第86話 初めてのキスは、カレーの味
キッチンから、無機質な電子音が響いてきた。
炊飯器が、米の炊き上がりを告げるものだった。
栞はまだ、俺の膝の上。ずっとお姫様抱っこスタイルでいるのかと思いきや、なぜか途中で体勢を変えて、俺の膝に跨っている。
昼間は俺の足が痺れるからとすぐに降りてくれた栞だったが、そんなことはすでにすっかり忘れてしまっているらしい。この世の幸せが全部ここにあるみたいな顔をして、俺にしがみついていた。
「……栞? 米、炊けたみたいだけど?」
「やっ、離れたくないのっ」
栞はすっかり駄々っ子になってしまったようだ。普段のしっかり者の栞はどこへ行ってしまったのやら。
理性を削られながらも、なんだか幼い子供をあやしているような気分になる。ぷっくり膨らんだ頬に指を滑らせると、栞の口からぷすっと空気が抜けた。
「またお腹が鳴っちゃうかもしれないけど、それでもいいの?」
「やだぁっ。というか、忘れてって言ったのにぃ!」
「それこそ無理な話だよ。だって、栞のことはどんな小さなことでも覚えておきたいし」
「……もー、その言い方はずるいよ。でも──涼もお腹すいたよね。あんまりわがまま言って、涼を困らせちゃダメだよね」
「お腹すいたよりも、今は出来栄えが気になるかなぁ。味見とかしてなかったし」
「そういえばしなかったね、味見。じゃあ……ご飯にしよっか?」
「うん、そうしよ」
膝からぴょんと栞が飛び降り、俺もソファから立ち上がる。一緒にキッチンに向かい、栞が炊飯器の蓋を開けると、むわりと炊きたての米の匂いが立ち昇った。
「いい感じに炊けてるね。私カレー温めるから、涼はお皿の用意してくれるかな?」
「おっけー、任せて」
食器棚から、二人分の皿を取り出していく。カレー皿と、サラダ用の皿。スプーンと、フォークも。ついでに、冷蔵庫からドレッシングも出しておく。
そんな俺を見て、栞が微笑む。
「涼はきっといい旦那さんになるねぇ」
「……どうしたの、突然?」
「だって、私が言ったことだけじゃなくて、いろいろ考えて準備してくれるんだもん」
「そりゃするでしょ。俺だけ座って待ってるなんてできないじゃん」
「ふふっ、そういうところだよ」
俺としては、当たり前のことを当たり前にしているだけ。けれど、栞はそれがお気に召したらしい。
意味はよくわからないけど、喜んでくれるなら俺も言うことはない。
二人でそれぞれの皿に米をよそって、カレーをかけて。サラダを盛り付けたら、ダイニングテーブルに運んでいく。
昼食の時と同じように、向かい合わせで──
と思ったら、栞が隣り合わせに並べ直していた。
「……あれ?」
「えへへ。なんかね、こっちの方がいいかなって。やりたいことも、あるしね」
「やりたいことって?」
「すぐにわかるよ。いいから座って」
「……うん」
素直に椅子に座ると、栞は俺の方へ少しだけ椅子を寄せてから腰を下ろす。肩が触れ合うくらいの距離で。食べやすさを考えると、もう少し離れた方がよさそうだが。
「「いただきます」」
同時に手を合わせ、スプーンを持ち上げると──
「はい、涼。あーん」
目の前に、もう一本のスプーンが差し出された。そこには、一口分のカレーが乗せられていた。
「……えっ?」
「だからぁ、あーん……して? 最初の一口目は、私が食べさせてあげたいのっ」
あぁ、なるほど。
栞がしたかったのはこれだったのか。
……まったく、栞は。
甘えてきたかと思ったら、甘やかしてきたりして。その切り替えの速さに、俺は振り回されっぱなしたっていうのに。
でも、ここで食べない選択肢はない。口を開くと、そっとスプーンが入り込んできた。そして、口の中にカレーを残して去っていく。
