第98話 仲直りと、壊れたムード
俺と栞の皿はすでに空になっていた。
オムライスは永久保存されることなく、すっかり俺たちの腹の中におさまった。とはいえ──味も、見た目も、それから匂いも。記憶にはばっちり保存済み。この記憶はたぶん、永遠に消えたりしない。
そういう意味では、永久保存されたかもしれない。
……本当、栞は料理上手だなぁ。
彼女が料理上手なんて、俺、恵まれすぎじゃ?
栞のことだから、見えないところで努力してるんだろうけどさ。
満たされた腹をさすると、栞がまたくっついてくる。こんな時でも甘えん坊というか、ある意味豪胆というか。
「ねぇ涼? お口の端に、ケチャップ付いてるよ?」
「え、どこ? 右? 左?」
慌てて手で拭おうとすると、やんわりと止められる。そして、栞はくすりと笑った。
「そんな横着しちゃダーメっ。そのまま、じっとしてて?」
「……な、なにを──」
「いいから、動かないで」
俺の言葉を遮るように、栞の顔が近付いてきて──
ぺろっ。
栞の舌が、ケチャップを舐め取っていった。
「な、なにしてるのっ?!」
「えー? だって、これが一番手っ取り早かったんだもん。どうせ二人ともこっち見てないんだし、いいでしょ?」
「……それはそうかもしれないけど」
最後まで夢中になって食べさせ合っていた俺たちとは対照的に、遥と楓さんの食の進みは遅かった。二人して俯いて、まだちびちびとオムライスもどきを食べている。
楓さんはずっとむすっとしているし、遥も楓さんが本気で怒っているのを察したのか、むっつりと黙り込んでいた。
お互いを一切見ようとしない。なのに、不思議と二人は同時に食べ終えた。
カチャン、とスプーンを皿に置く音が二つ重なる。そこでようやく、遥が重い口を開いた。
「……ごっそーさん──なぁ、彩」
「なによ、バカ遥」
楓さんの声にはトゲがあった。普段の元気で明るい楓さんからは想像できないくらい、低くて重い声だった。楓さんは、やっぱり遥の方を見ていない。
それでも、遥はがしがしと頭を掻いて続ける。
俺と栞は気配を殺して成り行きを見守っていた。
「……悪かったよ、バカにして」
「……知らないっ! どうせあたしは、しおりんみたいに上手にできないもん」
「そう拗ねんなって。あぁは言ったけどよ、食ってみたら案外普通っつーか、悪くなかったっつーか……」
「……悪くねぇ?」
喧嘩が始まってから、初めて楓さんが遥を見た。けれど、その視線は鋭い。睨みつけられて、遥はわずかに目を伏せた。
「……すまん、訂正する。ちゃんと、オムライスしてたわ。正直、味は美味かったよ」
「……本当に、そう思ってる?」
「んなもん、確認しねぇでもわかるだろ。俺の目見てみろって」
「……見なくてもわかるよ。一応聞いてみただけ。何年一緒にいると思ってるの?」
「……生まれてこの方、ずっとだな」
「だったらっ……あたしが本気で怒ることくらいわかってよ、バカ遥っ!」
「……わりぃ」
短い謝罪。でも、本気で謝っているのは、外側から見ている俺にも伝わってきた。
「はぁ……本当に遥はっ! しょうがないから今回は許してあげるけど、次はないからね」
「……わーってるよ」
「ならよろしい。でも、罰として遥がみんなの分も皿洗いね!」
「なっ、俺がすんのかよ?!」
「なにか文句ある?」
「……やりゃいいんだろ、やりゃ」
遥は立ち上がり、皿を重ねて持ち上げた。それから、バツの悪そうな顔で俺を見た。
「そういうわけだから……すまんな、涼。台所借りるぞ」
「あ、俺も手伝う──」
「ダメダメっ! これは遥の仕事なんだから、高原くんは座ってて!」
「え、あ……はい」
まだ怒りの残滓を纏う楓さんの圧に逆らえずに、俺は浮かせかけた腰を元に戻した。
……ここ、俺んちのはずなんだけどなぁ。
まぁ、やってくれるっていうなら任せるけど。
そうして遥が一人でキッチンへ行くと、楓さんは大きくため息をついた。
「はぁ……ごめんね、二人とも。なんか空気悪くしちゃったよね」
「いや、それはいいけど……一時はどうなることかと思ったよ」
