第88話 預けた理由と、外されたボタン
「……帰って、こないなぁ」
俺は、すっかり空になったグラスをローテーブルに置いた。
栞が風呂に行ってから、すでに一時間半が経過していた。
その間に俺が飲み干した麦茶は五杯。腹の中は、かなりちゃぷちゃぷになっている。風呂上がりの体を冷やすため、というよりは、栞のいない時間を紛らわせるためにちびちびと飲んでいた。
女の子の入浴が時間のかかるものだってことくらい、理解しているつもりだけど──
そうだとしても、いくらなんでも遅すぎる。
思い返せば、さっきの栞の様子もどこか変だったような気がするし。
まさか、さっきのキスのせい……?
栞のことだから、勢いでした後に恥ずかしくなっている可能性は大いにある。俺がもう一回なんて言ったのが、それに追い打ちをかけたかもしれない。
……栞が戻ってきたら、ちゃんと話をしてみようかな。
というか、待てよ。
まさか、逆上せてたりはしないよね?
さすがに心配になった俺は、リビングを出て脱衣所の前へ向かう。ここでいきなりドアを開けるような下手はせず、控えめにノックした。
すると──
「ひょわぁっ?! えっ、な、なにっ、涼っ?! びっくりさせないでよぉっ!」
俺が声をかけるよりも先に、ドア越しに素っ頓狂な悲鳴と、ドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
「あ、いや、そんなつもりじゃ──あんまり遅いから心配できてみたんだけど……大丈夫?」
「う、うん……平気。ちょうど今ね、出ようと思ってたところだから」
呼吸を整えるような息遣いがして、ドアがゆっくり開いていく。そこから姿を現した栞が視界に入った瞬間、俺は思わずごくりと喉を鳴らした。
バッグを胸に抱えて、わずかに俯く栞。
普段よりも肌色面積が多いというか──正直、目のやり場に困る。ほんのりと上気した肌も、妙に艶っぽくて。
「……お待たせ。ごめんね。ちょっと──いろいろと手間取っちゃって」
「ううん……なにもないならよかったよ。とりあえず、もう遅いし歯磨きしちゃおっか」
「あっ、そう……だね。じゃあ……私も」
二人で洗面台の前に並んで、歯を磨くことに。しゃこしゃこと音が響く。時折ちょんと腕が触れ合うと、栞はびくりと肩を震わせた。
……やっぱり、なんか変だよな。
俺が風呂に入る前までは、普通にしてたはずなのに。
口をすすいでリビングに戻ってからも、栞はどこかそわそわとしていた。俺から少し距離を取って、どこか暗い表情で、なにもしゃべらない。
俺は、その空気に耐えられなかった。
楽しかった一日の最後を、栞の笑顔で締めくくれないなんて寂しすぎるから。
「……あのさ、栞」
「な、なぁに?」
「もしかして、俺……自分でも気付かないうちに、栞になにかしちゃったかな?」
「……え、なんで?」
「だって栞……さっきから変だよ。なら、俺のせいって考えるのが自然でしょ?」
「そんなこと──涼は、なにもしてないよ」
「……本当に?」
「うん……なにもないから」
じっと顔を覗き込むと、栞の目が泳ぐ。
どう見ても、なにもない顔じゃない。
「……そっか、わかった」
俺は息を吐き、強引に栞の身体を抱き上げる。
本日二回目の、お姫様抱っこだった。
「えっ、えっ?! なに?! どうしたの涼?!」
栞は目を丸くして、腕の中でじたばたと暴れる。でも、離すわけにはいかない。
「じっとしてて。俺の部屋、連れてくから」
「そ、それって……。あの、その──あぅ……」
顔を真っ赤にして、栞はおとなしくなった。
俺はそのまま、栞を自分の部屋へと運んでいく。壁にぶつけたり、落としたりしないように気を付けながら。
俺のベッドにそっと降ろして、後ろからぎゅっと抱きしめた。栞を、逃さないように。
そして、その耳元で囁く。
「……栞、さ。付き合い始めた日、俺がここでお願いしたこと、覚えてる?」
「涼からの、お願い……?」
「うん。もしなにか思うことがあったら、言ってほしいって。忘れちゃった?」
「……忘れるわけ、ないもん」
「なら、話してくれるよね?」
