012 「あめんぼ赤いなあいうえお」
美護とカフェで解散したあと、俺はマニュアルに書いてある住所をもとに、すぐにレッスン会場へと向かった。
駅から徒歩数分の場所にあったのは小さなビルで、会場はその三階。
エレベーターを降りると受付があって、挨拶して名前を言うと、当然ながらあっさりと稽古場に通された。
「……おぉ」
ドアを開けると、フローリングの床と鏡張りの壁が俺を迎えた。
十五畳くらいの広さで、ホワイトボードや長机、イスが数脚置かれている。
なんか、テレビで見たことあるな、この感じ。
逆にいうと、テレビでしか見たことない。
うぅむ、なんか『役者』って感じだ。まあ役者か。
「あ、冬ちゃん、お疲れさま。早いね」
と、俺が入り口の前で突っ立っていると、後ろから声をかけられた。
反射的に振り返りつつ、頭に入れてきた情報をあらためて整理する。
普段美護が一緒にレッスンを受けている生徒は、全部で五人。
そのうちのひとり、別の高校に通う同い年の女の子とは特に仲がよく、レッスン時間の前後にもよく話す。
呼び方は、たしか――。
「柚葉ちゃん、お疲れさまぁ」
マニュアルに貼ってあった写真のおかげで、すぐに顔と名前が一致した。
柚葉は俺のそれとは違う制服を着ていた。
ひらひらとこっちに手を振って、勝手知った様子で壁の方に歩いていく。
俺もそのあとを追って、柚葉にならってカバンから着替えを取り出した。
このように、入れ替わり中に未知の場所に来たときは、全ての行動をちょっとずつ遅らせるのがコツだ。
相手に合わせつつ、さもいつもやってますよ、みたいな顔で動く。
マニュアルでは補いきれない細かい部分は、こういう小技でやり過ごすしかない。
「今日の台本どう? ちょっと難しそうだよね。長いセリフ多くて」
稽古場の隣の更衣室に入ってすぐ、柚葉が言った。
レッスンは制服じゃなく、ラフな練習着で行う。マニュアル通りだな。
「そうだねぇ……緊張するなぁ」
「冬ちゃん、いつも上手じゃん。今回の役は、ちょっと冬ちゃんっぽくないけど」
「ふふっ、そうかも。でも頑張らないとなぁ」
なんて、当たり障りない返答で場を繋ぎつつ、情報を集めていく。
今回の台本は、セリフが長い方らしい。あと、振られた役は美護には似合わない。
こういう感覚とか周囲からの評価も、マニュアルには出にくい部分だ。
さっきの振る舞いと同じく、臨機応変に、つぎはぎに認識を整えていくのが大切になる。
亜梨紗のときも苦労したもんだ。
「ところでね、昨日見た映画がさ、マイナーな邦画だったんだけど、主演の女優さんの演技がホントすごくて。もう感動しちゃったんだよね。圧巻、って感じでさ」
「へぇ、そうなんだ。ちょっと興味あるかも」
「あ、そう? じゃあLINEで送っとくね、作品ページ。でもなぁ、暗いから、冬ちゃんあんまり好きじゃないかも」
そんなことを話しているうちに、今回の着替えはあっさり完了した。
会話に集中していると、邪念が湧いてこなくて助かる。
いや、いつも湧いてないですけどね?
