第101話 至れり尽くせりと、湯煙の侵入者
すっかり夜の帳が降り、俺たちは米を炊き、昨日二人で作ったカレーを温め直して食べた。一晩寝かせたカレーは深みが増していて、美味しくてつい食べすぎたりして。
からかい、からかわれ、じゃれ合っていた空気は、今はどこにもない。二人で寄り添って、静かにソファに沈み込んでいた。
日中の騒がしさの疲れと満腹感が全身に広がって、俺は小さくあくびをこぼした。そんな俺を見て、栞が微笑む。
「ふふっ。ちょっと早いけど、そろそろお風呂入っとこうか?」
「なら俺、ちょっと風呂掃除してくるよ」
「あっ、大丈夫だよ。もう掃除してあるから」
栞はさらりと、なんてことなさそうに言ってのけた。あまりにさらっと言うせいで、耳を疑ってしまったくらいだ。
「……え、えっ、いつの間に?」
「涼が彩香たちを迎えに行ってる間に、ちゃちゃっとね」
「マジか。すごすぎだよ、栞」
……手際がよすぎるでしょ。
あの短時間で、風呂掃除だけじゃなくて、昼の仕込みまでしてたわけだし。
至れり尽くせりって、たぶんこういうことを言うんだろうなぁ。
栞の有能さに、俺はもう頭が上がらなくなりそうだった。
「ふふーんっ、涼に快適に過ごしてもらうためだからね。これくらいはできて当然だもーんっ」
栞は得意気に胸を張ってぴょんと立ち上がり、給湯器のボタンを押した。
「というわけで──お風呂わいたら、涼が先に入ってきてね?」
「……昨日も俺が先だったじゃん。今日は栞が先に入ってきたら?」
「私は後でいいのっ。お風呂ですることも多いし、その方がのんびりできるから。ね?」
「……そう? ならまぁ、そうさせてもらおうかな」
数分後、お湯張り完了を告げる無機質なメロディが流れた。
「じゃあ──行ってくるよ?」
「はぁい、いってらっしゃい」
挨拶代わりに、短いキスを交わす。
今回はねだられる前に身体が動いていた。
俺がいない間、栞が寂しくならないように──って。
栞はほんのりと頬を赤く染めて、ふりふりと可愛らしく手を振って送り出してくれた。
……今さらキスで赤くなるなんて、どうしたんだろ。俺からしたから、照れてるのかな。
あんなからかい方するくせに、こういうところは可愛いんだよなぁ。
そんなことを考えながら一度自室に寄り、着替えを用意して風呂場へと向かった。脱ぎ捨てた服は脱衣籠に投げ込んで、まずは頭からシャワーを浴びる。
この後に栞が入るのだから、湯につかる前に身体を清めておくのは当たり前のことだろう。昨日も、もちろんそうした。
シャンプーを手に取り、髪に馴染ませ泡立てる。
シャワーと、わしゃわしゃと頭を洗う音だけが浴室にこだまする。目を閉じざるを得ない、寝ている時に次ぐ無防備な瞬間。
その隙を突くように──
カチャッ。
と背後で、浴室のドアが開く音が響いた。
続いて、
「りょーうっ、入るよー?」
栞の声。
「はぁっ?! えぇっ?!」
咄嗟に俺は、手探りでタオルを掴み取り、下半身を隠した。その直後、ぺたりと一歩、足音が近付く。
「ちょ、ちょっと栞?!」
「あっ。ダメだよ、振り返っちゃ。私、今なにも着てないんだから」
「っっっ?!?!」
……なにも、着てないって?!
閉じた瞼の裏に、昨夜と、今朝にも見た、一糸纏わぬ栞の姿が浮かび上がってきた。
「……なーんてね。ちゃんとバスタオルは巻いてるよ。だから、安心してね?」
「安心って……え、待って」
「あれぇ? もしかして、見たかったのかなぁ? いいよ、涼がそう言ってくれるなら……バスタオル、取ったげる」
「いやっ! とりあえず……そのままでお願いします」
「んふふっ、はぁいっ。じゃあ、ひとまずはこのままで、ね」
ひた、ひた、とまた足音が近付く。背中に、栞が動く気配も感じる。
「というかっ……なにしてんの?!」
「……えへへ、私も一緒に入ろうと思って。ねぇ、いいでしょ?」
ついに、耳に吐息が触れた。
「まぁ──ダメって言われても、出てったりしないんだけどね」
同時に、背中に柔らかな重みがかかる。
ふにょんと潰れる膨らみ。
ぴったりと吸い付くような感触に、思わず身体が跳ね上がった。
「し、栞っ?! バ、ババ……バスタオルは?!」
「ありゃ? おかしいねぇ、巻いてきたつもりだったんだけどなぁ。どっかで落としてきちゃったのかなぁ? あとで涼も、一緒に探してくれる?」
挑発するような声。
俺は瞬時に確信した。
絶対、栞は最初からバスタオルなんて巻いてなかった。きっと、俺をもてあそぶために。
栞を大事にしたいのに。
昨日の今日で、無理させたくないのに。
こんな理性を木っ端微塵にするようなことしてくるなんて。ドクドクと、鼓動が強く、速くなる。
もう、どうなっても知らな──
「って、冷たぁっ!!」
身体が熱を帯びてきたところで、いきなり頭から冷水が浴びせられて。
俺は驚いて、反射的に立ち上がった。
「なにすんの、栞っ?!」
そしてまた、栞がくすりと笑う。
「えへっ。涼が熱くなってそうだから、冷ましてあげようかと思って。でもあんまり効果、なかったかもね。だって──」
その笑い声は、どこか妖艶で、甘ったるくて。
でも。
どこまでも栞のものだった。
腰に置いていたタオルは、立ち上がった拍子に床に落ちてしまった。
俺の前を隠すものは、なにもない。
まだ目を閉じたままなのに、不思議と栞が俺のどこを見ているのかわかる。熱っぽい視線が、肌を刺すようで。
「んふふっ。涼ってば、もう夜なのにまだ元気いっぱいだぁ。そんなに、ドキドキしてくれたんだねぇ。嬉しいなぁ──ほら涼っ、とにかくもっかい座って? まずは背中、洗ってあげるから」
その言葉が湯気に溶けて、身体の隅々まで染み込んでくるような気がして。
俺はすとんと、崩れ落ちるようにバスチェアに腰を下ろした。




