第89話 一つになる、ということ
俺は栞の言葉をすぐには理解できなかった。
外されたボタン。広がった襟元から覗く白い肌と、深い谷間に視線が吸い込まれそうになって、慌てて目を逸らした。
「し、栞?! 自分がなに言ってるかわかってる?!」
「もちろん、わかってるよ。だからほら……余所見しちゃ、やだ」
栞の両手が俺の両頬を挟み込んで、無理やり視線を戻される。さっきまで怖がって泣いていたはずなのに、栞の瞳はまっ直ぐに俺を見つめていた。
「いや、でも……」
「……そうだよね。こんなの、おかしいよね。それくらい、自分でもわかってるよ。でもね、涼に我慢させたくないよ。それに、私も涼が好きすぎて我慢できなくなっちゃったの。涼の、せいだよ──涼が優しいことばっかり言うから、怖いって気持ち、全部どっかいっちゃったの」
「……栞」
「ねぇ、涼。ダメかな?」
「……ダメじゃ、ないけど──本当に、いいの?」
「うん、いい。あのね、一度しか言わないから──ちゃんと聞いててね」
「え……う、うん」
栞は目を閉じて、小さく息を吸い込む。
そして、また俺の目をじっと覗き込んだ。
「私の全部、涼にあげるから──私を全部、涼のものにして……?」
消え入りそうな声。
けれど、迷いのない声だった。
栞にここまで言わせてしまった自分が、ひどく情けなく思えた。
まだ早いんじゃないか、とか。
栞に嫌われたくない、とか。
これまでは、そんな気持ちで見ないふりをしてきた。でも、今は──
「……わかったよ、栞」
「本当っ?! なら──」
栞は慌てて、二つ目のボタンに手をかけた。俺はその手に自分の手をそっと重ねた。
「ちょっとだけ、待って」
「……なんで、止めるの? あ、もしかして……涼が脱がしたかった?」
「そ、そうじゃなくてっ……。一つだけ、栞の言葉を訂正したいっていうか」
「私の、言葉……?」
「うん。俺はさ、栞を自分のものにしたいなんて、思ってないよ。栞をね、所有物みたいに扱いたくないんだよ」
俺にだって、独占欲くらいある。でも、それがいきすぎれば、栞を縛り付けることになると思うから。
俺は、栞を思い通りにしたいわけじゃない。
栞には、栞の意思で俺の隣にいてほしい。
その上で、栞にはいつも笑っていてほしいから。
けれど、栞はよくわかっていなさそうな顔で小首を傾げた。
「……じゃあ、なんて言ったらいいの?」
「うーん……そうだねぇ。どう言うのが正解かはわかんないけど──たぶん、一つになる……ってことなんじゃないかな」
「一つに、って……ふふっ。なんかそれ、えっちだね?」
栞はいたずらっぽく、くすくすと笑う。
俺はなんだか少し恥ずかしくて、頬をかいた。
「もう……茶化さないでよ。真面目に言ってるのに」
「ごめんごめん。でも、なんとなく言いたいことはわかったよ。すごく嬉しい。ありがとね、涼。好きになったのが涼で、本当によかったよ」
「うん……これからもそう言ってもらえるように、俺、頑張るよ」
「なら、早速行動で示してもらっちゃおうかなぁ? ほら、涼──きて……? 私、もう待てないよぉ」
栞は俺に向かって、大きく手を広げる。
俺はその腕の中に飛び込みかけて、ふと動きを止めた。
「……その前に、鍵、返してもらっていいかな? それがないと、先に進めないでしょ」
「あっ、そうだったね。えへへ、うっかりしてたよ」
「まったくもう……。栞はせっかちなんだから」
笑いながら、鍵を受け取って引き出しを開けた。必要なものは、ちゃんとそこにあった。封を切り、中身を一個取り出してベッドへ戻る。
「……手際が悪くてごめんね」
「ううん。ここで完璧にされたら、逆に不安になっちゃうよ。でも、もう忘れ物はない? これで、できる?」
「じゃあ、一つだけ確認させてよ。たぶん俺、もう自分を止められないと思うけど……栞は、後悔しない?」
「しないよ、後悔なんて。だって私、涼が大好きだもん。涼じゃないと、絶対やなの。そんなの、知ってるくせに」
栞は、はっきりと答えた。
勢い任せじゃないことは、目を見ればわかる。
「……そうだね。俺も、栞が大好きだよ」
