第103話 臆病を捨てた夜と、覚醒の夜
洗っているのは背中とはいえ、栞の肌は柔らかく、絹のように白く滑らかで繊細だった。少しでも爪が触れたら傷付けてしまう気がして、俺は細心の注意を払って手を滑らせる。
だんだんと自分がなにをしているのか曖昧になりながら、それでも俺は、感触を確かめるように泡を広げていった。
「はぁ……涼の手、やっぱり好きだなぁ」
ぽつりと、噛みしめるように栞が言う。
自分の中で、なにかが軋みを上げる音がした。
心と身体がバラバラになってしまいそうで、俺は湯温を確認してからシャワーを栞の背中に向けた。
さぁっと泡が流れていき、また栞の素肌が顕になる。ゆっくりと振り向いて俺を見上げた栞の顔は、なぜか不服そうだった。
「……もう流しちゃうの? 前は洗ってくれないの?」
「だ、だって……」
俺が洗われるのと、俺が栞を洗うのでは、わけが違う。興味はある。触れたいとも思う。
でも、俺は──
「……ご、ごめん。今は、これが限界。あとは、自分で洗って」
背中の泡だけしっかりと流し切り、逃げるように湯船にどぼんと身体を沈めた。そして、ハッとする。
……いや。なんで出てかなかったんだろ、俺。
心を鎮めるなら、その方がよかったはずなのに。
まださっきの答えを聞いていないからなのか。
それとも、栞を残して出ていくのが忍びなかったからなのか。
どちらにせよ、今さら出ていくこともできずに、俺は栞から視線をそらした。
「ぶー……涼のケチっ」
反論はしなかった。代わりに、口元まで湯につかり、ぶくぶくと息を吐き出した。
口ではケチだケチだと言いつつも、栞は自分で身体を洗い始めたらしい。しばらくして、シャワーの音。それがやむと、ぴちゃんと水音が響いた。
「私も入るから、ちょっと詰めてくれる?」
俺は咄嗟に、身体を縮めた。そして、できた隙間に栞の右足が沈む。続いて左足、それから、すらっとしたふともも、ぷりんと張りのあるお尻、さっきまで触れていた背中が、順にゆっくりと目の前を通過していった。
最終的に、栞は強引に俺の脚と脚の間にすっぽりと収まり、背中を預けてくる。
「……な、なんで普通に入ってきてるの?」
「え? だって、せっかくお湯ためたのに、浸からなかったらもったいないでしょ? というわけで、涼──ぎゅってして?」
なにがどう「というわけで」なのか理解に苦しむが、栞にハグを求められると身体が勝手に動いてしまう。俺は半ば無意識に、栞のお腹に腕を回して引き寄せた。
細くくびれた栞のお腹。そのくせふにふにと柔らかくて、自分との違いを思い知らされる。わかりきってることだけど、女の子なんだって、強く感じた。
栞は小さく身じろぎをして、顔だけをこちらに向ける。気付いた時には、ちゅっ、とキスをされていた。
「涼って、こんな時でも紳士だよね。別に、どこ触ってくれてもいいのに」
「だからっ、いきなり変なとこ触ったりしないってば!」
「……私の胸って、変なとこなの? 涼はこれ、嫌い?」
栞の手が、俺の手に重なる。少しだけ持ち上げられると、ぷにっと、さらに柔らかな感触が伝わってきた。
「いやっ、それは言葉の綾というか……。別に変じゃないし、きれいだとは、思うよ」
「なら、どうして触ってくれないの? 私、もっと涼に触れてほしいよ。こうして優しくぎゅってしてもらうのも好きだけど、全然足りないもん。私の身体、涼に触れられてないところがなくなるくらいに──涼の方から……してほしいのに」
「……栞、もしかしてそれって」
「うん、さっきの答えだよ。私が、こうやってお風呂に入ってきた理由。この先も、私から言った方が、いい……? 私がどうしてほしいのか、まだわかってくれないの?」
栞の言葉が、やけにぐさっと突き刺さった。俺はたぶん、栞を気遣うふりをして、自分から誘うのを怖がってた。
昨日だって、言い出したのは栞からだった。
なのに今日も、栞から言わせようとしてる。
そんな自分が情けなさすぎて、俺は栞を強く抱き寄せた。
「……ごめん、栞。俺、臆病で、ごめん。ただ、その前に一つだけ確認させて」
「うん。なぁに?」
「身体は、平気? 昨日の痛みとか、残ってない?」
そう尋ねると、栞は少しだけ眉を下げ、困ったように笑う。
「……やっぱりねぇ。涼のことだから、そんなようなこと考えてるんじゃないかなぁって思ってたよ」
「え、わかってたの?」
「わかるよ、それくらい。だって、私、涼の彼女だもん。涼のそういう不器用で優しいところ、好きになったんだもん」
栞は湯面を波打たせながらくるりと反転して、俺に向き直った。そうして、真正面から身体を押し付けてくる。
「心配してくれて、ありがと。でもね、本当に大丈夫だから。というか、多少痛くっても、それは涼がくれたものだもん。そう思うだけでね、全部幸せに変わっちゃうの」
「……栞」
自制とか我慢とか、そういうものが全部バカらしくなってしまった。だって、そんなことを栞は求めてない。
それでも、栞が好きだと言ってくれる優しさだけは捨てずに──
「……栞、好きだよ。好きすぎて、本当はおかしくなりそうだった」
耳元でそっと囁いて、唇を奪う。二度、三度と軽く触れ合わせて、それから舌で栞の唇をこじ開けた。
栞は抵抗もせず、俺を受け入れる。お互いを貪るように舌を絡め合わせて。顔を離すと、俺たちの間につぅっと橋がかかった。
「……涼、好きっ。もっと、おかしくなって?」
「うん。俺、栞としたい」
「いいよ、しよ。私も、もう──」
我慢できない。
きっと栞はそう言おうとしたのだろう。
けれど、俺はそれをキスで遮った。
「……もうちょっとだけ、待って。俺の部屋、行こ。ここでじゃ、なにも準備ないし」
「あ、そっか。そうだったね。えへへ……焦りすぎちゃった」
「そういうとこ、栞らしいね。可愛いよ」
「やんっ。今本当にギリギリなんだから、そういうこと言っちゃヤダぁ。だからほら、早くお風呂あがろ?」
「……はいはい」
俺たちは同時に、湯船から立ち上がった。水気を拭き取った後は、寝間着を着るのももどかしく、タオルをそのまま身体に巻きつけた。
「涼っ、早く、早くぅ」
なんて急かすくせに、俺の部屋にたどり着くまでの間、栞は何度も何度も立ち止まり、キスをねだった。
どうにか部屋のドアを開けると、二人してベッドへと倒れ込む。
「……やっと、お部屋ついたね?」
「栞が何回も止まるから」
「だってぇ、いっぱいキスしたいもん」
「どうせ今からだって、たくさんするのに。というか、したい」
「うん、して。たくさん、して」
「わかったよ」
俺は静かに頷いて、栞のバスタオルを取り去った。それに合わせて、栞も俺のバスタオルを引っ剥がして床へ落とす。
またキスを落とし、俺は自分の意思で、抗いがたい魅力を放つ膨らみに手を置いた。
蒸し暑くて甘い、夏の夜の空気。
俺も栞も、頭が完全に逆上せていた。
求めて、求められて、また一つになって。
昨日の今日だというのに、栞はずっと嬉しそうに声を響かせていて──
たぶんこの日、栞はなにかに覚醒したんだと思う。




