第99話 ご褒美と、溜まったフラストレーションの気配
もっと厳しくする──なんて栞が宣言したわりに、蓋を開けてみれば勉強会は午前中とさほど変わらずに進んでいた。
とはいえ、満腹になった午後の時間。しかも、冷房の効いた快適な室内。楓さんはまた、ちょくちょく船を漕いで栞に怒られていた。
「ほら彩香っ! また手が止まってるよ。そんなんじゃ二学期始まるまでに終わらないんだからね?」
「……わかってる、わかってるよぉ。でもさぁ、ご褒美もなしじゃやってらんないってぇ……」
「ご褒美? またほっぺむぎゅってしてほしいの?」
「それご褒美じゃなくてお仕置きじゃんっ?! そんなんで喜ぶのは、特殊な界隈の人たちだけだよっ!」
「そうかな? 涼、ちょっとお顔貸してね」
言うやいなや、いいと返事もしてないのに栞の手がぺたりと俺の両頬に触れた。それから、すりすりもにもにともてあそばれる。
「ちょ、栞……あはは、くすぐったいって」
「ほら、涼は嬉しそうだよ?」
「いや、触り方優しっ! あたしにするのと全然違くないっ?! というかそれ、またどさくさにイチャついてるだけだよね?!」
「眠気覚めたみたいでよかったね。それだけ元気なら、こっからは休憩なしで頑張れるよね」
「あたしの扱い雑すぎっ?! あ、でも……そういうしおりんも好き──じゃなくてぇっ! ご褒美だよっ、なんかモチベ上がりそうなのプリーズっ!」
駄々をこね始めた楓さんに、栞が苦笑する。そこで、それまで黙々とペンを走らせていた遥が顔を上げた。
「……なんで世話になってる側の彩がご褒美要求してんだよ。逆に俺らが礼をしなきゃいけねぇところだろうが。黒羽さん困らせてんじゃねぇぞ」
「それはそれ、これはこれだよっ! でも、お礼かぁ……うーん」
目を閉じ、腕を組んでじっと考え込む楓さん。これくらい真面目に課題に取り組んでくれたらと思わなくはないが──
……きっと、言っても無駄なんだろうなぁ。
楓さんがわかりやすすぎるから、俺ももう理解できてしまった。栞も諦めたみたいに、ため息をつく。
そして、数秒後。楓さんの目がカッと開かれた。
「そうだっ! ちゃんと課題が終わったらさ、どっか遊びに行こうよ! この四人でさっ!」
「……終わったら、ねぇ?」
栞の視線が、楓さんの手元に落ちる。そこには今日ようやく手を付け始めた課題のノート。栞が手伝っているとはいえ、当然、進捗は微々たるものだ。
「そういうのは、もう少しゴールが見えてから言ったら?」
「あたしは目標があった方が頑張れるのっ! それにさぁ、しおりんたちと仲良くなったのに、この夏休み遊んだりしてないじゃん。ね、ダメかな? なにするのかは考えとくからさ!」
楓さんはもうすっかりその気のようで、ローテーブルに手をついて身を乗り出した。
「……って言ってるけど。ねぇ涼、どうしよっか?」
「俺は構わないよ。俺たちは課題終わらせてあるし、残りの夏休み、栞と会う以外の予定もないしね」
「それもそっか。これでやる気になってくれたら、私もこれ以上叱らなくてすむもんね。いいよ、わかった。でも、本当に全部片付いたらだからね?」
「やったーっ! そうと決まれば──よーしっ、やるぞーっ!」
さっきの眠そうな顔はどこへやら。楓さんはペンを握り直し、猛烈な勢いで動かし始めた。その横で、遥が呆れた顔をする。
「……最初からこれくらいやっててくれりゃ、俺も苦労しねぇで済んだのによぉ。でもな、涼──」
遥は俺を見て、ニヤリと笑った。
「この調子だと、こいつはきっちり終わらせてくるぜ。だからな、今のうちに覚悟しとけよ。たぶんめちゃくちゃ引っ張り回されることになっからよ」
「……そりゃ大変そうだね」
やる気に満ち溢れた楓さんには、俺たちの会話は届いていないようだった。明るくパワフルで、元気が取り柄の楓さんと遊ぶとなると、本当にクタクタになるまで振り回されるのだろう。