俺は緊張で軋む心臓の鼓動を感じながら、ゆっくりと栞に覆い被さった。
キスをして。
贈り物のラッピングを解くように、一枚ずつ服を脱がせて。俺のは、栞に引っ剥がされて。
そうして触れ合った肌が、焼けるように熱い。
「……いいよ、涼。涼の、好きなようにして」
「……わかった」
それ以上の言葉は、もう不要だった。
ただただ栞が愛おしくて、大切にしたいという想いだけが、俺を支配していた。
決して壊してしまわないように、慎重に身体を重ねる。栞はかすかに震えながら、俺を受け入れてくれた。
触れているのは身体なのに、栞の心にまで手が届いているみたいで──栞の、俺への想いまで伝わってくるようだった。
心も。
身体も。
溶けて、一つに混ざり合う。
俺に欠けているものを、栞が埋めてくれる。
そんな錯覚に、溺れそうになった。
うまくは言えないけれど──
二人で一つの綺麗な球体になっていくような、不思議な感覚だった。
◆side栞◆
涼を受け入れて、私の身体は苦痛を訴える。
絶対に消えない、涼が与えてくれる初めての痛み。悲鳴をあげそうなくらい痛いのに、不思議とそれが心地よかった。
だって、似たような痛みを、私は知ってるから。
涼と話すようになった直後。
初めて言い合いになった時。
あれはたぶん、涼が私の心をこじ開けた痛みだったの。
だから、安心して身を委ねられた。
これは、私と涼の間にある最後の壁が崩れる痛み。この痛みの先に、これまでよりももっと幸せな時間が待ってるって、わかるから。
それにね──
涼はすっごく優しくしてくれるの。
涼だって初めてで、余裕なんてないはずなのにね。
それがたまらなく嬉しくて、でも、ちょっとだけもどかしい。
涼の気持ちを全部ぶつけてほしいって、そんなことを思っちゃう私は変なのかな?
私は、もれる吐息の合間に言った。
「……私は、平気だから。我慢、しないで……もっと、好きにして、いいよ?」
すると、涼は動きを止めて、私の頬に指先を滑らせた。それから、優しいキスが降ってくる。荒い呼吸を整えながら、涼は微笑んだ。
「……十分、好きにさせてもらってるよ。俺がしたいのは、栞を大事にすること、だから」
こんな時まで、涼は涼だった。
……本当に、どうしようもない人。
気が付くと、私はぎゅっと涼にしがみついていた。もっと深く繋がれるように。涼が自分を抑えるのなら、私がその分踏み込むだけだもん。
そうやって、私の好きをもっともっと涼に伝えて──
いつか必ず、涼から。
壊れちゃうくらい愛してもらうの。
そんな未来を夢見ながら、私は涼に身体を揺さぶられていた。
***
全てが終わって、涼はくったりと私の上に身体を預けてきた。さっきまではすごく男の子って感じだったのに、今はなんだか可愛らしい。
それがなんだかとても特別な気がして、私から何度もキスをする。そして、さっきの涼の言葉を思い出した。
……一つになる、かぁ。
最中はそれどころじゃなかったけど、今になって、その意味が少しだけわかった気がする。
涼がいるから、私は私でいられる。
涼がいて、初めて私という存在が確立される。
自分の外側に、そんな大切なものがあるなんて不思議な感覚だけど──
今はそれがしっくりくる。
しばらくして、涼は私の上から降りて、隣にごろんと転がった。
「……栞、大丈夫だった?」
「全然平気だよ。涼は心配性なんだからっ」
「だって、顔歪めてたじゃん。心配くらいさせてよ」
「……ありがと。でも、本当に平気だから。というかね──なんか、すごかったよ。だから、また……しようね?」
「えっ、いやぁ……あはは。まったく、栞は……」
そう言って笑って、涼はそっと私を抱き寄せる。
そのまま、ふわふわと頭を撫でてくれた。
嬉しくて。
幸せで。
緊張の糸が切れたのか、だんだん瞼が重たくなっていく。
「……栞も、疲れたよね。いいよ、寝ちゃっても」
「んぅ……その前に、おやすみのキスして」
「……はいはい」
ちゅっ、と軽く唇が触れる。
眠りに落ちる直前──
「ありがとね、栞。ゆっくりおやすみ」
耳元で、涼が囁いた。




