第90話 二人で迎える、初めての朝
遠くの方に聞こえる蝉の声。
瞼の向こうで弾ける光。
そんな朝の気配を感じて、眠りの底から意識が浮き上がる。
冷房を効かせすぎたのか、少しだけ肌寒い。ふと腕の中に温もりがあることに気が付いて、微睡みの中で身を寄せる。
柔らかくて、肌に吸い付くみたいに滑らかで、さらにいい匂いまでして。その大好きな香りを胸いっぱいに吸い込むと、身体の芯まで幸福感で満たされた。
寝起きのゆるゆるになった頭が夢中でそれを求めて、ぎゅっと抱き寄せる。それは俺の腕の中でもそりと動くと、すり寄り、脚を絡ませてきた。
この心地よい温もりに身を任せて、もうひと眠りといきたいところだが──身体はすでに目覚めに向かっている。
ゆっくりと目を開くと、ぼやけた視界いっぱいに栞の顔があった。焦点が合わないほど近く、でも、気持ちよさそうに眠っているのはわかる。すぅすぅと規則的な寝息を立て、頬は無防備に緩んでいた。
……可愛いなぁ。
安心しきったような寝顔が、そこにある。目覚めて最初に目にしたのが栞だったことが嬉しくて、半ば無意識に頭を撫で、前髪を払って額にキスをした。
そこから視線を下げていくと、真っ白な肌があった。華奢な肩、きれいに浮き出た鎖骨のライン、それから、柔らかな胸の曲線がタオルケットの下へと消えている。
俺も栞も、裸のままだった。
……あぁ、そっか。
俺たち、ついに。
昨夜の記憶が鮮明に蘇ってくる。心と身体を重ね合わせた、夢のような時間。でも、決して夢なんかじゃなかった。
あの後、栞を寝かしつけたところで記憶は途切れている。どうやら、俺もそのまま寝落ちしてしまったらしい。
胸の奥で狂おしいほど愛おしさが膨らんで、俺はまた栞の頭を撫でた。そうしていると、栞は小さく身じろぎをして、ゆっくりと目を開ける。寝起きのぼんやりとした瞳が、俺を映し出した。
「ん……ぅん。りょ、う……?」
「うん。おはよ、栞」
「えへ……おはよぉ」
寝ぼけた栞の甘えたがりなほにゃほにゃ声が、心地よく耳に響く。栞からも抱きついてきて、押し付けられた胸が俺たちの間でふにゅりと形を変えた。
朝から大変刺激的だけど、それでも、興奮よりも愛おしさが勝る。頭を撫でていた手を、背中に滑らせると──
「……ひゃんっ」
栞の口から、可愛らしい悲鳴がもれた。
「……りょ、涼?」
栞はびっくりしたみたいにぱちぱちと瞬きをして、俺を見つめてくる。自分の反応に驚いているのだろうか。俺はその原因を探るように、無言で栞の背中を上から下へと、つぅっと撫でてみた。
「ひゃ、う……ん、あっ」
ぴくぴくと震える栞の身体。
もしかすると、栞は背中が弱点なのかもしれない。思えば昨夜の栞はずっと仰向けだったわけで、俺も背中には触れていない。
栞が見せてくれる新たな反応に、俺はすっかり心を囚われてしまった。
「……栞。めちゃくちゃ可愛い」
俺の手で、こんなふうになってくれるのが嬉しい。もっと見たい。大好きな栞のことを、もっとよく知りたい。
自分にそう言い訳をして、お尻の手前で止めていた手で、下から上へと背筋をなぞる。
「あっ、ぅん……やっ、だめぇ……。涼、それっ……!」
……これは、ダメだ。
自分を抑えられそうにない。
あまりの可愛さにキスをしようと顔を近付けると、不意ににゅっと手が伸びてきて、両頬を摘まれた。そのまま、むにっと引き伸ばされる。
「ひ……ひふぉり?」
顔が引っ張られて、うまくしゃべれない。
おそらく変顔を晒しているであろう俺は、栞に軽く睨まれた。
「りょーう?」
「……ふぁい」
「こぉらっ! おいたしちゃダメでしょぉ?」
顔を真っ赤にして、唇を尖らせた栞に怒られてしまった。でも、これは完全に俺が悪い。調子に乗って、やりすぎた。
謝ろうと口を開きかけたところで、今度は顔がむぎゅっと押しつぶされる。口がタコみたいになっているのが、自分でもわかった。
「もうっ……寝起きにあんなことしたら、めっ! 恥ずかしいでしょっ!」
そう言って、栞はじっと俺の顔を見つめる。やがて、我慢の限界みたいに吹き出しながら、手を離した。
「……ぷっ。変な顔っ!」
さっきまでと変わって、栞は楽しそうに、俺をからかうようにくすくすと笑う。
「ひどっ! 栞がしたんでしょ?!」
「涼が私で遊ぶから、その仕返ししただけだもーん」
「うっ……ごめん」
「いーよっ、涼の可愛い顔も見れたことだしね。でもね、涼──」
栞は、恥ずかしそうに目を伏せる。
「朝からね、さっきみたいなことしちゃ、ダメだよ。私……その気になっちゃうから」
昨夜の出来事を経たせいか、栞の色気がぐっと増したような気がする。これだけで、頭がくらりとするくらいに。
見惚れて、息を呑む。
「それに、涼も……」
タオルケットの下で、栞の手がもぞもぞと動く。
そして──
「んにゃっ?!」
ちょんと、俺に触れてきた。
突然のことすぎて、思わず変な声が出た。
「ほら……ね?」
「いや……え、えっ?!」
……なにが、「ね?」なんだ?
俺はもう、なにも言えなかった。
けれど、栞に手玉に取られるのを喜んでいる自分がいる。
「だからね、だぁめっ! そういうのは、また夜に──だよ?」
そう言って、栞はベッドから降りた。腕と手で身体を隠しながら、床に散らばった服や下着をかき集めて身に着けていく。
「さぁてとっ。汗かいちゃったから、シャワー借りるね。涼もちゃんと起きるんだよ?」
「あ、うん……」
そうして、栞は俺の部屋を出ていった──かと思ったら、すぐに引き返してきた。
「……あれ? なにか忘れ物?」
「うん。大事なもの、忘れてたの」
栞はとことこと近付いてきて、俺の前で身を屈めた。そして満面の笑みで、ちゅっ、と軽くキスをくれる。
「えへへ。おはようの分、まだだったから。今日もいい一日にしようねっ!」
手を振りながら、栞は今度こそ風呂場へと向かっていった。俺はそれを呆然と見送り、ため息をつく。
……朝から栞が可愛くて困る。
こんなんじゃ、身が持たないって。
でもまぁ、いい一日にしようというのには全面的に同意だ。俺は大きく伸びをして、ベッドを抜け出した。
俺も後でシャワーを浴びるとして、ひとまず部屋着を身に着ける。
今日一日を栞とどう過ごすのか。それを考えるだけで、ワクワクと胸が踊った。




