブすぎ」
電車を降りたところで、思わずそんなひとり言が漏れた。
普段から、つらいことはたくさんある。けれど、こんな気持ちになることはない。
全部、自分でどうにかすればいいことだから。向かうべき先が、わかっているから。
でも、これはそうじゃない。だから、いやなのだ。
『電話していい?』
改札を出て、自宅への道を歩き出す。
ちょっと前まで暑かったのに、十月の夜はもうすっかり涼しい。
ただ、近づいてくる冬の気配をうっすら感じる気がして、少し憂鬱にもなってしまう。
『どうぞ』
返事を確認して、私は璃奈に通話をかけた。
すぐに応答があって、『もしもし』と声がする。
この声を、私はつい最近まで、毎日のように聞いていた。
本当に、助けられた。
「ごめんねいきなり。ちょっと気になって」
『いえ。私も、亜梨紗さんとお話ししたかったので』
璃奈はホッとしたような声で言った。
かわいい。頭を撫でてあげたい。今の、本当の私の姿で。
あのときは、ずっとあいつの中に入ってたから。
『美護さん、すごく落ち着いているので、かえって少し心配です。おっとりした人なのだろうとは思いますが』
「そうね。私も、昨日そっちで会ったときは驚いたもん。私と全然違ったし」
『亜梨紗さんは亜梨紗さんで、すごく賑やかでしたけどね』
そう言って、璃奈が笑った。
生意気だ。でもかわいい。許しちゃう。
ただ、私の反応は普通だったでしょ。
朝起きたらクラスの男の子の身体に入ってて、一ヶ月戻らない、なんて言われたんだから。
……まあ、今はもう、怒ってないけどね。
『逆に、お兄ちゃんの方が心配です。また、無茶をしそうで』
「……そうね。バカだから、あいつ」
『はい。本当におバカです』
今度は、ふたりで一緒に笑った。
璃奈の兄の、神矢琉依くん。私と入れ替わった、ちょっと変な男の子。
たしかにあいつの方が、美護さんより気がかりかもしれない。いろんな意味で。
『あ、そうだ。亜梨紗さんが買った枕、そのまま冬音さんにも使っていただいてるんですが、大丈夫でしたか?』
「ああ、あったわね枕なんて。いいわよそんなの。むしろ、置いてっちゃってごめんね」
『そうですか。じゃあ、このままにしておきます』
璃奈は恐縮そうにしていた。
だけど、あれは私が勝手に買ったものだ。しかも神矢家……正確には、琉依のお金で。
だったら、神矢家の人の好きに使ってもらった方がいい。
もっといえば、お金だって琉依に返すべきなのに。
全然受け取ってくれないから、今もちょっと気にしてるんだからね、もう。
「美護さんにも教えたの? ヒゲの剃り方」
『……はい。前回より教え方が上手くなっていて、自分でもおかしかったですが』
「ふふっ、でしょうね。まあ、そんなに難しくないけど」
『そうですね。お兄ちゃんいわく、使い方のわかりやすい髭剃りを選んでるそうです』
「うそっ。相変わらずの徹底ぶりね……」
ホント、変なやつだ。
生活のほとんどの場面で、入れ替わりを中心に考えてる。
そこまでしなくてもいいのに。
あいつのせいじゃないのに。
「また長い一ヶ月だけど、頑張ってね。なにか困ったことがあったら、私も手伝うから」
『ありがとうございます。ですが、亜梨紗さんにこれ以上、迷惑をかけるわけには……』
「なに言ってんの。そんな余裕ないでしょ。それに、私も助けてもらったしね」
『……はい。では、いざというときには』
「いざじゃなくてもいいの。じゃあね。もうすぐ家だから、切るわ。電話ありがと。おやすみ」
『はい。おやすみなさい、亜梨紗さん』
そこで通話を切って、私はスマホをポケットに仕舞った。
少し先に、自分の住む古いアパートが見えている。
錆びた階段を上がると、カン、カン、と乾いた音が鳴る。
通り過ぎた部屋からテレビの音が漏れていて、九時を過ぎていることがわかった。
「ただいま」
玄関でそう声をかけて、靴を脱いだ。
居間は電気がついていたけれど、誰もいない。たぶん、お母さんは寝室だろう。
テーブルにはラップをかけた夕飯が置いてあって、私はそれをレンジで温めながら、荷物を整理して、服を着替えた。
途中、一度だけお母さんが顔を出して、「おかえり」と言った。
私と同じ金色の髪はくたびれたようにボサボサで、疲れた顔をしていた。
せっかくもとは綺麗な人なのに、もったいないな、と思う。
「ご飯ありがとう。あとはやっとくから。おやすみ」
「ええ、おやすみ」
それだけの短い挨拶を交わして、お母さんはまた寝室に戻った。
私もテーブルに夕飯を並べて、日本史の教科書を読み返しながら、ゆっくり食べた。
途中、少し前までは自分がここにいなかったこと、そして代わりに琉依がいたことを思い出して、なんともいえない気持ちになった。
「……」
八月三十一日からの一ヶ月は、長いようで短かった。
最初は、本当に本当に、いやだった。
ふざけんなって思ったし、なんで自分がこんなことに巻き込まれなきゃいけないのか、納得できなかった。
でも、私がいやだったのは、琉依との入れ替わりそのものじゃない。
あんなのは、不幸な事故だ。
彼のせいでも、私のせいでもない。
私は、この家が……この貧乏な生活が知られるのが、いやだった。