それにしても、やっぱり映画とか演技とか好きなんだな、こういう人たちって。
その後、柚葉と一緒に稽古場に戻ると、ひとり、またひとりと生徒が顔を出した。
その度に挨拶をして、顔と名前を一致させていく。
大学生の男女、社会人男性と女子中学生。
六人の生徒が揃ったところで――。
「お疲れー。今日もやるよ」
と、ちょっと荒めの言葉遣いの女性が、キビキビとした足取りで入ってきた。
あれがレッスンの先生、榊さんだ。
俺は知らないが、元は人気舞台女優だったらしい。
ちらっとネットで調べた限り、四十歳を超えている。
が、肌のハリと高い身長のせいか、全然そんなふうに見えない。
ただ事前にマニュアルで読んだ通り、厳しそうな人だ。こう、圧を感じるというか。
「じゃあ、基礎練からね。今日誰?」
「あ、私です!」
六人で円になっていると、柚葉がピッと手を上げた。
日替わりで生徒がひとり、基礎練習の号令をやるらしい。これもマニュアル通りだ。
さっそく当番じゃなかったのはラッキーだな。
まあ一連の流れは練習してきたし、やれっていわれればできるけども。
「前屈ーっ。いち、に、さん、し。に、に、さん、し」
柚葉のカウントに合わせて、順番に体操、ブレストレーニング、発声練習を行う。
なかなか丹念だ。
こういうのは地味ながらも、やっぱり本格的だな。
そして、美護の身体は肺活量が多い。
普段の話し方のときはあんまりわからないが、出そうと思えば声量も出る。
日頃の鍛錬の成果は、しっかり身についているらしい。
帰宅部としては、尊敬だな。
「あめんぼ赤いなあいうえお、浮き藻に小エビも泳いでる」
十五分ほどののち、最後は滑舌のトレーニングになった。
この文章だけはなかなか覚えられず不安だったが、稽古場のホワイトボードに印刷した紙が貼ってあったおかげで非常に助かった。
なにかと運がいいぜ。
そして、どうやら滑舌は、ある程度身体の方に依存するらしい。
明らかに、神矢琉依のときより言葉の歯切れがいい。新発見だな、こりゃ。
「はい終了。いつもいってるけど、基礎できてないやつはすぐバレる。どれだけいい演技しても、オーディションじゃ基礎練サボってるって思われるだけで不利になるからね」
と、榊先生からありがたいお言葉がある。
みんなは「はーい」と軽く返事をしているが、ど素人の俺にはこういうのもひとつひとつ新鮮なので、妙にマジメに聞いてしまう。
「じゃ、前回配った台本やるよー」
先生の号令で、生徒たちが机とイスを並べ始める。
たぶん、台本を演じるための簡易セットだろう。
ちなみに、俺は手伝うフリをしつつ、周囲を観察していた。
なにせここからは、かなり未知の領域だからな……。
「最初は柚葉と冬音でいこうか。柚葉がA役、冬音がBね」
さっそくご指名があった。柚葉と頷き合って、机を挟んでイスに座る。
正直、かなり緊張する。
入れ替わり中の演技はともかく、こういう芝居としての演技を人前でやるのは、たぶん初めてだ。
しかも周り、初対面の人ばっかりだし。
とはいえ、やるしかない。
多少下手でも、まさか中身が別人だとは思われないはずだ。
「――だからさ、鈴木さんって結局、人の手柄を持ってくのが上手いんだよ」
スッとスイッチが切り替わったように、向かいに座る柚葉が最初のセリフを発した。
おお、上手い……それに、なんかかっこいい。さすが俳優の卵だ。
ちなみに、今回の台本は、居酒屋で同僚ふたりが上司の愚痴を言うという、わりとシンプルなシチュエーションのものだ。
初心者の俺にはありがたい。
まあかといって、演技やセリフまで簡単なわけじゃないけれど。
「あーわかる。立案時点では反対してても、結果うまくいったら、さも最初から自分も賛成してた、みたいな顔するもんね」
記憶にあるセリフを、自分なりに解釈して言ってみる。
噛んだりはしなかったが、他人の身体で、これまた他人を演じるというのは、違和感がすごいな。
「『我々で詰めました』でしょ? あんたのせいで進まなかったんだっつーの」
「あはは。まあでも、基本はいい人だけどね、鈴木さん」
滞りなくセリフが進む。
ほかの生徒や先生の視線は忘れて、周りの景色を居酒屋だと、脳に信じ込ませていく。
大切なのはたぶん、演技というより役作りだ。
セリフやプロフィールだけを頼りに、見ず知らずの他人になりきる。
むしろこの台本は、たまたまこのBの生活のワンシーンが切り取られてるだけで、台本の外にもちゃんと人生がある。そんなふうに考えたうえで、役を入れなきゃならない。
まあ、これも全部ネットで調べたことだけどさ。
とはいえ、無策で臨むよりはマシだろう。
「いやいい人じゃないって。私無理。質問してもこっち向かないし、挨拶も返さないし」
「え。挨拶返してくれるよ? あと、質問したら手も止めてくれるし」
「うそぉ? じゃあなに、人で態度変えてるってこと? ますますむかつくなー」
それからもセリフの応酬は進み、ふたりの会話によって鈴木さんの真意が明らかになっていく。
最終的には、鈴木さんは一日おきに機嫌が悪い、という仮説が立ち、その謎を突き止めることになるのだが、この台本においては、真実は最後までわからない。
三分くらいの短い台本で、新人脚本家の習作らしいが、うーん、憎い演出だ。
「はい、お疲れ。んじゃ、さっそくふたりとも講評ね。気づいたことある人は、どんどん言っていいから」
榊先生がパチンと手を叩いたのを合図に、俺と柚葉は役を抜いて、そのままイスで背筋を伸ばした。
緊張だ。
美護の評判を落としたくないってのもあるが、普通に俺の演技がプロにどう思われたのか気になる。
なにせ、演技力は俺にとっても死活問題だからな、偶然にも。




