第100話 栞の世界と、胸元をめぐる攻防
つい数分前まで四人でいたリビング。
今は俺と栞の二人だけ。
漂う空気が、がらりと変わった。
熱く、甘く。
栞は俺の首に抱きつき、夢中で唇を押し付けてきた。
「……んっ、ちゅっ。はぁ……涼っ。ずっと、こうしたかった」
「そっ、そんないきなり……?! もうちょっと、落ち着いてからでも──」
「むーりっ! 二人が帰ったら、続きするって約束だったもんっ」
「そうだけ──うわっ……!」
俺はそのまま、どさりとソファへと引き込まれた。なにがどうなってこうなったのか。気が付くと、俺は栞を膝枕していた。
栞は仰向けの姿勢になって、俺を見上げてくる。
「私ね、いっぱい頑張ったよ。彩香の面倒見るの、本当に大変だったし。だからね、涼──たくさん、癒やして?」
熱っぽい目で見てきたかと思えば、今度は完璧な甘え顔。俺は小さく息を吐き、栞の頭に手を滑らせた。
「偉かったね、栞。いい子だったよ」
さらさらふわふわと撫で回すと、すぐに栞はうっとりと目を細める。
「えへへ。涼のよしよし、好き。すごく気持ちぃの。今日はなんだかんだで結構楽しかったけど、私、やっぱり涼とこうしてる時が一番好きだなぁ」
「……うん、俺もだよ」
賑やかで楽しい時間。
静かで甘やかな時間。
どちらも捨てがたいが、一方を選べと言われたら、俺は迷わず栞と二人の時間を取るだろう。
友人との時間も大切だと、今では俺も理解している。それでも、やっぱり俺の一番は栞だから。
とはいえ。
……栞が甘えモードで来てくれて助かったかも。
あのまま誘惑モードでキス連打なんてされたら、危なかった。
下っ腹の辺りで渦巻く熱が、警鐘を鳴らしている。一歩間違えば、俺が栞をソファに押し倒していてもおかしくはなかった。
フラストレーションが溜まっているのは、なにも栞だけじゃない。
でも……昨夜は栞の身体に負担かけただろうから、さすがに今日は自制しないと、だよね。
その思いが通じたのか、栞の目が眠そうにとろんとしてきた。栞は幼子のような仕草で両手を持ち上げて、俺の顔にぺたぺたと触れた。
「……なに? どうしたの、栞?」
「んふふっ。なんかねぇ──こうしてると、涼がいつもより大っきく見えるなぁって」
「あー、真下から見上げてるからそう見えるのかもね」
「なのかな? まぁいつだって涼は、すっっっごく大っきな存在なんだけどねぇ。気持ち的なサイズで言えば、地球くらいかも」
「……巨人どころの騒ぎじゃないね、それ」
「えへっ、それでも足りない気がするよ。なら、宇宙? うーん……まだ足りないなぁ。この世界全部合わせたよりも、かな」
「……スケールがでかすぎるって。俺なんて、ただの高校生なんだけど?」
「それは違うよ、涼。私にとっての涼は、たった一人だけだもん。涼はね、私の世界なの」
眠そうなくせに大真面目な言葉が照れくさくて、俺は少しだけ栞の顔から視線を外した。
「……俺だって。栞は一人きりだし、大きな存在っていうか」
「ふふっ、どこを見て言ってるのかなぁ?」
「なっ、えっ?! どこって……」
俺の視線は、形よく上を向いた、栞の豊かな胸に落ちていた。栞が笑うたび、ころころと動くたびに、それがふるふると揺れる。
「……涼のえっち」
「こっ、これはたまたまで──」
「あははっ、冗談なのに慌てすぎっ。今さら見られたくらいで怒ったりしないってば。どうせ昨日、全部見られてるんだもん。なんなら、ちょっとくらい触ったって文句言わないよ?」
くすくすと笑う栞の声が、胸をざわつかせる。
……まったく、栞は。
俺が動揺してるってわかると、すぐこれなんだから。
たまには、冗談がすぎるとどうなるのか、わからせてあげた方がいいのかもしれない。
俺は、わざとらしく栞の胸に手を伸ばす。
「じゃあ、遠慮なく触らせてもらおうかな?」
「えっ?! 本当に、触るの……?」
「栞がいいって言ったんじゃん」
「そう、だけど──はぅぅ……わかった。いい、よ?」
栞は顔を真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じた。ふるふると小さく震える栞を前にして、俺は胸に触れる直前だった手で──
ぷにっ。
やわやわですべすべな頬を突いた。
「……俺も、冗談だよ。栞が俺をからかうから、仕返ししただけ」
ゆっくりと目を開いた栞は、つんと唇を尖らせる。
「……もうっ、涼のばかぁ。触られると思って、ドキドキしながら待ってたのにぃっ!」
「俺がそんないきなり触るわけないじゃん」
「ぶーっ、それはそれでなんか悔しいっ」
「……そんなこと言うと、本当に触るけど? 俺だって、その……触りたくないわけじゃないんだから」
「……ダメ、時間切れだもん。だから、今はもうダメなの。そういうのは──寝る前まで、待ってね?」
恥ずかしそうに視線を彷徨わせる栞に、心臓を射抜かれたみたいになって。一度は冗談で落ち着かせたざわめきが、また返ってきてしまった。
「いや、その……あれはそういう意味で言ったわけじゃ──」
「ふふっ、照れちゃってかーわいっ」
「なっ?! もしかして、またからかわれた?!」
……本当、栞には敵わないなぁ。
やり返したと思ったら、またやり返されて。
しかも、栞の方が何枚も上手だ。
「あぁもうっ、さっきのいい子は取り消し! やっぱり、栞は悪い子だ」
俺はわしゃわしゃと、少しだけ乱暴に栞の髪をかき乱した。
「やーんっ、あんまりくしゃくしゃにしないでよぉっ。謝るから許してぇ……」
「ダーメっ! 今さら謝ったって遅いの!」
内心悔しく思うのに、俺は笑っていた。
栞も、乱れた髪を整えて、整えたそばから乱されて、くすぐったそうに笑う。
栞と話すようになった最初の頃には、想像もしていなかったやり取り。
笑って。
じゃれ合って。
こうして触れ合うことが、今では当たり前になっていて。
それが妙に、俺たちらしいって思ってしまった。