そして、入れ替わりのせいで琉依以外にも秘密がバレるのが、怖かったのだ。
「……はぁ」
その点では、たしかに最初は、琉依のことを恨んだ。
恥ずかしくて、怖くて、不安で、どうしようもなかった。
だけど、琉依は秘密を守ってくれた。
彼にも入れ替わり体質っていう秘密があったから、お互いさまだとは思う。
でも琉依は、私の生活を知って引いたりバカにするどころか、協力までしてくれた。
貧乏なことを隠して、周囲に内緒でバイトをしている。
有利な条件で大学に進むために、成績と内申で特待生を狙っている。
そんな私の密かな目的に、琉依は力を貸してくれた。一緒になって、本気で向き合ってくれた。
私の成績を落とさないために、テストもすごく頑張ってくれた。
普段は五十位くらいなのに、たくさん勉強して、四位を取ってくれた。
慣れないバイトもちゃんとこなしてくれて、それどころか、入れ替わり期間中に時給までちょっと上げてくれた。
そして……彼は言ったのだ。
――いつもめちゃくちゃ頑張ってるんだな。ホント、偉いよ亜梨紗は。
その言葉が、嬉しかった。
同情するでも、過剰に持ち上げるでもなく。
ただ、自分の境遇と戦っていた私を認めて、労ってくれた、琉依の言葉が。
おまけに、彼は私のミスでふたりの関係が怪しまれそうになったとき、自分の立場を犠牲にして、その場を収めてくれもした。
でもそのせいで、彼は私に告白して、そして、フラれたってことになってしまって。
もちろん、それは琉依自身のためでもあっただろうけど――。
「……」
今は、琉依のことを恨んではいない。
むしろ、感謝してる。
そりゃもちろん、最初から入れ替わりさえしなければ、とは思う。
けれど、もう終わったことだ。
それにどうやら、入れ替わってしまった原因は、私が琉依を夢に見たかららしいし……。
「……なにやってんのよ、バカ」
せっかく、もとに戻ったのに。
お互いあんなに苦労して、やっと乗り越えたのに。
またすぐに入れ替わるなんて、ホントにバカなんだから。
しかも、かわいい女の子と……。
いや、それは関係ないし。
ちょっとムカつくだけで、べつにどうってことじゃないし。
「……一ヶ月、か」
また、大変な期間になる。
三十日は長い。
なにも起こらないなんてことは、きっとない。
琉依は私に、もう関わらないでおこう、と言った。
入れ替わり最後の日は、私もそうした方がいいと思った。
だから同意して、もとの、なんの関わりもないクラスメイトに戻った。
でも……こうなったら、もう放っておけるわけがない。
だって琉依の秘密がバレたら、私だってどうなるかわからないんだから。
……ただ、そこに保身以外の気持ちがあるのだって、自覚はしている。
同情、負い目、恩、それから……。
ううん、それだけ。ほかになにがあるっていうの?
「……はぁ。ダサ、私」
気づけば、そんなセリフが漏れていた。
でもその理由を考える気力も、度胸も、今の私にはないのだった。
『レッスン、大丈夫だったの?』
ふと思いついて、私は琉依に――まあ美護さんのアカウントだけど――そんなメッセージを送った。
今日は、初めてのお芝居の稽古があるって言ってた。
正直、全然想像がつかない。どんなことをするのか、どんな雰囲気なのか。
そして、うまくこなせるのか。
まあ琉依なら、どうにか乗り切っちゃいそうな気がするけど。
『なんとかなったぞ!』
と、すぐに予想通りの返事が来て、私は思わず頬が緩むのを感じた。
それから、どうしてかポッと胸の奥が温かくなって、気持ちがふわふわした。
意味不明だ。
私の身体は、最近少しおかしい。
もとに戻ったはずなのに。
まるで、自分の身体じゃないみたいに、心臓が高鳴ることがある。胸が苦しくなるときがある。
もしかすると、琉依が入れ替わり中に、私の身体になにかしたのかもしれない。
きっとそうだ、うん、そうに違いない。
なんて、くだらないことを考えながら、私はご飯を食べ終えた。
今日の私は、たぶんかなりバカだ。
「ごちそうさま。いつもありがとう、お母さん」
食器を運んで、そのまま洗い物をする。
少し前まで住んでいた神矢家には、食洗機があった。
でも、これが私の……鳳城亜梨紗の生活だ。
べつに恥じることもない。ただちょっと、不便なだけで。
それに、あの日々に戻りたいなんて、全然思わない。
そんなこと言ったら、それこそ琉依に悪いから。
「……」
ひとつ、気になることがあった。
琉依は気にしてなさそうだったけれど、私には、どうしても。
入れ替わりは、琉依を夢で見た人とのあいだに起こる。
私もそうだった。
彼が夢に出てきて、きっとそれは、その日のバイト先での出来事のせいで。
秘密だったのに、クラスメイトの男の子が偶然やってきて、でも彼は、内緒にするって約束してくれて。
なら……美護さんは?
あの子が琉依の夢を見たのは、なにが原因だった?
「……はぁ」
今日何度目かのため息をついて、私は首をふるふると振った。
それから食器の水気を取って、乾燥棚に並べていく。
私が考えることじゃない。
それに、わかったところで、どうなるわけでもない。
けれど、気になる。気になってしまう。
ただ……それを本人に聞いてみる勇気も、私にはまだないのかもしれなかった。




