第91話 苦いコーヒーと、甘いキス
「……しっかし、どうしようかなぁ」
一階のキッチンに降りてきた俺は、やかんを火にかけ、一人呟いた。
勢い込んで今日の予定を考え始めたものの、良い案がさっぱりなにも思い付かない。
いい一日にする。
言葉にすれば簡単だけれど、実際に考えてみると、これがなかなか難しい。
花火大会やショッピングモールへデートに繰り出したこともあるが、ここ最近の俺たちといえば家にこもりきりだった。
夏休みの課題を二人でこなして、その後は俺の部屋でのんびり過ごす。それがお決まりになっている。
けれど、課題は先日全て片付け終えたばかり。そうなるともう、ひたすらのんびりするしかなくなるわけで──
「……なんて。一人で考えても仕方ないか」
栞と一緒に過ごす時間だ。なら、二人で考えた方がいいに決まってる。
やがて、やかんがしゅんしゅんと音を立て始めて、俺は考えるのをやめた。
食器棚からマグカップを二つ取り出して、インスタントコーヒーの粉を入れる。そこにお湯を注ぐと、ふわりと香ばしい匂いが立ち昇った。
その香りに刺激されて、ふと思い付く。
……今度、ハンドドリップに挑戦してみるのもいいかもなぁ。
栞が朝食を作ってくれている横で、俺がコーヒーを淹れる。なかなか悪くない──というか、すごくいい。
そんな未来を妄想していると、シャワーを終えた栞が頭をタオルで拭きながら戻ってきた。
その姿に、少しだけドキリとする。
濡れていても、艷やかな髪。キャミソールとショートパンツという無防備な服装も相まって、俺の心臓を直撃した。
「ただいま、シャワーありがとね。なんかいい匂いがすると思ったら、コーヒーだったんだね」
「う、うん……ちゃんと、栞の分もあるよ」
「本当っ? やったぁっ! ちょうど喉渇いたなぁって思ってたところなの」
栞はぴょんと跳ねるように近付いてきて、ぴったりと俺の背中に張り付いた。コーヒーの香りに、甘いシャンプーの香りが混ざり合う。
また一つ関係が進んでも、俺は栞にドキドキさせられっぱなしだった。その緊張を悟られないように尋ねる。
「……栞はアイスにする? それとも、このままホットがいい?」
「暑いし、アイスがいいかなぁ」
「ん、了解」
栞の分のカップに氷をいくつか放り込む。スプーンでからからとかき混ぜているうちに全て溶けてしまったので、さらに追加する。
しっかり冷えたのを確認して差し出すと、ようやく栞は俺の背中から離れていった。じっとカップに視線を落とす栞を横目に、一口コーヒーを啜る。
ほどよい苦みが、少しずつ心を解してくれるようだった。栞は俺が飲む様子をしばらく眺めて、自分もカップに口をつける。
ちびり、と舐めるようにコーヒーを飲んだ瞬間、栞は顔をしかめた。
「うっ……やっぱりにがぁい」
「あ、ごめん……ミルクとガムシロ忘れてたよ。栞は甘党だし、必要だよね」
慌てて冷蔵庫を開けようとした俺を、栞は服をちょこんと摘んで止めた。
「ううん……このままで、いいよ。甘い方が好きなのは事実だけどね──今は涼と同じの、飲みたい気分だったの」
……そんなこと言うの、ずるいじゃん。
起きてからずっと、可愛いことばっかり言って──
栞は、俺をどうしたいわけ?
もう辛抱堪らずに、俺は栞の頭を撫で回した。
どうせこの後乾かしてセットするんだし、多少乱れても構わないだろう。栞の髪は濡れていても触り心地がよくて、いくらでも撫でられそうだった。
「えへへ」
栞の目が、気持ちよさそうに細くなる。理性がぐらぐらと揺れて、俺は栞の頬に指先を滑らせて、唇を奪った。
栞はぱちりと瞬きをしてから、くすりと笑う。
「ふふっ、どうしたの? さっきのキスだけじゃ、足りなかった?」
「いや、だって……おはようのキス、俺からはしてなかったから」
「ふぅん? 本当にそれだけなのかなぁ? 理由がないとキスしてくれないのかなぁ?」
完全にからかわれてる。それがわかっていながら、俺は栞の挑発に乗っかった。
「……理由なんてなくても、いくらでもしたいよ」
「んふっ、正直でよろしいっ。ほら、いいよ。涼専用の、いつでもキスしていい唇は──ここだよ?」
栞は人差し指で、自分の唇をそっと撫でた。
その仕草に誘われるように、俺はまた、栞と唇を重ね合わせる。コーヒーの苦味も、栞とのキスに甘く溶けていくようで──
俺たちは、二人きりなのをいいことに、キッチンで心ゆくまでキスを交わした。
とはいえ、ほどほどのところでお互いに我に返る。あまり夢中になりすぎると、時間なんていくらでも過ぎていってしまうのをわかっているから。
俺はシャワーに行けないし、栞も髪を乾かせない。朝食だって食べられない。
なにも焦ることはない。
どうせ今日は、まるまる一日栞と一緒なのだから。
***
シャワーから戻ると、栞がフライパンを片手に俺を出迎えた。
「あっ。おかえり、涼。ねぇ、涼は目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」
「スクランブルエッグかな」
少しだけ迷いながら答えると、栞は卵二つをボールに割り入れた。
「はぁいっ。すぐ作っちゃうから、ちょっと待っててね」
「うん。じゃあ、その間にトーストでも焼いとくよ」
「ありがと。助かるよ」
こんな短い会話でも、今の俺は全部を幸福感に変換してしまう。
何気なくて、でも、特別な朝。
いつか、これを当たり前にしたいと夢想するには十分すぎた。
そうして、二人で準備をして。
二人並んでの食事が始まる。
栞の作ってくれたスクランブルエッグは、ほんのりと甘くて、とろりと滑らかで、優しい味がした。
「ところで、栞。今日、なにかしたいことってある?」
「したいこと? なんで?」
「いや、だってさ……このままだと、気付いたらまた夜になってそうじゃん?」
「……確かにねぇ。でも、それもありかなぁって思うよ。どこかに出かけたりとか、特別なことがなくてもね──涼がいるもん。誰にも邪魔されずに、時間だけが過ぎてくっていうのも悪くないんじゃないかなぁ」
……なんだ。
俺だけじゃ、なかったんだ。
二人でいるだけで、特別だって思ってたの。
「俺もっ──」
そう言いかけた直後。
ブーッ、ブーッ。
テーブルの上に置かれた俺と栞のスマホが、同時に震え出した。
通話の着信。
その相手は──
「……遥?」
「……彩香?」
登校日に連絡先を交換したばかりの、俺たちの友人だった。




