第94話 スパルタ先生の、隠しきれない本性
楓さんをすっかり意気消沈させたところで、栞がぱちんと手を打った。
「さてっ。あんまり時間もないことだし、さっさと始めよっか。ほら、彩香はこっち来るっ!」
「あっ、やっ、しおりんっ?! お願いだから手加減、手加減してぇっ!」
「問答無用だよっ! 彩香から頼ってきたんでしょ? つべこべ言わずに、きりきり動いて!」
「そ、そんなぁっ……!」
楓さんはずるずると引きずられるように、リビングへと連行されていった。その後ろ姿を見て、遥がぽつりとこぼした。
「……黒羽さんって、案外容赦ねぇのな。ちょっと意外だわ」
「あはは……俺にはそんなことないんだけどねぇ」
「そりゃそうだろ。なんつーか、涼にはダダ甘な感じだしよ。さすが涼、愛されてんな」
遥はからかうように、肘で脇腹を突いてくる。俺は無性に恥ずかしくなって、リビングへと足を向けた。
「……とにかく、遥もあがりなよ。いつまでもこんなとこいないでさ」
「おう、邪魔するぜ。んで、邪魔するついでに──すまんが、涼……俺のことも助けてくれ」
急に遥は真面目くさった顔をして、拝むように手を合わせた。
「……あれ? 遥は自力でなんとかなりそうなんじゃなかったっけ?」
「いやまぁ、終わりそうっちゃ終わりそうなんだが……やっぱちょこちょこわかんねぇのがあんだよなぁ。涼ってさ、前のテストの順位よかっただろ?」
「……知ってたの?」
確かに、夏休み前の期末では栞のおかげで上位に食い込めた。でも、その頃はまだ、遥とは友人どころか、まともに話したこともなかったのに。
「まぁな。うちの学校、上位は張り出されんじゃん? そこにクラスメイトの名前がありゃ普通にわかんだろ。てことでさ、頼むっ!」
あっけらかんと言う遥に、俺はなんだかむず痒さを覚えた。
……そっか。
栞だけじゃなくて、他にも見てくれる人がいたんだ。俺がただ、殻にこもってただけで──
俺は、わざとらしくため息をついた。
「まったく、調子いいんだから。でも、いいよ。どうせ栞が楓さんの面倒見てる間は暇だからね」
「涼ならそう言ってくれると思ってたぜ! やっぱ持つべきものは優秀な友だな」
……本当、調子いいなぁ。
まぁでも、頼られるのも悪い気はしないかな。
今まで、こういうことなかったし。
「じゃあ俺たちも行こっか」
「だな」
遥を引き連れてリビングに入ると、楓さんは早速、栞にテキストを開かされていた。
「いい? 手伝うとは言ったけど、基本は自分でやるんだよ! それでもわかんないところがあったらすぐに言うこと! 悩んでもどうせ時間の無駄なんだから。まずは一時間きっちり集中ね! わかった?」
「は、はいぃ……!」
スパルタモードの栞先生かぁ。
厳しそうだけど──
……これはこれでありかも。
なんてことを考えてしまう俺は、すっかり栞に染められてしまっているのだろう。
「とりあえず遥も準備しときなよ。俺、みんなの飲み物持ってくるから」
「あ、涼。さすが、気が利くね」
俺にはにっこりと笑ってくれた栞だったが──
「ありがとー、高原くん! 外暑かったから助かるよぉっ!」
「ほらそこっ! 無駄口叩かない!」
すぐにピリッとした空気を纏い直した。
「なんでぇ?! お礼言うのもダメなの!」
「今の彩香にそんな余裕あるわけないでしょ! いいから手を動かすの!」
「ひぃーっ……!」
「……あ、あはは」
俺はもう、笑うしかなかった。
今日の栞は、本気で容赦がない。なぜか遥まで、大慌てでバッグを漁っていた。
カランッと氷の溶ける音。
カチカチと時を刻む時計の音。
そして、カリカリとペンを走らせる音が──
ピタリと止まった。