「……それはずるいよ、涼。そんなの、言わないわけにいかないじゃん」
自分でも、ずるいことをした自覚はあった。
でも、このままにしたくないから。
ずっと栞といるために。
災いの芽になりそうなものは、早いうちに摘んでおいた方がいいと思うから。
「だって、栞がそんな顔してる原因、知らないわけにいかないでしょ?」
「……うぅ、わかったよぉ。でも、あのね。怒らないで、聞いてくれる?」
「うん、怒らない。約束する」
「じゃあ──」
栞はするりと俺の腕の中から抜け出す。それから、履いているショートパンツのズボンに手を突っ込み、なにかを取り出した。
「えっと、ね……。ごめんなさい。これ、開けちゃったの……」
栞の手の平に乗っかっていたのは、見覚えのある鍵。俺が今朝、栞に預けたものだった。
それを開けたということは、つまり──
「……あー。あれ、見ちゃったのかぁ」
思わず、天を仰ぐ。
ここにきて、まさかそんなことになっていたとは。俺自身、栞に預けたことですっかり頭から抜けていた。
「……うん、ごめんね」
「いや、いいんだよ。こうなることを予想してなかった俺が悪いんだし」
「……でも、私、涼の信頼裏切っちゃった。それに──あれを見て、なんだか怖くなっちゃって。遠慮しないで、とか言ったくせに。散々煽ったくせに、私……」
栞の目からぽろぽろと涙がこぼれ始めて、胸が締め付けられるみたいに苦しくなる。俺が軽い気持ちで預けたばっかりに──
「ごめん、栞。やっぱり、悪いのは俺だよ。実はさ……あれ、もしものことがあったら使えって、母さんが置いていったものなんだよ。それで、目の届くところにあると変に意識しそうだからって、鍵をかけて、栞に預けたんだ。だからね──」
「……えっ? 涼が用意したものじゃ、なかったの?」
「そうなんだよ。本当……あの母さんはお節介というか」
帰ってきたら、絶対に母さんに文句を言ってやろう。俺は静かに、心に決めた。
「だからさ、怖がらないでよ。栞が怖がるようなこと、俺はしないから。焦らなくても大丈夫だから」
「でも、でもっ……!」
「いいから。ほら、笑ってよ。栞は笑ってる方が、何倍も可愛いよ。俺はさ、隣で栞が笑っててくれたらそれで満足だから」
「……ばかぁ。涼はいっつも優しすぎるよぉ」
栞はぴょんと抱きついてきて、俺の胸に顔を埋めた。そのまま、なにも言わずに泣いて、俺はそんな栞の頭を撫で続けた。
***
栞が泣き止んだ後、俺たちはベッドに横になって寄り添っていた。指先には、さらさらな栞の髪の感触。栞は小さく息を吐いて、俺の顔を見上げた。
「……ありがと、涼。私、涼に甘えてばっかりだね」
「気にしないでよ。俺がしたくてしてることだしさ」
「もう……本当に、甘い人。でも──」
栞は少しだけ目を伏せる。それから、また顔を上げて俺の目をじっと覗き込んできた。
「ねぇ、涼」
「うん、なに?」
「涼は……私とそういうこと、したいって思う?」
「そ、それはっ……!」
核心を突くような問いに、言葉に詰まる。
けれど、栞はさらに顔を近付けてくる。
「大事なことなの。正直に、教えて?」
真剣な瞳。
逃げ場は、どこにもなかった。
「そりゃ、俺だって男だし……そういう欲求はあるよ。ただでさえ栞は可愛いし、甘えん坊だし、すぐくっついてくるし。なにより、俺、栞のこと大好きだし。いつも我慢するのが大変──んむっ?!」
俺の言葉は、強制的に遮られた。これをされるのは、もう何回目だろうか。
栞の唇が、ぴったりと俺の口を塞いでいた。さらに、唇を割って舌がぬるんと入り込んでくる。
「んっ……。ちょ、しお、りっ?!」
「……んっ、ちゅっ。涼っ……好きっ。はぁ、んっ」
栞に、口内を蹂躙される。
合間にもれる吐息が、甘く溶けていく。
やがて、頭がくらくらし始めた頃、ようやく俺は解放された。目の前にある栞の顔は、これ以上ないくらいにとろとろに蕩けていて──
「涼……。私のお願い、聞いてくれる?」
「……な、なにを?」
「あのね、涼──しよ? 私、涼としたい」
栞はそう言って、パジャマの一番上のボタンをぷつりと外した。




