010 「柔らかいね」
昼休みが終わって、午後。
入れ替わり初の登校における、最ベタにして最大の難所が、もう目の前に迫っていた。
それは、すなわち。
「冬音、着替え行こ」
「う、うん。そうだねー」
声をかけてきたおしずこと歌原静久のあとを追って、俺は荷物を持って教室を出た。
袋に入っているのは、体育館シューズと、体操服。はい、体育です。
「今日なんだっけ?」
「え? えっと……バスケじゃない?」
「あー、私が不利な欠陥スポーツね。やれやれ、つまらん」
と、おしずは呆れたように首を振っていた。
これはたぶん、おしずメモ①『背が低いのがコンプレックス』、そして②『毒舌』だな。
さっそく実物が見られるとは、運がいい。
いや……今はそんなことよりも。
「……うぐっ」
更衣室に辿り着くと、中はすでに女子でいっぱいになっていた。
女子でいっぱい。しかも、連中は……。
「やだなーバスケ」
「ナオちゃん上手いじゃん。私チームスポーツ無理なんだよねー」
「あ、ユキナの下着かわいいー。でもちょっと狙いすぎ?」
「こら、見んな。そして狙ってないし」
……まあ当然、そうなる。
様々なガラの布と肌の色が、視界で大渋滞。
おまけに、おしずも自分の場所を見つけて、今にも服を脱ごうとしていた。
「……心頭滅却」
壁に身体を向けて、目を閉じる。
聴覚だけはどうしようもないので、頭の中でお経を唱えた。
いや、今回は歴代総理大臣にしよう。せっかく亜梨紗に、覚え方教わったし。
あっ……そういや、この中には亜梨紗もいるのか……。
前回の入れ替わりで、更衣室の乗り切り方は確立した。
が、そのときは亜梨紗はいなかったので、今回はちょっと事情が違うな……。
あいつの方だけは、死んでも見ないようにしよう。
というか、見たら殺されると思う。
うん、すでに刺すような視線を背中に感じるしな。おーこわ。
「……」
松方正義、伊藤博文、松方正義、伊藤博文、大隈重信、山縣有朋。
なんかここ好きなんだよな、覚えやすくて。
あと西園寺公望の語感もいい。
と、俺が歴代総理大臣に思いを馳せているあいだにも、着替えは無意識下に、順調に進んでいた。
それにしても、こんなに早く、またこれをすることになるとはな。
ただ……俺はいいとしても、美護が心配だな。
男子更衣室には、亜梨紗のヘルプもないわけだし。
「頑張れよ……マジで」
「なにを頑張るの?」
「っ……あ、ううん、べつに」
と、突然のおしずだった。
それでも反射的に「うおっ!」とか言っちゃわないのは、やっぱり自分の成長を感じる。
おしずはすでに体操服への着替えを終え、腰に手を当てて控えめな胸を張っていた。
視界の端では、ほかの女子たちもバラバラと更衣室を出始めている。
すみませんね、もうちょっと待っててください。
あとはズボンを履き替えるのと、まだ吉田茂だからさ。
体育館に着いてすぐ、俺は美護の、というか、自分の姿を探した。
俺の予想が正しければ……あ、いた。
「……おぉ」
美護は体育館の隅で壁にもたれて、疲れ切った顔をしていた。
両腕がだらんとして、生気が感じられない。
そりゃもう、大変だっただろうな、向こうは向こうで。
俺は拝むように両手を合わせ、美護に向かって一礼した。
よく乗り切った、偉いぞ。
とりあえず、あとで教えてやろう、歴代総理大臣の覚え方を。
そのあとは、男女二クラスで整列して、すぐに授業が始まった。
準備運動のためにおしずとペアになり、ストレッチや軽い筋トレを行う。
おしずの腕や背中に触れてしまう罪悪感はあるが、まあ仕方ない。
それに、亜梨紗のときも体育は普通にあったので、もう今さらだ。
「相変わらず冬音は柔らかいねー」
「えへへー、いいでしょ」
と、得意げに返しつつも、新たな発見だった。
マニュアルにはなかったが、たしかに美護は身体が柔らかい。
まあそりゃ、こんなことまで書かないわな。
ただ、運動神経にはあまり自信がないらしい。
苦手事項の欄に、スポーツと書いてあった。びっくりマーク付きで。
身長も高いし、運動できそうなのにな。
あと、勉強も苦手らしい。多いな、苦手。まあそれも個性だ。
やっぱり、教えてやろう。中国王朝の覚え方も。
「じゃあ各クラス、男女二チームに分かれて総当たりー」
ストレッチが終わり、体育教師の号令がかかる。
チームは手っ取り早く名簿で決めるらしく、おしずとは離れてしまった。心細いぜ。
入れ替わり中はなんだかんだ、ずっと同じやつと一緒にいた方が安全だからな。
「……どう、調子」
俺がひとりでそわそわしていると、横から声をかけられた。
亜梨紗だ。どうやら、助けに来てくれたらしい。同じチームだしな。
「なんとかね。一応慣れてるし。そういう意味じゃ、今は《《向こう》》が心配かな」