「あーん、難しいよぉ……! なんだか眠くなってきちゃったぁ……」
開始から十五分。
早くも楓さんの集中力は切れてしまったらしい。でもそこは、スパルタモードの栞先生。楓さんの左頬をむにっとつねった。
「……彩香? 寝たらどうなるか、わかってるよね?」
「もうつねってるっ、つねってるからぁっ!」
「でも、眠気は覚めるでしょ? これ以上つねられたくなかったら──ね?」
「が、頑張りますっ……!」
楓さんはまた、テキストとノートにかじりついた。それを見て、栞は満足そうに頷く。
「また眠くなったらいつでも言ってね。ほっぺが伸び伸びになるまでつねってあげるからね」
「もう大丈夫……のはず!」
自信なさ気な言葉の通り──
楓さんはかなりの頻度で頬をむぎゅっとされることになったわけだが。
不意に、ローテーブルの下に置いていた手に、なにかがちょんと触れた。見て確かめるまでもなく、栞の指先だった。
栞はすりすりと俺の手を撫でてくる。横目で顔を盗み見ると、視線がぶつかった。
口では楓さんにあれこれと教えを説いているのに、器用というか、相変わらず甘えん坊というか。俺は遥の面倒を見ながら、栞と指を絡ませ合った。
いつバレるかというスリルが、最高のスパイスみたいで。俺たちは、チラチラと視線だけでやり取りを交わし──
「……あのー、しおりん、高原くん? 無言でイチャつかれるとやりづらいんだけど?」
あっさりとバレた。
それでも、栞も俺も手を離さなかった。むしろ、栞はより強く手を握ってくる。
そして、
「……なにか問題でもある? 気になるのは集中してない証拠だよ!」
キッと楓さんを睨みつけた。
「いえっ! なんでもなかったです! あー、これはどうやればいいんだったかなぁ?」
白々しく呟きながら、楓さんは勉強に戻っていく。そうして、どうにか最初の一時間を乗り切った。
「はい、そこまで。休憩にしよ」
栞がパンパンと手を鳴らす。
まるで、本物の先生みたいな仕草だった。
「正直、もうちょっと進んでほしかったけど──まぁこんなもんかな。お疲れ様、彩香。それから、涼と柊木くんもね」
「本当に休憩していいの?! もう、ほっぺつねられない?」
楓さんが自分の左頬をすりすりと撫でた。そこは何度も栞につねられて、ほんのりと赤くなっている。
「休憩中にはしないってば。私だって、したくてしたわけじゃないもん」
「そのわりには、思いっきりやられたんですけどぉ……」
「それは寝ようとする彩香が悪いのっ! 私が乱暴者みたいに言わないで! あんまり言うと、お昼ご飯抜きにしちゃうんだから!」
「お昼ご飯?!」
痛みをすっかり忘れてしまったみたいに、楓さんが飛び上がった。遥も驚いた顔をする。
「……俺らの分も、黒羽さんが作ってくれんのか?」
「いらないならそれでもいいけど──あっ、なんか持ってきてたりする?」
「いや、慌てて来たからすっかり忘れてたわ。そこまで気ぃ遣わせちゃってすまんな……」
「いいよいいよ。どうせ涼に作ってあげる予定だったし、ついでだもん」
「わーいっ、しおりのんご飯だぁっ! そういえばさっきからなんかいい匂いしてるよね」
「……言われてみればそうかも。ねぇ栞、この匂いって、もしかして」
ほんのりと酸味のある美味しそうな香りが、リビングまで漂ってきていた。
「うん、もうバレちゃったよね。オムライス、だよ」
「……オムライス」
不意に身体が、ぐっと空腹を訴えてくる。
このひとことだけで、完全にオムライスの口になってしまった。
そんな俺を見て──
「というわけで、ちゃちゃっと作ってきちゃうね?」
栞は意味ありげに、ぱちりとウインクを飛ばしてきた。




