ランケの出師表
ダイヤモンドの首輪により、アレキサンダー家は、当面の資金難から脱することになるだろう。
だが――
「問題は資金だけではありません。」
ヨッシー公は静かに言った。
応接室には、リク、ユーコ、ランケ、そしてドナルドもいた。
「公領は荒れ果てています。」
「……。」
「さらに、これから各国との外交も始まる。」
ヨッシー公は苦笑する。
「ですが私は、礼も外交も未熟です。」
そして、真っ直ぐリクを見た。
「誰か、良い人材を推挙していただけませんか。」
その瞬間、リクは、あることを思い出した。
ランケが熱く語っていたことだ。
『徳と礼が、人を高みに導くのです。』
リクはゆっくり隣を見る。
「ランケ。」
「……。」
「心当たりは?」
すると、ランケは目を閉じた。
しばらく沈黙する。
その横顔には、これまで見たことがないほど深い葛藤が浮かんでいた。
やがて、彼は静かに立ち上がる。
「申し訳ありません、リク殿。」
「ん?」
「命を助けていただいた恩を忘れた訳ではありません。」
ランケは深く息を吐く。
「しかし。」
その目に、強い光が宿った。
「リク殿がおっしゃっていた“時代の変わり目”……それが今であると、ようやく理解できました。」
部屋が静まり返る。
「私は、不肖の歴史学者。」
そう言いながら。
ランケは胸へ手を当てた。
「ですが、この国のために働きとうございます。」
「……。」
「どうか私に、その役目をお任せください。」
そして、これ以上ないほど美しい礼を取った。
無駄がない。
静かで品があり、見る者の心を自然と打つ礼だった。
ヨッシー公すら息を呑む。
リクは思わず笑った。
「はは。」
「リク殿?」
「不肖とは、謙遜し過ぎだ。」
ランケが目を見開く。
「もう俺には、お前へ礼について言い返すことなんてない。」
「……。」
「お前はもう、“礼を極めし者”だよ。」
ランケの肩が震えた。
長年、学問と礼節を追い求めてきた男。
だが彼はいつも、自分を二流だと思っていた。
もっと優れた者がいる。
自分は未熟だ、と。
そんな男へ。
リクは初めて、真正面から認める言葉を投げたのだ。
ランケは静かに頭を下げた。
その目には涙が滲んでいた。
リクはヨッシー公へ向き直る。
「ランケを、よろしく頼む。」
ヨッシー公もすぐ立ち上がる。
そして。
王族としてではなく、一人の人間として頭を下げた。
「こちらこそ。」
「必ず、この国を立て直してみせます。」
その瞬間。
リクは少し寂しくなった。
変人で、礼儀にうるさくて、時々面倒で、でも、どこか憎めない男。
そのランケが、今、別の道を歩き始めようとしていた。
その夜、宿へ戻ったリクの部屋を、ランケが訪ねてきた。
「リク殿。」
「お、どうした。」
「これを。」
差し出されたのは、一冊の書簡だった。
「……?」
「出師表にございます。」
「え?」
「別に戦へ行く訳ではありませんが。」
ランケは少し照れくさそうに笑った。
「どうしても、自分の決意を書き残しておきたかったのです。」
リクはページを開く。
そこには、美しい文字で文章が綴られていた。
王への忠誠。
国への憂い。
民を思う心。
そして、リクへの感謝。
どの文章も、恐ろしいほど流麗だった。
気づけば。
リクは最後まで読み切っていた。
「……すげぇな。」
「お恥ずかしい。」
「いや。」
リクは素直に言う。
「これは、後世に残るぞ。」
ランケは少し笑った。
「だと良いのですが。」
後に、この『ランケの出師表』は、王国史上最高の名文として語り継がれることになる。
読んで涙を流さぬ者はいない――
そう言われるほどに。




