第102話 磨き上げられた身体と、湯気の向こう側
ぬるぬるとした感触が背中を這い回って、なんとも言えないくすぐったさが全身を駆け巡る。栞はたっぷりの泡で、タオルは使わず、手で俺の背中を洗ってくれていた。
シャンプーは既に洗い流されている。コンディショナーでのケアも終わった。
それでも、俺は目を開けられずにいる。俺の正面には鏡がある。たとえ湯気で曇っていたとしても、そこに映る栞の姿を見たら自制が効かなくなるような気がして。
「どうかな、涼? 気持ちぃ?」
「……う、うん」
正直気持ちいいのかどうなんて、さっぱりわからないが──俺はとりあえず頷いておいた。
栞はきっと、俺をお世話することを楽しんでる。そこに水を差すことだけはできなかった。
「んしょっ、と。こんなもんかなぁ? 涼、洗い足りなそうなところはなぁい?」
「……たぶん、大丈夫。ありがと、栞」
「えへへ、どういたしまして。それじゃ──」
あとはもう、流して終わり。どうにか理性を飛ばさずに耐え抜いた自分を褒めて──
「次は前だね。涼、こっち向いて」
「うん、わかっ──えぇっ?! 前もっ?!」
どうやら俺は、まだ耐え抜いていなかったらしい。
落ちたタオルは腰に戻しているけれど、前を洗われるのはまずい。自分がどうなってるのかなんて、見ないでもわかる。
なのに栞はさも当然のように言う。
「背中だけ洗ったって意味ないでしょー? だからね、全身くまなく、隅々まで私がきれいきれいしてあげる」
栞は俺の逃げ場を塞ぐように、またべったりと背中に張り付いた。
今日の栞は、本当に容赦がない。
絶対、俺が動揺することを理解してやってる。
「いや……前は自分で洗えるっていうか。えっと、その……」
「やーだぁ! 私がしたいんだもん。ねぇ、いいでしょぉ?」
耳元で、甘えるような声で栞がさえずる。
言葉では断りきれないことを悟った俺は、無言を貫いて、じっと耐える。やがて、栞は小さく息を吐いた。
「むぅ……。強情だなぁ、涼は。いいもんっ、こっち向いてくれないならこのまま洗っちゃうから」
そう言うと、栞はするりと俺の胸元に手を伸ばしてきた。まるで後ろから抱きしめられているみたいになって、密着感がさらに増す。
「ちょっと、栞……?! これは、さすがに」
俺の頭の中は、とっくにぐちゃぐちゃだ。
なんのために目を閉じていたのか、その理由すら希薄になってきた。
「さすがに、なぁに? ほらほら、こっち向いてくれた方が洗いやすいよ? どうせ洗われるんだから、素直に言うこと聞いた方がいいと思うなぁ?」
「……でも、俺」
「涼がどうなってるのかなんて、もうわかってるよ。だから、恥ずかしがらなくていいの。私がぜーんぶきれいにしてあげるから、ね?」
その言葉で、俺はあっさりと陥落した。
本当に隅々まで、余すところなく栞の手で磨き上げられて、気持ちいいと思ってしまった自分が情けない。
栞はシャワーで泡を流しながら、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
「ちゃんときれいにできて偉かったねぇ。いい子いい子」
「……その褒め方、完全に子供扱いじゃん」
「だって、なかなか洗わせてくれないんだもん。なんかお風呂嫌いな子供みたいっていうか。でも──涼はしっかり男の子だったよね」
「……それ、どこを──」
しまった、と思った時には遅かった。
……俺、なんてこと聞いてんだろ。
背中を丸めると、栞がちょんとそこに触れた。そして、つぅっと指先を滑らせる。
「背中とか、胸板とか、かなぁ。涼って細身だけど、思ったよりも筋肉あるなぁって思ったの。私と全然違うんだもん」
「え……そこ?」
なんだか、肩透かしを食らった気分だった。
「ふふっ。涼はどこのことだと思ってたのかなぁ? なーんて、わかってるけどね。どうする? 聞きたい?」
「……遠慮しときます」
感想なんて聞かされたら、今度こそ恥ずか死ぬ。さっきからずっと、耳まで熱いのに。
それでようやく栞も満足したのか、シャワーを止め、少しだけ俺から離れた。天国と地獄が入り混じったような時間が、ついに終わりを告げた。
かと思ったが──
「じゃあ、今回は言わないでおいてあげるね。というわけでぇ──次は涼が私のこと、洗ってくれる?」
まだあるの?!
しかも今度は俺が栞を洗えって?!
「無理無理無理っ! 無理だって! そんなんしたら、俺、どうにかなっちゃうって! ──っ?!」
俺は飛び上がり、振り向く。そして、叫んだ勢いでつい、目を開いてしまった。
そこには、湯気の向こう側に素肌を晒す栞がいた。
けれど、恥ずかしそうに頬を真っ赤に染め、申し訳程度に手と腕で身体を隠していた。
「……やっと、見てくれたね?」
「ご、ごめっ……!」
咄嗟に横を向くと、栞は身体を隠すのをやめ、俺の頭を両手で掴んで自分に向けさせた。
「ちゃんと見てくれなきゃ、や。私だって、恥ずかしいんだよ?」
「なら、なんで……?」
「それはね──」
栞はすとんと、俺がさっきまで座っていたバスチェアに腰を落として背を向けた。そこから顔だけ振り向き、見上げてくる。
「……涼が洗ってくれたら、教えたげる」
二度目の敗北感。
でもなぜか、悔しくない。
どうして恥ずかしいのを我慢してまで、栞がここまでするのか。それを知りたいと思ったから。
俺は無言でボディソープを泡立てて、それをたっぷり手ですくい、栞の背中に触れた。
「……んっ。やっぱり……ちょっとくすぐったいね」
身体も声も震わせながら、それでも栞は嬉しそうに笑う。
「でも……いいよ。涼の好きなように、洗って?」
蚊の鳴くような、小さな声。
その声が、俺の中のなにかにヒビを入れた気がした。




