第92話 危機感のない絶望感と、幼児退行した栞
ブルブルと鳴り続ける二台のスマホを前にして、俺と栞は顔を見合わせた。
「……そっちは、楓さんから?」
「……そういう涼は、柊木くんからだよね?」
「うん。まぁ遥からなのはいいんだけど……二人同時にかけてくるなんて、なにかあったのかな?」
なんとなく、面倒事の香りがする。
同じものを栞も感じたようで、怪訝そうに眉間にしわを寄せていた。
「さぁ……? そんなの私にわかるわけないよ。でもこのままにはできないし、とりあえず出てみる?」
「……そうだね。そうしよっか」
さすがに、友人からの着信を無視するのは気が引ける。お互いにスマホを手に取り、通話ボタンをタップして耳に押し当てた。
「おはよう、遥」
『……おぅ、涼』
返ってきたのは、疲れ切ったような遥の声。
さらにその向こう側から、楓さんの声が聞こえた気が──というか、はっきり聞こえた。
『しおりーんっ!』
と、かなりの大ボリュームで。その声は栞の耳を直撃したらしく、眉間のしわがさらに深くなっていた。
「ちょっと彩香……声がでかい」
栞がそう言うと、それからは俺の方には楓さんの声は聞こえなくなった。
「で、どうしたの?」
『……それがだな』
遥は言いにくそうに、一度言葉を区切る。
『わりぃんだけどさぁ……ちょっと黒羽さん貸してくんね?』
「は? 絶対嫌だけど?」
俺は反射的にそう答えていた。
栞を貸せとは、いったいどういう了見なんだろう。俺の大切な彼女を、そんな物みたいに。
それでも、遥は食い下がってくる。
『まぁそう言うなよ。頼むから最後まで聞いてくれって』
「……とりあえず言ってみてよ」
『貸してくれってのはさ、俺にじゃなくて彩になんだよ。っとにこのアホは……』
「楓さんが、なんだって?」
『いやな、昨日のことなんだけどよぉ……彩がさ、言ったんだよ。登校日に課題回収されなくてよかったよねぇ──ってな。この意味、わかるか?』
「……あー」
これ以上の説明は不要だった。
うちの学校は進学校なだけあって、普段から出される課題の量が多い。夏休みも残り三分の一ほどになった今、終わる算段がつかなくて泣きついてきたってところだろう。
「それなら遥が助けてあげたらいいんじゃないの? なんで俺に?」
『……俺もまだ終わってねぇんだよ。彩ほど絶望的じゃねぇけど、手伝ってやれる余裕なんてねぇんだわ。んで彩が、黒羽さんに助けてもらおうって言い出しやがってさ。今直接お願いさせてっけど、涼から頼んでもらう方が確実なんじゃねぇかって思ってな』
「あぁ、だから二人同時にかけてきたわけね」
『……同時に、って?』
考え込むように、一瞬、遥の声が途切れた。
『……もしかして、黒羽さんもそこにいんのか?』
「あ、うん。目の前で楓さんと話してるよ」
『へぇ。お前ら、相変わらず一緒にいんだな。お熱いことだぜ』
「……そっちだって楓さんと一緒じゃん。さっき楓さんの声聞こえてきたよ」
『あー、まぁそうだな。でも、そういうことなら話ははえぇな。ひとまずこっち切るわ。彩にスピーカーにさせっからさ、黒羽さんにもしてもらってくれや』
「わかっ──」
プツッ。
……いや、切るのが早いんだって。
すっかり沈黙したスマホを置いて栞を見ると、困ったような顔がそこにあった。
「え、なに? なんでスピーカー? まぁいいけど──」
栞がスマホを操作してテーブルの中央に置くと、そこから楓さんの声が響き渡った。
『やっほーっ、たっかはらくーんっ! 元気してたー?!』
相変わらず明るくて、パワフルで、どこか能天気な楓さんの声。俺は返事をしながら、つい首を傾げていた。
「う、うん。元気は元気だよ」
『そっかそっかぁ! やっぱり元気が一番だよね! 遥から聞いたと思うけど──ごめんねぇ、突然。つーい遊ぶのが楽しくなっちゃってさぁ、あはははっ』
……これで、絶望的?
