第87話 好奇心と、預かった鍵の向こう側
◆side栞◆
お夕飯の後、二人でお皿を洗って、お腹が落ち着く頃合いを見計らって、お風呂を沸かし始めた。
「……で、どうしようか? 一応お客さんだし、栞が先に入る?」
「ううん、涼が先に行ってきて。ほら、私お風呂でいろいろやることあるし、時間かかっちゃうから」
ヘアケアとか。
スキンケアとか。
女の子のお風呂は大変なの。
だって、涼に少しでも可愛いって思ってもらいたいもん。ずっと好きでいてもらいたいもん。
でも今は、そんなのただの言い訳だった。
「そう? じゃあ、そうさせてもらおっかな」
「うん、ゆっくり温まってきてね」
「温まりすぎると暑いんだけど……わかったよ」
そうこうしているとお湯張りが終わり、涼は立ち上がる。
「……じゃあ、いってくるよ?」
「うん、いってらっしゃい」
部屋を出ていく前に、涼はちょんと、軽くキスをしてくれた。それだけで、心臓が火を吹くみたいに暴れ出す。でも、どうにか表面上は平静を取り繕った。
手を振って、涼を送り出す。
ぱたんとドアが閉まって、足音が遠ざかっていくのを聞きながら深呼吸。
……すぅ。
はぁ……。
……すぅ。
はぁ……。
うん、効果なしっ!
私、すごいことしちゃったよぉぉぉっ!!
……だって、あんなキス。
ほんのりカレー味で、なのにどこか甘くて、触れ合った舌先が痺れるみたいで。
なんか、ちょっとえっちじゃなかったっ?!
や、やっぱり……この後って、きっとそういう流れになったりするんだよね?
わーっ、わーーーっ!!
私は両手で顔を覆って、ソファの上に突っ伏した。
うぅ……ドキドキするよぉ。
……私も、今のうちにお風呂の準備しとこうかな。
リビングの片隅に置かせてもらっていた、お泊りセットの入った私のバッグ。それを引き寄せて、中身を漁る。
確か、パジャマと下着は底の方に入れておいたはず──
「……あっ」
不意に、手がバッグのポケットの中の硬いものに触れた。そこには、涼から預かった鍵がしまってある。
そういえば、これって結局なんの鍵だったんだろ?
大切なもの、って言ってたけど。
涼からはなにも聞かずにと言われたのに、好奇心が疼いた。取り出して、じっと見つめてみる。
なんてことはない、簡素な作りの鍵。
でも、どこか見覚えがあるというか、私も似たようなものを持っている気がするいうか。
これってたぶん、机の引き出しの鍵、だよね?
涼がそこになにかを隠してる。
そう思うと、もう自分を抑えられなかった。
私はこっそりと、リビングを抜け出した。
お風呂場に続く脱衣所のドアの前で耳を澄ます。中からは、シャワーの音が聞こえてきた。
……身体でも、洗ってるのかな。
そっちはそっちで覗いてみたくなったけど、誘惑を振り切って階段に足をかける。ギシッと床がかすかに軋んで、私は動きを止めた。
ダメダメ。
音を立てたら、涼に気付かれちゃう。
もっと慎重に、忍び足で涼のお部屋に侵入する。
悪いことをしてるって自覚はあるのに、なぜか胸が踊った。
そうしてたどり着いた机の前。一番上の引き出しには、予想通り鍵がかかっていた。預かった鍵を差し込んで回すと、カチャリと音が鳴る。
……ごめんね、涼。ちょっとだけ、見せてね。
心の中で謝って、そっと引き出す。
最初に見えてきたのは、乱雑に詰め込まれた文房具類。さらに引き出していくと──
一番奥に、それはあった。
手の平よりも少し大きな、長方形の箱。
それがなにかくらい、私にもわかる。
これが、涼の隠してたもの……?
……うそ。
それが視界に入った瞬間、身体から力が抜けて、私はその場にぺたんとへたり込んだ。
覚悟、決めてきたはずなのに。
そういう関係に進みたいって、思ってたはずなのに。そのために、ちょっとだけ色仕掛けする用意だってしてきたのに。
どういうわけか、私は少しだけ怖くなっていた。
これまでは、ふわふわした妄想みたいなものだった。それが今、現実感を伴って目の前に現れた。
浮かれていた気分は、きれいさっぱり消え去ってしまった。浮かれすぎて、こういう現実的なことをまったく考えてなかった自分にも愕然とした。
……どうしよ。
本当に、しちゃうのかな。
でも、待って。
なんで涼は、これを私に預けたの?
そういうことを、しないため?
私って、涼から見たらそういう魅力ないのかな……。
それとも。
私に判断を委ねるため?
なら、なんの鍵がくらい教えてくれてもいいはずだし……。
急に、涼のことがわからなくなった。
今日だけで、新たに涼の素敵なところをたくさん見つけたのに。いっぱい涼のことを知れたと思ったのに。
……と、とにかく、元に戻しておかなきゃ。
私は震える手で引き出しを押し込み、鍵をかけた。それから、また忍び足でリビングに引き返す。
ソファに身体を沈めて、じっと震えを抑え込んで。一緒に寝る約束をしたことを、今さら後悔する。
ちゃんと涼と向き合いたいのに。
恋人らしいことを積み上げていこうねって、約束したのに。
好きって気持ちだけじゃ、足りなかったのかな。
どうしたら、怖くなくなるのかな。
その前に、涼がどう思ってるのかも知りたいけど──
見ちゃった、なんて言えないし。
こんなことなら、好奇心に負けなきゃよかった。そうすればきっと、もっと自然に明日の朝を迎えられたかもしれないのに。
ぐるぐると思考が同じところを回り始めた直後──
リビングのドアが開いた。
「栞、お待たせ。風呂あいたよ」
「お、おかえり」
声が裏返りかけた。湯上がりの涼がなんだかいつもより色っぽくて、つい意識しちゃって。
今の私には、刺激が強すぎた。
なのに、涼はそんなのまるで気にせずに近付いてくる。
「どうしたの? 待ってる間に、眠くなっちゃった?」
優しい声。それが、私の罪悪感を煽る。
頭がパンク寸前に追い込まれた私は──
「わ、私もお風呂、行ってくるね!」
「え、うん。いってらっしゃい……?」
思わず逃げ出した。バッグを手に取り、脱衣所に駆け込む。ドアをしっかり閉ざして、またへたり込んだ。
バッグの中にあるのは、ちょっぴり露出多めのパジャマと、ほんの少しだけ攻めたデザインの下着。どちらも、今日のために新調したものだった。
一応、明日用と明後日に着るつもりの服もあるけど……寝るのには相応しくないし。
つまり、この下着とパジャマを着て出ていくしかないわけで。そんなの、完全に私から誘いにいってるようにしか見えないわけで──
……。
あぁもうっ!
この後どうしたらいいのぉっ?!
声にならない私の叫びは、誰にも聞かれることなく、胸の内で大きく響き渡った。