「私は特に気にしてなかったよ? たぶん、いつものことなんだろうなぁって思ってたし」
「しおりんには、もうちょっと気にしてもらいたかったかも……。ずーっとあたしらがいないみたいに高原くんとイチャついてんだもん」
「あれ? 気付いてたの?」
「あんな露骨にしてたら誰でも気付くわいっ! おかげですっかり毒気抜かれちゃったよ!」
どうやら楓さんの調子もだいぶ戻ってきたようだ。声に勢いがあるというか、付き合いはまだ短いが、こっちの方が楓さんらしいと思う。
かと思えば、また楓さんからため息がもれる。さっきよりも大きく。
「はぁぁ……。しおりんはいいよねぇ。高原くん、優しそうだし」
「涼はあげないよ?!」
俺を取られると思ったのか、栞はがっちりとしがみついてきた。そろそろ人前で抱きつかれるのにも慣れてきたかもしれない。
「別にしおりんから高原くんを奪ったりしないってば。たださぁ……遥ってたまに意地悪なんだもん、羨ましくなっちゃうよ」
「とか言って、柊木くんのことちゃんと好きなくせに」
「そうなんだけどねぇ」
「というか──今の聞いたら、今度は柊木くんが怒ると思うよ?」
「……うっ、確かに。あたし、なに言ってんだろ。あーもうっ、やめやめっ! 嫌な気分引きずってるから変なこと口走っちゃうんだよね。ちょっと切り替えてくる!」
楓さんは勢いよく立ち上がって、キッチンへ走っていく。
「遥ーっ! あたしも手伝うよっ!」
「はぁっ?! 一人でやれっつったのは彩だろうが!」
「そんな昔のことは忘れちゃった! あ、洗い終わったやつ流してくよ!」
「いいって! こんぐらいすぐ終わんだから、あっちで待ってろって!」
「嫌ですぅー! だって、向こうにいるとお熱な二人に焼かれそうなんだもん!」
「……それはそう」
「でっしょー?!」
すっかり元通りにわちゃわちゃし始めた遥と楓さんを見て、栞は俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
「ね? 大丈夫だって言ったでしょ?」
「……そうみたいだね。でも、なんでわかったの?」
「なんとなく、だよ」
どこか、含みのありそうな声音だった。でも、それを探ったりはしない。突然始まった喧嘩に驚いただけで、俺もなんとなく、こうなる気がしていたから。
「ねぇ、涼」
「うん、なに?」
「涼は──ずっと今のままの、優しい涼でいてね?」
「似たようなこと、昨日も言ってたね。俺もさ、ずっと栞に好きでいてもらいたいから──なるべく変わらないように頑張るよ」
「えへへ。だから涼好きっ、大好きっ」
キッチンが騒がしいのをいいことに、栞が顔を寄せてくる。
最初に、こつんと軽く、額がぶつかった。
次に、ちょんと鼻が触れる。
最後に、唇が重な──
「あーっ! しおりんたち、ちゅーしようとしてるっ!」
──らなかった。
栞はぱっと振り向き、楓さんに噛みつく。
「ちょっと彩香っ! 今いいところだったのに邪魔しないでよぉっ!」
「いやいやいや、しおりん?! そういうのは、二人きりの時にしよ?! 目の間でちゅっちゅっされたら、さすがにあたしらも照れるってば!」
「そんなの見なきゃいいだけでしょ! まったくもう……。これは後半戦、もっと厳しくする必要がありそうだねぇ」
「えぇっ?! じゃ、じゃあ……目閉じてるから好きなだけしてもろて」
「残念っ、時間切れだよ。ムードぶち壊されたのに、すぐに仕切り直しなんてできるわけないもん。というわけで、お昼休憩はおしまいっ。わかったらさっさと課題進める! ほら、柊木くんも!」
「お、俺もかよ?!」
「……なにか?」
「なんでもありませんっ! すぐに始めさせていただきます!」
……恐るべし、スパルタモードの栞先生。
まさかもう一段ギアを上げてくるとは思わなかった。遥の口調まで変わってるし。
「こら彩香っ、いつまで目閉じてるの! 早くこっちに来なさい!」
「……ひ、ひぃぃぃっ! しおりんの鬼ぃーっ!」
楓さんの悲鳴が、リビングの空気を震わせる。
こうして、楓さん課題を片付ける会の午後の部が幕を開けた。