楽観的の間違いなんじゃなくて?
遥の言うような危機感はまったく見えないが──
……まぁ、遥があそこまで疲れてるんだから、本当に大変なんだろうなぁ。
このまま放置して二学期が始まれば、きっと楓さんは居残りをさせられたり、さらに厳しい期限に追われることになるはずで。それはちょっと可哀想だなぁと思ってしまう。
「……どうしよっか、栞? 助けてあげる?」
「そうだねぇ。自業自得だとは思うけど……ほってはおけないもんねぇ」
『まじか、黒羽さん?!』
『いいのっ?! 助けてくれるの?!』
「だってしょうがないじゃない。このままだと終わりそうにないんでしょ?」
『えへへ……自分だけだと半分も終わらないと思う』
「……まったくもう。どんだけ溜め込んでたのよ」
栞はため息をついて、苦笑した。
でも、ダメとは言わない。
こういう栞の面倒見がいいところも、俺はわりと好きだったりする。おまけに、教えるのもうまいし。
「そうと決まれば、早い方がいいよね。どうしよっか? うちに来てもらう? 今なら親もいないしさ」
「そうだね。私たちが出向くってのも、なんか違う気がするしね」
『高原くんち?! わーいっ、行きたい行きたいっ!』
楓さんの声が弾む。
けれど、遥がそれを許さなかった。
『……おい彩。先に言っとくが遊びに行くんじゃねぇからな。わりぃな、涼、黒羽さん。こいつには道中みっちり説教しとくからさ』
『やーだぁっ! お説教ならさっきもしてたじゃん!』
『あんなもんじゃ全然足りねぇんだよ! お前はもっと反省しやがれ! っとに毎年毎年よぉ!』
「まぁまぁ遥……それくらいにしてあげなよ。とにかく、近くまで来たら連絡して。駅までは迎えに行くからさ」
『すまねぇな、涼。恩に着るぜ。黒羽さんもな』
ひとまずうちの最寄り駅を教えて通話を切ると、栞はぺしゃんとテーブルに突っ伏した。
「あーあ……せっかく涼と二人きりだったのに、邪魔が入っちゃったなぁ」
つまらなそうに唇を尖らせているわりに、目だけは笑っている。栞もどこかで、この状況を楽しんでいるのかもしれない。
俺も笑って、栞の頭に手を置いた。
「そう言わないの。登校日の時だってさ、二人に助けられたんだから」
「わかってるよぉ。だから断らなかったんだもん」
「うん。栞は優しいね」
「えへへ、褒められちゃった。でも──」
栞はぴょんと椅子から立ち上がる。
そして、俺の真横に立って、手を大きく広げた。
「涼、だっこっ! 連絡来るまで、いっぱいよしよしして?」
さっきまではぶつくさ言いつつも頼れるお姉さん風だったのに、いきなり幼児退行してしまった栞に、俺は思わず吹き出した。
「……ぷっ。あはは、子供じゃん」
「あーっ、ひどーいっ! どうして笑うのー?!」
「いや、だって──栞が可愛くて」
「ぶー……涼のばかぁ。あんまり意地悪言うと、拗ねちゃうよ?」
「ごめんごめん。そんなつもりはないって。でも、さすがに椅子でだっこはしんどいから──栞、こっちおいで」
俺は栞の手を引いて、リビングのソファに移動した。先に座って膝をぽんぽんと叩くと、すぐに栞が飛び乗ってくる。
「ほら、これで満足?」
「すると思う? ちゅーもしてくれないと、さっきの許してあげないんだから」
「……はいはい、仰せのままに」
今日の栞は、輪をかけて甘えん坊だった。でも、そういうところも可愛くて仕方がない。
そっと口付けると、栞はふにゃりと微笑んで、俺の胸元に頬を擦り付けてくる。
楓さんのあの様子だと、栞も苦労することになるだろうし──
俺は遥から連絡が来るまで、栞の気が済むまで甘やかすのだった。