食べ慣れた、市販のルーの味。けれど、ゆっくりと噛みしめると、これまで食べたどんなカレーよりも美味しく感じた。
「涼って、本当に美味しそうに食べてくれるよね」
「いや、実際美味しいよ」
「やっぱり、自分で作ると違う気がするよね。特別っていうか」
その栞の言葉に、少しだけ引っかかりを覚えた。もちろん、そういうのもあるだろうけど──
「……たぶん、それは違うよ。なんていうか……栞と一緒に作ったから、なんだと思う。それか、栞が食べさせてくれたからかも」
栞はぱちりと瞬きをして、ふにゃりと笑う。それからなにも言わずに目を閉じて、小さく口を開いた。
今度は涼が食べさせて。
言葉はなくても、表情がそう言っていた。
少しだけ照れくさいが、親鳥にエサをねだる小鳥のような顔を見ていると、自然と手が動いていた。
「……えっと、じゃあ栞──あーん」
「あーむっ!」
ぱくりとスプーンを咥えた瞬間、栞の顔が蕩ける。うっとりと頬を緩ませながら、もぐもぐと動く口。
栞はしっかり全てを飲み込んでから口を開いた。
「んー……美味しっ! 涼の言った通りだね。私一人で作った時よりも、全然美味しいよ」
「……だよね」
頷くと、わずかに赤く色付く栞の頬。
俺もたぶん、同じことになっているのだろう。
「えへへ。楽しいね、涼?」
「うん、楽しいよ」
「……でも、ずっとこんなことしてたら冷めちゃうよね。もう普通に食べようか」
「そうしよっ──あ、ちょっと待っ」
止める間もなく、栞は自分の皿からカレーを掬い、口に放り込んでいた。
「……どしたの?」
こくんと喉を鳴らした栞が、こてんと首を傾げる。栞は、なにもわかっていなかった。
「いや、だって──それ、俺が口に入れたスプーン……」
「……あっ」
栞が固まる。さっきの比じゃないほど、顔が耳まで真っ赤に染まった。
「……べ」
「べ?」
「別に、これくらい平気だもんっ! 涼となら、これくらいっ。変なこと気にしてないで、涼も食べてよ! 冷めちゃうって言ったでしょっ!」
「……え、あ、うん」
俺の手には、栞が口にしたスプーンが握られている。それに視線を落として、俺は息を呑んだ。
数え切れないほどキスをしておいて今さらだが、間接キスと言っても、これはもっと深い感じの──
当たり前だが、嫌悪感なんて欠片もない。
ただ、変に意識してしまって落ち着かない。
生々しい想像が頭をよぎる。
隣を見れば、栞は相変わらず真っ赤な顔で、黙々と食べ進めている。だから、俺も栞に倣う。
さっきまでの空気が嘘のように、妙に気まずい時間だった。
どうにか食べ終えて食器をシンクに運ぶと、後ろからちょこんと服を摘まれた。反射的に振り返った直後──
栞はぐんと背伸びをして。
俺の首に腕を回して。
唇を押し付けてきた。
さらに。
ぬるん、と口の中になにかが侵入してくる。
柔らかい感触は、唇だけじゃなくて──
ほんの一瞬で、栞は俺の胸をとんっと押して離れていった。
「ほ、ほらねっ。こんなことしたって、全然大丈夫なんだからっ」
「……あぇ?」
突然のことすぎて、頭が真っ白になる。
その隙間に、栞の声が入り込んできた。
「……もしかして、涼は嫌、だった?」
ようやく、なにをされたのか理解した。
これは、俺たちの初めてのキスだった。
「……嫌、じゃないと思う。でも、急だったから、よくわかんなかったかも。だから……もう一回、してみてよ」
「しょうがないなぁ……。あと一回、だけだよ?」
今度は、さっきよりもほんのちょっとだけ長く。
舌先同士が、ちょんと触れ合って──
ほんのりと、カレーの味がした。