でも──
「まぁ、それはそれで楽しみだよ」
今回の勉強会もそうだけど、栞以外の友人と遊ぶなんて初めてのことなんだから。
「涼がそう言うなら、俺もちゃちゃっと終わらせちまわねぇとな。何度も迷惑かけんのも申し訳ねぇし、俺が彩の面倒見てやれるようにな」
「うん。俺もしっかりサポートするから、今日中に終わらせちゃおうか。見た感じ、もうちょっとみたいだしね」
「おう。頼りにしてるぜ、涼」
遥が俺の肩をぱしんと叩いたのを最後に、静寂が落ちた。時折、楓さんが栞に、遥が俺に質問する程度で、あとはひたすらペンを走らせる音だけ。
楓さんの集中力は、目を見張るものがあった。栞が一度休憩を提案したが、それすらも投げ打ってノートに齧りついていた。
そうなると栞の対応も軟化して、俺と二人でやっていた時のように、優しく丁寧な指導に切り替わる。その一方で俺は、遥が思いの外優秀で、たまに口出しする程度。
そうして時間は過ぎていく。カーテンから差し込む陽の光がほんのりとオレンジ色を帯びてきた頃。
カタン。
と遥がペンを置いた。
「うおぉっ……! 終わった、マジで終わったぞ、涼!」
「うん、お疲れ様。すごいよ、まさか本当に終わらせちゃうとはね」
「……彩が珍しく必死になってっからさ。俺もつられちまったのかもな。でもまぁ、涼のおかげだ。サンキューな」
「それは遥が頑張ったから──だけど……一応受け取っとくよ」
「なら、彩香もこれくらいにしとく? だいぶ進んだし、疲れたでしょ?」
栞も、楓さんを労う。
けれど、楓さんはペンを置かなかった。
「あとちょっとだけやる。ここまで、キリがいいから」
「……本当、現金なんだから。しょうがないなぁ、付き合ってあげる。でも、根詰めすぎは身体に悪いから、ほどほどにだよ?」
「うん、わかった」
たぶん、わかってはいないのだろう。
今の楓さんの頭の中は、きっともう、この四人で遊びに行くことでいっぱいだ。
それでも、頑張っている人は応援したくなる。俺たち三人が見守る中、楓さんは自分の決めたキリまでしっかりとやり遂げた。
「んじゃ、そろそろ帰るか」
すっかり荷物を片付けた遥が言った。その瞬間、楓さんの顔がしょんぼりと沈む。
「えーっ、もう? 勉強ばっかりで、全然おしゃべりとかしてないのにぃっ!」
「駄々こねんなって! お前ね、時間わかってんのか? 親がいねぇからって、これ以上居座るのもわりぃだろ」
ちらりと、遥が栞に視線を向ける。解散が近い空気感に、栞は妙にうずうずそわそわしていた。
……わかりやすいのは、楓さんだけじゃないのかも。
栞はもう、俺しか見ていない。二人が帰った後、溜まりに溜まったフラストレーションが爆発するかと思うと、少しだけ怖い。
でも、そういうところもひっくるめて、栞のことが好きなわけで。
「ぶー……わかったよぉ。でも、しおりん? 約束忘れたらダメだかんね?」
「はいはい。ちゃんと予定は空けとくよ」
「帰るなら、また駅まで送るよ」
「いいって、道は覚えてっからさ。ほれ、彩。もう行くぞ」
「そんな急かさなくても帰るってば! それじゃ、しおりん、高原くん。今日はありがとね、助かっちゃった。終わったら、また連絡するねっ!」
「うん、待ってるね」
「二人とも、また」
二人が帰っていくのを、玄関で見送った。
途端に、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、家の中が静まり返る。
栞がそっと、手を握ってくる。
俺は栞の疲れを癒そうと、するりと指を絡ませた。
「……なんか、嵐みたいだったねぇ」
「だね。楓さん、無駄に元気だし。でも、いなくなると少し寂しいね」
「ふふっ。そんな寂しさなんて、私がぜーんぶ忘れさせてあげるよ。ほら、涼。リビング、戻ろ?」
そう言って俺の手を引く栞の瞳には、抑えきれない熱のようなものが揺れていた。