「そうね……あんた友達いないし、人との会話は少なめだと思うけど。初めての更衣室は地獄だったから、私も」
「えへへ……その節はお世話になりました」
恨み言を言いつつも、亜梨紗はあまり怒っていなかった。
そのまま俺の隣に来て、同じように美護の様子を遠目で眺める。
「どうですか、先輩としては」
「なによそれ……べつに、先輩とかじゃないし」
亜梨紗はこっちを見ずに肩をすくめた。
いやぁ、先輩だろ。頼りにしてるしな、いろいろと。
「……でも、私よりいいんじゃない。美護さん素直だし、いい子だし……あんたもやりやすそうだもん」
どこか寂しく響く声で、亜梨紗が言った。
その横顔があまりにも綺麗で、思わず見入ってしまう。
やっぱりこいつは、自分の身体に入ってる方がずっといい。
一ヶ月も俺を演じさせて、悪かったなとあらためて思う。
ところで、この優等生はまたいじけてるみたいだが――。
「お前でよかったよ」
「……」
「って、入れ替わってたときにも言ったろ。たぶん、お前以上にありがたい最初の入れ替わり相手は、どこにもいないよ。今もこうして、助けてくれてるしな」
「……大変だったんだからね、ホントに」
「わかってるよ。だから、ごめんな。それに、ありがとう」
亜梨紗は依然、こっちを向かなかった。
けれど、横顔はさっきと違って、もう不機嫌そうじゃなく。
今までにも何度か見た、少し子どもっぽい、拗ねたような仏頂面で。
頬がうっすら赤くて、俺までちょっと、恥ずかしくなってしまいそうだった。
「……っていうか、喋り方。戻ってるし」
「うおっ……マジだ。危ねぇ」
「ほら、それも」
「おっと。えへへ……気をつけなあかんなぁ」
俺が関西弁混じりに言うと、亜梨紗は呆れたように首を振った。
でも、今のは半分、お前のせいだぞ。
そう思ったけれど、口に出すのはやめておいた。
「あ、試合。行こっ、鳳城さん」
「……なんか気持ち悪いわね、それ」
と、亜梨紗はなんとも失礼なことを言っていた。
仕方ないだろ、これが正しいんだからさ。
「試合開始ー」
笛の音が鳴って、コートの中央でジャンプボールが始まる。
いつの間にか抜擢されていた亜梨紗が、軽やかに高く跳ねた。
「美護さんっ」
その声の通り、ボールが俺の方に飛んでくる。さすが、運動神経抜群女子だ。
この身体では、初めてのまともな運動。
だがそもそも、上手くやればいいってもんでもない。
あくまで、美護らしく。不自然のないように。
そういえば、入れ替わり中の運動やスポーツにおいて、注意すべきことがひとつある。
勉強などの思考能力は、精神……すなわち、人格の方に依存する。
けれど反対に、身体能力は当然ながら、肉体に依存するということだ。
亜梨紗に入ると身体は軽くなるが、それだけであいつみたいに、スポーツでの勝ち方がわかるようになるわけじゃない。
そこは身体能力じゃなく、知識の範疇だからだ。
今、美護の身体は亜梨紗のときより、手足が長い。それに、意外と筋力もある。
掴んだボールは重いが、つらいほどじゃない。
体幹もしっかりしていて、踏ん張れる。
つまり、美護がスポーツが苦手なのは、身体のせいじゃない。
きっと、身体の上手い使い方や、競技のセオリーを知らないせいだ。
だとすれば、ここでの最適解はやっぱり――。
「……わっ!」
相手チームの、運動のできそうな女子。
そいつが当たりに来たのに対して、俺はあえなくボールを奪われた。
たぶん、かわすこともできただろう。そのあとで、誰かにパスを出すことも。
けれど、美護には無理だ。
亜梨紗やチームメイトには悪いが、まあここは許してくれ。
「鳳城さん!」
と、今度はチームメイトのひとりが、掴んだボールを亜梨紗にパスした。
亜梨紗は華麗なドリブルで、ディフェンスをひとり、またひとりと抜いていく。
あれだ。なんの部活にも入っていないのに、亜梨紗はどんなスポーツでも、抜群に上手い、速い、高い。安いじゃなく。
そのせいで、俺も演じるのに苦労したんだからな、やれやれ……。
“ぱすっ”
静かな音を立てて、ボールがゴールリングに吸い込まれる。
周囲からの歓声を受けながらも、亜梨紗は涼しい顔でプレイに戻っていた。
入れ替わり中も、亜梨紗の身体は目立って大変だった。
美人でスタイルも良くて、存在感があったから。
その点じゃ、今回は亜梨紗のときよりは、ちょっとマシかもしれないな。
「……ん」
不意に、視線を感じた。
それも、ひとつじゃなく、いくつかの。
亜梨紗のときに慣れたから、わかる。
たぶんこれは、誰かに見られているというよりは、『注目』だ。主に、男子からの。
「まあ……そりゃそうだよな」
亜梨紗ほどの華やかさはなくても、美護だって相当な美人だ。
さすがに、全然目立たずに済むなんてことはないんだろう。
ホント、失礼いたしました。




